太田述正コラム#9755(2018.4.10)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その33)>(2018.7.25公開)

 「幕府における「國法」内容の自覚化行為を伴った・・・政策決定過程で、どのような政治的判断と政策調整がなされたのか、・・・その詳細を・・・史料だけでは・・・明らかにすることは出来ない。・・・
 たしかに学問所儒者たちは、老中合議や評定所<(コラム#9692)>評議という幕府の最高次の政治的意思決定の審議には直接に与ることはなかった。

⇒眞壁は、本件が老中合議に付された、としているわけですが、先に言及した、レザノフに関する邦語ウィキペディアでは、「大河内文書 林述斎書簡」を典拠として、「老中土井利厚が担当した」としており、眞壁は、このあたりのことを説明する必要がありました。(太田)

 だが、徳川後期においては、対西洋諸国の場合であっても、外交における実務官僚として、政策立案から執行までに関与していたことを疑う余地はない。

⇒「政策立案・・・に関与していたのか」どうか、「明らかにすることは出来ない」というのに、(「関与」の定義にもよるけれど、)どうして、「関与していたことを疑う余地はない」といういう結論になるのか、私には理解不能です。
 なお、眞壁は、後者に関して、古賀精里の門人の著作の記述を典拠として付していますが、単に、レザノフへの回答内容を記しただけのものであり、典拠の体をなしていません。(太田)

 レザノフへの通信通商拒否の応答は、翌文化3年秋以降のフヴォストフによる蝦夷地襲撃事件<(注72)(コラム#8115)>という報復攻撃を招き、幕府は文化4年12月にロシア船打払令を発する・・・」」(171、175、562)

 (注72)「文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件・・・とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%B2%E5%AF%87
 「<レザノフ>は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したが、のち撤回した。しかし部下のニコライ・フヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%8E%E3%83%95 前掲

⇒レザノフが命じたのか、フヴォストフが単独でやったのか、微妙なニュアンスの違いがあると言えばありますが、どちらであれ、「これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。」(上掲)というのですから、これは、「報復攻撃」というよりは、犯罪でしかないのであり、レザノフへの幕府の対応それ自体に問題があった、とは必ずしも言えないのではないでしょうか。
 (「レザノフ<は、>・・・1806年<に>・・・スペイン領カリフォルニア(アルタ・カリフォルニア)<に赴き、>、ヌエバ・エスパーニャとの間に協定を結び、・・・交易を行<おうとしたが、>・・・スペイン法によりスペイン植民地は外国勢力との交易が禁じられていることをレザノフは知らされ、<現地>の官僚たちも賄賂・買収に応じず、交渉は不調に終わった」(前掲)、というのですから、当時の幕府の対応は、世界標準に照らしても、それほどおかしいものではなかった、とも言えそうです。
 しかも、日、(植民地ですが)西との交易開始が果たせなかったこともあり、ロシアによるところの、(孤立するに至った)アラスカの経営が立ちいかなくなり、後に、アラスカの米国への売却や、ロシアの北アメリカ西海岸領有断念、に繋がった、という見方もできるわけであり、長い目で見て、結果的にこの時の幕府の対応は、世界史をいい方向に動かした、とさえ言えるのかもしれません。)
 いずれにせよ、繰り返しますが、当時のこの幕府の対応に、実質的には述齋らは関与などしていない、というのが私の見解なのです。(太田)

(続く)