太田述正コラム#9757(2018.4.11)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その34)>(2018.7.26公開)
「松崎慊堂<(注73)>によれば、述齋は「鮮俗は狡猾」であり「自便之説を駕し、その禮を行ふに於て、害亦た少なからず」という認識を持<っていた。>・・・
(注73)こうどう(1771~1844年)。「肥後国・・・に生まれる。祖父は・・・農夫だった。・・・<某>僧が<この祖父>の姉娘のもとに住みつき、この夫婦の間にできた松五郎という子が後年の松崎慊堂である。11歳頃に浄土真宗の寺へ小僧として預けられたが、生まれつき読書が好きで学問で身を立てるために13歳頃に国元から江戸に出奔し、浅草称念寺の寺主・・・に養われ、1790年(寛政2年)昌平黌に入る。さらに林述<齋>の家塾で佐藤一<齋>らと学び1794年(寛政6年)に塾生領袖となる。・・・
1802年(享和2年)に掛川藩校教授となり、1811年(文化8年)には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行し、1815年(文化12年)に致仕。1822年(文政5年)から江戸目黒・・・に隠退して、塾生の指導と諸侯への講説にあたった。
蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、・・・安井息軒などがいる。
文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一<齋>と慊堂だったが、実際の学力においては一<齋>は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。・・・
はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B4%8E%E6%85%8A%E5%A0%82
渡辺崋山(1793~1841年)は、「江戸詰(定府)の田原藩士・・・の長男として、江戸・麹町・・・の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。・・・この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士・・・から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。・・・
天保3年(1832年)5月、・・・田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1
⇒この短い一文から、色々なものが見えてきます。
まず、自身による通信使接遇を通じて到達したところの、述齋の朝鮮(知識人)像は、現在のそれと全く同じであることからして、極めて的確なものであるところに、彼の眼力の鋭さを感じます。
また、ここに登場する松崎は農家から、また、「注73」に登場する渡辺は12石弱取りの武士の家から、それぞれ、大出世を遂げたところ、江戸時代が階級社会では必ずしもなかった、ということを、改めて、痛感させられます。
なお、同じく「註73」に登場するところの、(天保の改革を推進した)水野忠邦の生涯も、幕臣としての立身出世のために、あえて大名の地位を投げ捨てた、とさえ言えそうな強烈なものであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A6
18~19世紀にかけての日本人群像の個性の豊かさに、瞠目させられます。(太田)
(続く)