太田述正コラム#9651(2018.2.17)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その2)>(2018.6.3公開)

 「久米邦武<(注2)コラム#5729)>・・・によれば、東西いずれの政治社会もその出発する価値を「仁義」に置くが、両者の間には「徳礼ト政刑ノ別」があるという。

 (注2)「<肥前>佐賀藩士・・・の三男として生まれる。1854年(安政元年)16歳の時、佐賀藩校弘道館に入り・・・5年後に卒業。・・・1862年(文久2年)、25歳の時藩命により江戸に出て昌平坂学問所で古賀謹一郎に学んだ。翌年帰藩してからは弘道館で教鞭をとった・・・<維新後、>太政官政府(明治政府)に出仕。・・・1871年(明治4年)、・・・岩倉使節団の一員として欧米を視察。・・・1873年(明治6年)9月に横浜に到着。・・・帰国後に、太政官の吏員になり、・・・<そ>の修史館に入り、・・・「大日本編年史」など国史の編纂に尽力する。
 1888年(明治21年)、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任、・・・修史事業に関与する。在職中の1892年(明治25年)、・・・雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した(久米邦武筆禍事件)。1895年(明治28年)、・・・東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、1922年(大正11年)に退職するまで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E9%82%A6%E6%AD%A6
 洋画家の久米 桂一郎は息子であり、邦武の支援で仏留、現地で同じく洋画家の卵であった黒田清輝と友人となり、帰国後、一緒に活動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒将軍家・御三家の直参
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E5%8F%82-72602
以外の諸藩の武士達にとって、藩校と昌平坂学問所、が、それぞれ、いかなる存在であったのかについての、一つの典型的事例だと思われますが、久米に関しては、いわば、高校・大学教養課程、と、学部・大学院、的なものだったわけです。(太田)

 すなわち、「西洋」社会が「瘠薄」な風土からくる「強剛」な人間気質を反映して、「性悪」に基づく「法」、「法律」による政治を行うのに対して、「東洋」では「豊饒」な地風と「寛柔」な人々を前提に、「性善」に基づく「教」による「礼」的な秩序維持が政治の内容となる<、とした>。

⇒久米にとって、「東洋」とは、もっぱら支那及び日本のことだったと想像されますが、支那と日本の「政教」に係るそれぞれのホンネは似て非なるものであったことに、幕末から維新期にかけての、久米等の日本の識者達らは気付いていなかったのでしょうね。
 支那においては、久米の念頭にあったらしい儒教(儒家)的政教論はタテマエに過ぎず、唯物論と平和志向の墨家<(コラム#1640、1681、4858、6956、6967、7177、7298、7299、7625、7652、7658、7662、7744、7994、8641)>的政教論こそがホンネであった、と私は見ているわけであり、このような支那と、人間主義(と人間主義的非人間主義)に立脚した日本のタテマエとホンネが一致した政教論、とは全く異なるわけですが・・。
 なお、かかる言説は、いつの時点で述べられたものかが重要ですが、すぐ後に出てくる川田の言説紹介の典拠は原典が引かれ、その原典上梓年が1890年だと分かる(508)のに対し、久米のこの言説については、二次典拠しか引かれていないため、その二次典拠の上梓年たる2001年しか分からない(508)のは残念です。(太田)

 川田剛<(注3)>も・・・「西洋政教」が「政教」を「二途」に分離させ、さらにその教が「政事を外して」専ら「治心」を目指す「宗教」であるのに対して、東アジアの「政教」は「倫理」から「治國平天下」まで説く「名教」であって、心を治めるだけでなく「政事」も治めるとする。

 (注3)川田甕江(おうこう)(1830~96年)。父は備中の回船問屋。「佐藤一斎らの下で学び・・・近江大溝藩<を経て、>・・・備中松山藩<の儒者となる。>・・・<維新後、>太政官に出仕して・・・修史館に入<り、>・・・<やがて>東京帝国大学教授とな<り、後に、>・・・東宮(後の大正天皇)の侍講に任じられ<る。>・・・
 歌人で住友財閥の要職を務めた川田順は三男にあたる。また玄孫(孫の孫)には元歌手の佐良直美がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E7%94%95%E6%B1%9F

 名分に関する教えは、道徳上の教、人倫の教であり、それは修己から治人へ、人間個人から社会、国家、そして世界の秩序までを治める<、と>。<(1890年)>」(8~10)

⇒前段は、私のキリスト教、とりわけカトリシズム、観(コラム#9645)と同じですね。
 なお、久米や川田の、かかる二分論は、マクロ的に見て、日本における、人間主義と人間主義的非人間主義のうち、前者を支那の政教、後者を欧米(西洋)の政教、の理解に援用したのであろう、というのが私の理解です。(太田)

(続く)