太田述正コラム#9663(2018.2.23)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その8)>(2018.6.9公開)

 「18世紀後半の時代、日本の各地域で「造士」が課題となるのは、かつて戦時状態を前提とした強力な名君主導の政治から、平和的安定期が長期化し、藩の政治が家老・相談役などの協力によって行われる官僚政治へと変化し、それが定着し、さらにその弊害が現れ始めることと無縁ではない。
 たとえば、江戸時代初期の岡山藩主の池田光政<(注14)>1609~82)が熊沢蕃山<(注15)(コラム#6831)>を、会津藩主保科正之<(注16)(コラム#52、373Q&A、444、7073、9047)>(1611~72)が古川惟足<(注17)>や山崎闇齋<(注18)(コラム#1626、1632、1648、6831、8663)>を、水戸藩主の徳川光圀<(注19)(コラム#2861、4149、4168、8302)>(1628~1700)が朱舜水<(注20)(コラム#8522)>を登庸して、いわゆる名君主導型の政治を展開したのに対して、享保年間頃を境にした後期以降は、行政機構や文書管理が整備され、多くの藩政改革が藩の吏僚の協力のもとで行われている。

 (注14)「播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。・・・水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。・・・儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘した。寛永18年(1641年)、全国初の藩校・花畠教場を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。・・・<また、>神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
 (注15)1619~91年。京都の浪人の長男として生まれる。「中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。・・・幕府<(保科正之)>と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去<らざるをえなくなり、その後、>・・・幕府の政策、特に参勤交代や兵農分離を批判<するに至った。>・・・幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。また、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
 (注16)「陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。・・・
 熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。・・・
 <そして、>他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが<、蕃山は、>藩政への積極的な参画を避け<ざるをえなくなったし、>・・・儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に配流された。・・・
 <また、>山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱え<、>・・・神仏習合を排斥して領内の寺社を整理し<、自身、>神式で葬られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B
 (注17)1616~95年。「江戸日本橋の魚商に養子に入り家業を継いだが、・・・京都へ出て萩原兼従の門に入って吉田神道の口伝を伝授され、新しい流派・・・吉川神道・・・を開いた。その後江戸に戻り将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、1682年(天和2年)幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%83%9F%E8%B6%B3
 「吉川神道は、官学、朱子学の思想を取り入れており、神儒一致としたうえで、神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした「行法神道」と天下を治める理論としての「理学神道」に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。そのうえで神道を宇宙の根本原理とし、国常立尊等の神々が、すべての人間の心の中に内在しているという神人合一説を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93
 (注18)「齋」については、伊藤仁「齋」の時と同様の疑問がある。
 (注19)「寺社の破却・移転などを断行<するとともに、>・・・神仏分離を徹底させた。・・・神社については、<いくつかの神社>の修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。<また、>、明の遺臣・朱舜水を招く<が、>朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。・・・<但し、>浄土真宗願入寺15世如高の娘を養女とした<ほか、>・・・僧・日乗らと交流し、・・・仏教に<も>心を寄せて<は>いた・・・
 光圀の学芸振興<は>「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えた・・・が、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった<ことから、>・・・単純に「名君」として評することはできない。・・・
 なお、水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に定府しており、帰国は申し出によるものであった(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 (注20)1600~82年。「舜水の学問は、朱子学と陽明学の中間にあるとされ、理学・心学を好まず空論に走ることを避け、実理・実行・実用・実効を重んじた(経世致用の学にも通じる)。光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、・・・光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4

⇒池田光政はともかく、どちらも徳川家康の孫にあたるところの、保科正之は思想弾圧の点から、徳川光圀は非人間主義的統治の点から、名君の名には到底値しません。
 家康は、歴代将軍を含め、直系の子孫に余り恵まれたとは言えず、徳川幕府が長く続いたことが、むしろ不思議な感さえあります。(太田)

 行政文書が整備され、いわゆる文書行政が確立されたのは、諸役所の多分化した機構が、平時の行政組織としての内部的整合性を保つためにも「先例」「古格」参照を必要とするようになったためであろう。
 人事移動に伴って、継続する業務の一貫性を戒慎訓示によって促されもするが、しかしこれが可能となるためには、行政文書の整理と蓄積が必要条件であった。
 しかしこのような政治行政形態の変化の一方で、現実の家臣団には固定化した家格世襲制の弊害が現れ、行政を担いうる資質さえ備えない人材が溢れていた。」(71~72)

⇒眞壁のこのくだりについては、典拠が付されていないことと、「ためであろう」という書きぶりから、彼の推測なのでしょうが、どうせ推測するのなら、私なら、戦国時代において、肥大化していた、主として軍事、従として行政、を行ってきたところの、武士達の中で、平時化に伴い、自発的或いは強制的に帰農等をした者達も相当数いたではあろうけれど、にもかかわらず、残った武士達は、やることが著しく減少してしまい、一体、何に生きがいを見出したらよいのか、という根源的課題に直面するに至ったのではないか、と推測するところです。
 (この課題に、例えば、幕府においては、江戸町奉行の南北交代制等、ワークシェアリング方式で、それなりに対応した(典拠省略)わけですが、そんなことでは、この課題の根本的解決にはならなかったであろうことは、皆さんも想像できるのではないでしょうか。)
 そこで何が起こったのかですが、それは、は次回のオフ会「講演」に譲ります。(太田)

(続く)