太田述正コラム#9537(2017.12.22)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その18)>(2018.4.7公開)
「ピウスツキは戦後の社会主義時代には糾弾されるか無視されるかであったが、1991年の共産政権崩壊以降は、建国の父として再評価されている。
⇒ボルシェヴィキと戦ったし、ユダヤ人迫害も行わなかったのだから、冷戦終焉/ソ連崩壊、以降、「再評価」されて当然でしょうね。(太田)
1920年代後半から30年代にかけての政情不安は、世界恐慌でいっそう混乱した。
農業国ポーランドはもろに恐慌の影響を受けるかたちとなった。
影響は工業にも及んだ。
質量も深刻で、1935年には4割に達した。」(82)
⇒欧州限定の民族自決を使嗾すること(コラム#省略)で独立ポーランド(等)を生み出し、かつ、ドイツへの天文学的賠償金の賦課に同意することでドイツの復仇論者をも族生させ(コラム#省略)、更にまた、世界大恐慌をもたらしたことによって、世界を大混乱に陥れ、第二次世界大戦を必然たらしめた(コラム#省略)ところの、米国の無責任さに、改めて強い怒りの念を覚えます。(太田)
「エスペラントとは、ユダヤ系ポーランド人眼科医のルドヴィク・ザメンホフ<(注43)(コラム#4354、8760)>(1859~1917)が創案し、1887年に発表した計画言語(人工語)である。・・・
(注43)「医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。・・・一男二女に恵まれたが、いずれもホロコーストのために命を落としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%95
<これ>には、彼が生まれ育った環境が影響していた。
彼は帝政ロシア支配下のポーランドの都市ビュウストク<(注44)>に生まれた。
(注44)「ビャウィストク<(ビュウストク)は、>・・・ポーランド北東部最大の都市である。・・・第二次世界大戦初頭のポーランド侵攻で、独ソはポーランドをほぼカーゾン線にそって分割したが、カーゾン線の内側のビャウィストク周辺は例外的にソ連に占領された。戦後はカーゾン線がほぼソ-ポ国境となり、ソ連占領地帯の大半はソ連領となったがビャウィストク周辺はポーランド領に復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%AF
「カーゾン線<は、>・・・1919年にイギリスの外務大臣ジョージ・カーゾン卿によってポーランドとソビエト・ロシアの東部国境線の案が提唱された。これがカーゾン線である。カーゾン線は、イギリスがかつて承認した、第三次ポーランド分割後のプロイセンとロシアの境界に近いものであった。カーゾンの案にはA案とB案があり、B案ではリヴィウをポーランド領とする案になっていた。またこれはカーゾンの意図しないことだったが、この線の西側はローマ・カトリックを信仰するポーランド人が多数派を占め、一方この線の東側ではポーランド人以外の住民が半数を上回り正教会が主に信仰される地域となっていた。・・・第二次世界大戦後のポーランドの東部国境は、ほぼこの線の位置にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%B3%E7%B7%9A
<それは、>ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ(主として東欧系ユダヤ人により用いられた、ドイツ語の変種)などを母語とする多民族が住む街であり、しかも互いの民族が敵対していた。・・・
ザメンホフは、言葉の違いが対立の原因と考え、互いに共通の言語があれば、この問題も解決されるのではないかと思ったのだった。・・・
エリエゼル・ベン・イェフダー<(注45)>は先祖が使っていたヘブライ語に、英語やアラビア語を取り入れつつ、現代に再生させることで、現代ヘブライ語を”創造”したのであった。・・・
(注45)1858~1922年。「ロシア帝国領だったリトアニア・・・現在はベラルーシ領の北部・・・からパレスチナに移り住み、ほぼ独力でヘブライ語を話し言葉として現代に復活させた。・・・元の名前は、エリエゼル・イツハク・ペレルマン(Eliezer Yitzhak Perelman)であったが、彼は自分の名前もヘブライ語にした。ベン・イェフダとは「ユダの子」(ユダヤ「ヤコブの子ユダ」が元、西岸南部)という意味である。彼の息子ベン・ツィオンは生まれて数年間はヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話す最初の人物となった。・・・医学を学ぶため、パリのソルボンヌ大学に留学するが、そこで彼が最も関心を持ったのはヘブライ語のクラスであった。そのクラスではヘブライ語で授業が行われており、このことはヘブライ語を日常言語として復活させるというベン・イェフダーの決意を固めさせた。・・・1919年、オスマン帝国に替わりパレスチナを治めていたイギリスの委任統治当局は、ヘブライ語をパレスチナにおける公用語の一つと宣言するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%80%E3%83%BC
リトアニアに生まれた現代ヘブライ語は、計画言語が数百万人の言語となり得ることを示している。
このことは同時に、やはり計画言語は国家語として採択されることがなければ、機能することは容易ではないことを示している。」(86~87)
⇒ザメンホフもイェフダーも科学者とは必ずしも言えないわけですが、ドイツ語圏からはユダヤ人の理系文系の科学者群が夥しく輩出した(典拠省略)というのに、広義のポーランド語地域から出現した名の通ったユダヤ人科学者はノーベル賞授与経済学者のハーヴィッツくらい(コラム#4354)なのは興味深いですね。
ハーヴィッツはともかくとして、ポーランド語を母語とする科学者と言えば、キュリー夫人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC
がとび抜けて有名ですが、彼女は、学士号や博士号、つまりは、高等教育はフランスで受けています。(上掲)
それに、科学部門で(しかも2回ですが)ノーベル賞を授与されたポーランド語を母語とする科学者は、いまだに彼女一人にとどまっています。
http://japoland.pl/blog/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85/
(ちなみに、昔の人物であるところの、コペルニクスはドイツ系ポーランド人です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9 )
ユダヤ人と雖も、環境の影響を受けるのは避け難いようですね。
ちなみに、うっかりしていて、これも気付かなかったのですが、ポーランド語を母語とするノーベル文学賞授与者は、シェンキエヴィッチ以外に2人いるんですね。
http://japoland.pl/blog/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85/ 前掲(太田)
(続く)