太田述正コラム#9685(2018.3.6)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その19)>(2018.6.20公開)

 「この申達直後から沸き上がった・・・江戸儒学界の<定信宛、林大学頭宛、栗山宛、>・・・の反応については、・・・いずれもが・・・批判<であり、>・・・多様な学問の存在を承認し、学問を「一統」しようとする申達を難詰するものであった。・・・

⇒これらの難詰者達・・幕府の政策への反対者達!・・が処罰されるようなことが一切なかったこと自体が、この思想統制のユルさを、端的に表しています。(太田)

 大阪の浪人儒者、尾藤二洲に幕府儒者招聘の幕命が下ったのは、このような江戸を席捲した「正學」の衝撃冷めやらぬ、寛政3年5月17日のことであった。・・・

⇒細かいことのようだが、用語に厳密を期すべき学術書なので一言。
 昇幕時の二洲を元武士であるところの、「浪人」、と呼ぶのは誤りでしょう。
 生まれてから、その時まで、二洲は武士ないし武士の浪人の子であったことも、武士になってから浪人になったこともない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E8%97%A4%E4%BA%8C%E6%B4%B2 前掲
のですからね。
 なお、念のためですが、一般用語としての、あぶれ者的ニュアンスのある、「浪人」、だとしても誤りです。
 というのも、その時、二洲は自分が開いた塾で朱子学の普及に尽力していたからであり、
http://www.i-manabi.jp/pdf/museum/140.pdf
盛名をはせていたからこそ、幕府から声がかかったのですからね。(太田)

 「異学之禁」発令から生起した論争を駁するために・・・二洲の起用が図られたと解し得る。・・・
 <次いで、>・・・参勤交代の藩主鍋島治茂に同行して江戸の佐賀藩邸に滞在していた・・・古賀精里・・・に、寛政4年1月19日、・・・命が下り、佐賀帰郷前に、陪臣としては初めての昌平坂聖堂での経書講釈が実現している。
 既に藩校教授の経験をもつ精里には、その後の数回に亙って昇幕の招聘状が送られたが、佐賀藩士たちの反対にも遭い、精里自身も佐賀藩儒として固辞し続けたため、精里の昌平黌儒者就任は遅れて、結局寛政8年5月28日になった。

⇒眞壁がこのくだりで拠っている典拠は、タテマエ論で書かれているのだろう、事実では必ずしもないのでは、というのが私見であることは、想像がつくと思います。(太田)

 ・・・「朱学」による学統定立と、<栗山、二洲、精里という>「<寛政の>三博士」就任の歴史的な経緯は、凡そこのようなものであった。・・・
 長期的展望を拓こうとする本書で問題となるのは、・・・異学禁発令直後の激しい批判にも拘らず、この寛政期の「異學之禁」で自覚化された伝統の理解が、なぜ幕末に至るおよそ80年間の長きに渉って意味をもったのかという点である。・・・

⇒眞壁がどのような解答を用意しているのかは知りませんが、取敢えずの感覚的私見を申し上げれば、歴代将軍達や諸幕閣の立場からは、南宋の途中以降の支那の歴代王朝、と、李氏朝鮮、において宋学が国家教学とされたことから推察されるところの、それが統治者にとって都合の良い学派であったから、また、幕臣達の立場からは、この異学の禁より前から、彼らが、既にイエスマン的文官官僚化しており、本件に限らず、上からの指示に無条件で従うようになっており、その傾向が、異学の禁/昌平坂学問所の設立、以降、一層募って行ったから、というものです。
 幕臣達の相当部分が「上からの指示に無条件で従」わなかったのは、悲喜劇的にも、幕府が既に消滅していたばかりか、徳川家の存続さえ覚束なくなり、自分達の大量失業が必至となったところの、江戸無血開城の指示に対して、だけであり、まさに、空前絶後の事例であった、と。(太田)

 異学の禁令から僅かに数年を経た時点において、既にその求心的転向の弊害が生じ、崎門派の「朱学」一辺倒の経書解釈と一線を画し、かえって逆に幅広い読書と学習の勧告を余儀なくされるに至った・・・。
 その背景には、第一に、幕府による教学「正統」の確立は、異端からの論撃に応戦し固執したその急進性ゆえに、早くも昌平黌内部から修正を要せざるを得なかった事情があるだろう。

⇒眞壁のこのくだりは、率直に言いますが、意味不明です。(太田)

 しかしまた、第二に、登庸された儒者の思想に即して考えるならば、尾藤二洲・古賀精里のいずれもが、さきに見たように、中国儒学史の解釈変遷を前提とする清朝初期の学問受容によって、「程朱學」=「正學」化を唱導し始めたため、闇齋学派のように明清の学術を無視して「朱学」だけに回帰することを嫌ったためであろう。」(108~110)

⇒このくだりについては、判断を留保しておきます。(太田)

(続く)