太田述正コラム#9683(2018.3.5)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その18)>(2018.6.19公開)

 「さて、登庸吟味を前提とした上で、吟味項目の一つとされた学問、その正しい基準(canon)に「朱学」が選択された事態は、その決定要因と施行過程を視野に収めて、どのように解釈されるであろうか。・・・
 <その著書>「修身録」天明2<(1782)>年<では、>・・・朱子学、闇齋学・徂徠学、そのいずれにも定信は与していない。・・・
 このように定信が学問の学統派に対して特に選好を持たず、・・・<かつ、>幕政参与中の著作(ただし異学の禁発令後の執筆の可能性もある)「燈前漫筆」で・・・むしろ流派に固執することの弊害を述べたことを踏まえるならば、政策構想としての上からの異学の禁の発想が、彼から必然的に生まれてくるとは思われない。・・・
 柴野栗山によれば、彼に「学禁を立つるを勧め」たのは、備中鴨方の士、西山拙齋<(注36)(1735~9<9>)であるという。・・・

 (注36)「<文人画家の>浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在の岡山県浅口市)<出身>。父は医師・・・16歳のときに大阪に遊学に行き、医術<と>・・・儒学<を>・・・学んだ。・・・<儒学の師>の上京にも従った。後に<師>は古文辞学から朱子学に転じ、拙斎もまた朱子学に転じた。・・・<やがて、>鴨方に欽塾を開き子弟に朱子学を教えた。生涯仕官せず、諸侯の招聘を辞した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E6%8B%99%E6%96%8E

 <拙齋は、>「宜しく朝廷に建白し、異学を厳禁し、邪説を峻絶すること、天主教の例に比し、之を令甲に著はし、之を郡国に行ふべし」とまで主張した<人物だ。>・・・
 <もっとも、栗山自身は、>異学排除を行う程の程朱学信奉者ではなかったことは確実である。
 ただし、<栗山は、>・・・中国・朝鮮・琉球などの他の東アジア地域が古学ではなく宋学を採用している<(注37)>ことを引き、その視野のもとで「程朱の説の人心にかな」うであろうと<は>記してい<る。>・・・

 (注37)支那では、南宋の理宗[(皇帝:1224~64年)]以来、宋学が、元、明、清、と国家経学であり続けた。「衣川強は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を<支那>史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた<支那>社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、<支那>社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%AE%97 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
 朝鮮では、「朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、・・・それまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。・・・李朝500年間にわたって、仏教はもちろん、儒教<においても、>・・・朱子学一尊を貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が<支那>はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めた・・・。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。」(上掲)
 琉球では、「薩摩侵攻後、・・・薩摩由来の朱子学が・・・伝播し<た。>」
https://books.google.co.jp/books?id=KSNIDAAAQBAJ&pg=PA85&lpg=PA85&dq=%E7%90%89%E7%90%83%EF%BC%9B%E5%84%92%E5%AD%A6&source=bl&ots=D9OZTzBVNG&sig=qmAzquQLOeSoHVrI2peDQtHFeh8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi-jdeao9XZAhXMjLwKHZGjBKsQ6AEIPDAD#v=onepage&q=%E7%90%89%E7%90%83%EF%BC%9B%E5%84%92%E5%AD%A6&f=false

⇒当時の日本の一般の識者には、琉球が薩摩に併合されているという認識がなかったらしいことが分かります。
 それはさておき、宗教(天主教)や政府批判の弾圧とは違って、(儒教に宗教的部分がないわけではないものの、)儒教の諸学派の弾圧、すなわち学問の弾圧、は、性格が全く異なるのであって、事実、日本史において、空前のことであったところ、その企画・実施プロセスの眞壁によるものを含む日本の学者達による説明、は、極めて説得力に乏しい、と言わざるをえません。(太田)

 栗山・・・の建言自体は伝存しない<が、>・・・拙齋の建言は、栗山を介して松平定信を動かし、閣議決定を経て、いわゆる異学の禁発令に及んだ。
 寛政2年5月24日に林大学頭<ら>に申達された「學派維持ノ儀」がそれである。」(104~108)

(続く)