太田述正コラム#9501(2017.12.4)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その4)>(2018.3.20公開)

 「ヤン1世オルブラフト<(注10)>(在位1492~1501)治世の1493年、ポーランドで初の全国会議(国会に相当)が開かれた。

 (注10)John I Albert(1459~1501年)。「1490年、ハンガリーの貴族階級は・・・議会においてヤンをハンガリー王と宣言したが、この決定は兄のボヘミア王ウラースロー2世によって退けられ、ウラースロー2世がハンガリー王に即位した。1492年、父の死によりポーランド王位を継承した。一方、弟アレクサンデルのリトアニア大公位継承に伴い同君連合が一時的に解消されたことで、ポーランド国家財政は著しい損害を受けたため、地方の下級貴族(シュラフタ)の牙城であるセイミクのような地方議会の激しい敵意を招き、補助金を国王による彼らへの追従姿勢によって捻出する傾向が強まった。・・・
 子供が無かったため、王位はアレクサンデルが継承、ポーランドとリトアニアは再び同君連合となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_I_Albert (上掲はこの翻訳。)

 これ以降、重要議題・問題は、王、元老院、下院の三者によって決められるようになった。

⇒ヤン1世についての英語ウィキペディア(上掲)には全く「全国会議」や「重要議題・問題は、王、元老院、下院の三者によって決められるようになった」的なことへの言及がありません。
 ポーランドにおける議会の起源については、、シュラフタは何ぞや、ということと共に、後で改めて取り上げたいと思います。(太田)

 加えて1505年にはニヒル・ノヴィ法が可決された。
 ヤン1世の次のアレクサンデル<(注11)>(在位1501~06)がラドムで次のように宣言したことからこの名がある。

 (注11)Alexander Jagiellon(1461~1506年)。「アレクサンデルは国家歳入の不足を解消するため、元老院やシュラフタらの貴族層に低姿勢を取り続けた。このことは国王から貨幣鋳造権をはじめとする諸特権を奪い、国王を従属的な立場に追い込もうとする貴族階級に有利に働いた(このためアレクサンデルの治世はポーランドの歴代国王の中で最も歳入の多い時期の一つだった)。・・・
 ヤギェウォ朝の中で、先祖伝来の母語であるリトアニア語を話せた最後の統治者となった。アレクサンデルの死後、王家のメンバーは全てポーランド語を母語とする人物になり、ヤギェウォ朝のポーランド化は決定的となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Jagiellon (上掲はこの翻訳。)

 これ以降、のちの世に至るまで、元老院と下院の同意なく、私と私の後継者はいかなる新しいことも決議しない・・・<、と>。

⇒この話も、アレクサンデルについての英語ウィキペディアには全く言及がありません。(太田)

 下院を構成するシュラフタ(中小貴族)は、アレクサンデルの次のジグムント1世スタリ<(注12)>(在位1506~48)が下院を軽視したり、高僧やマグナト(大貴族)から成る元老院を優遇したことから、適正な「法の執行」を要求した。・・・

 (注12)Sigismund I the Old(1467~1548年)。(スタリ=スタルイ=老王。)「兄アレクサンデルの死後、ヴィリニュスの貴族会議によってリトアニア大公に推され(1506年10月20日)、さらにピョトルクフで開かれたセイム(議会)においてポーランド王に選ばれた(1506年12月8日)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96
https://en.wikipedia.org/wiki/Sigismund_I_the_Old (上掲はこの一部の翻訳。)

 1537年・・・ジグムント1世はモルダヴィア遠征に際し、シュラフタに総動員令をかけた。
 これに対しシュラフタは、リヴィウ(・・・現在のウクライナ西部の都市)近郊に武装終結し、王の独裁的決定に抗議した。
 この一件は、終結したシュラフタが長期にわたって大量の鶏肉を消費したことから、「鶏戦争」の名で呼ばれる。
 結局、王は総動員を撤回せざるを得なかった。シュラフタの矜持をイデオロギー的に支えるものがあった。
 「サルマティズム」<(注13)>という政治的・文化的意識である。

 (注13)「16世紀から19世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサックの生活様式や思想などにおいて支配的だった文化現象。いわゆる共和国の「黄金の自由」時代と共に興隆した。貴族階級が自らを東欧から中央アジアにかけて活動し多文化主義の社会(チェルニャコフ文化)を構成していた古代スラブの地に定住した遊牧民「サルマタイ人」の出自との確信から、東方地域に影響された特異な文化を形成した。・・・
 現代のポーランドでは、このサルマティズムは皮肉の自我(自己意識)またはポーランド人の性格の同義語として使用されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0

 これは自分たちの祖先が勇猛果敢なサルマート人<(サルマタイ人(コラム#462、565)>(イラン系騎馬民族)であるとする説に基づく、東方文化に影響を受けた独自の思想・文化である。」(17~18)

⇒英語ウィキペディアのジグムント1世評価は、渡辺よりも前向きです。↓
 「貴族たちが1537年、鶏戦争と呼ばれる反乱を起こした時も、国王は彼らの要求する改革の放棄を頑として拒んだ。1525年にはドイツ騎士団との戦争が終結し、ジグムント1世は騎士団総長で甥でもあるアルブレヒトを臣従させ、騎士団領を世俗国家のプロイセン公国としてポーランド王国の保護下に置いた。いわゆる「プロイセンの臣従」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96 (前掲)
 アルブレヒト以下、騎士団はルター派に改宗し、法王及び皇帝双方に敵対することとなったため、ジグムントに庇護を求めたという背景がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sigismund_I_the_Old (前掲)
 渡辺は、このあたり、王権がどんどん制限されていったことが一つの大きな要因となって後に暗転するポーランドの運命が念頭にあり過ぎて後付け的記述を行ってきている可能性があります。
 その気持ちは分からないでもありませんが・・。(太田)

(続く)