太田述正コラム#9665(2018.2.24)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その9)>(2018.6.10公開)

 「<古賀>精里<は、>・・・「選士法議」<・・「学校」という記述が複数出てくることから、藩校>弘道館<(注21)>設立の天明元<(1781)>年以後の上書とも思われるが、現時点では<作成年を>特定できない。<・・>で・・・「文武と御政事」、あるいは「文武と行事」がまったく無関係になっていること<を>批判<している。>・・・

 (注21)「1781年(天明元年)、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が古賀精里(儒学者)に命じ、・・・設立した。
 設立にあたり、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとした。鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、成功した改革と藩校の関係を学ばせた改革の秘訣は「改革の担い手となる人材の育成」にあった。鶴山自身も、鍋島治茂の許可を得て、幕臣の大田南畝(蜀山人)、広島藩の頼春水ら学者と交流を深め、親しい間柄になるとともに、安永年間には、近江・美濃・尾張・河・陸奥・出羽江戸・上総・下総・上野・下野・信濃・大坂・山陽諸国を、天明年間には、肥後・薩摩・江戸・北陸及び山陰諸国・筑前・長門・近江・京都・伊勢・尾張・大坂・山陽諸国を遊歴し、他藩の改革事例を収集し、諸国の実状の把握に努めた。古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E9%81%93%E9%A4%A8_(%E4%BD%90%E8%B3%80%E8%97%A9)

⇒次回のオフ会「講演」の「主役」とも言うべき、熊本藩の藩校「時習館」をモデルに佐賀藩の弘道館が設立された、ということを覚えておいてください。(太田)

 「役人」と「学者」とは別々に立ち、一方では、学問に無関心で「大理ニ暗ク」「小智」だけしか用い得ない「役人」が、他方には、書籍を読むばかりで「実行」のない「学者」が、互いに愚弄し合っている。
 しかし「双方より歩ミ寄」って「実行」と「道理」「吟味」が同時に為されるならば、藩政は改善され、風俗の刷新にもなろうと云う。
 もちろん、彼は他<の上言>に<おいて>も、「諸役人」の<社会的適性化>のために賞罰厳明にする家臣の評価制度・・・や、「諸役所」の人員削減を提言する・・・。
 しかし、賞罰による評価までもが家格に応じて「例格」のようになってしまっている現状を踏まえれば、より抜本的な藩政改革家として、社会的地位や役職を世襲するのではなく、家臣を個人の業績や知識、才能によって<選別化>する、<ルール>が制定されなければならないというのである。・・・
 その「選士」の具体的な方法は、推薦制であり、各「師道」からは門人より優秀な人物を、また家臣団の与(くみ)の中からはその統率者である与頭が人物を選んで、諸役所に推薦して予め登録しておき、役人交代の際にその候補者から採用するというものである。・・・
 その推薦の際にも基準を設け、「行跡」「学問」「才」「藝」の四段階によって「士」を「選」ぶ。
 精里の政策案によれば、とりわけ「行跡」を重視し<た。>」(75~77、532)

⇒「選士法議」が藩校が設立された後に上書されたということは、その内容が藩校には反映されていないということを意味しますし、「選士」に藩校での成績・・精里の唱える、「行跡」「学問」「才」「藝」の総合成績とも言える・・を用いるべきではない、としているに等しい精里の主張は、(自分の提言が反映されると否とを問わず)藩校の存在意義を否定するもの、と受け止められても致し方ありますまい。
 そもそも、理想的な「役人」、なんぞではなく、理想的な「武士」、の育成を目指したところの、「時習館」等、一般的な藩校群に倣って設立された弘道館に、精里のような考え方の人物の居場所などなかったはずであり、彼は、設立準備段階においても設立後においても、単に祭り上げられていただけの存在であった、と私は見ています。
 そもそも、どうして、そんな彼が、藩校マターに関わらされる羽目になったのか、ですが、彼の「寛政の三博士」(前出)の一人という儒学者としての評判から、彼が見せ金として使われた、ということではないでしょうか。
 彼が、幕府の招聘に応じた背景には、このようなことがあったのではないか、と私はふんでいるのです。
 このことはまた、幕府の、昌平坂学問所においては、精里のような考え方の儒学者が必要とされた、ということであるはずです。(太田)

(続く)