太田述正コラム#9769(2018.4.17)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その40)>(2018.8.1公開)

 「●庵の世界認識は、対外的な危機意識の高まりを背景に、1820年代の半ばに、地理的な東アジア諸国(清・朝鮮・琉球)に交易国オランダ、さらにロシアを加えた東アジア域圏を中心とする世界観から、視圏を全世界に拡げていく。
 その直接の契機となったのは、イギリス船来航であった。
 文化13(1816)年10月に琉球に来航して交易を求めたイギリスは、翌年9月浦賀に来航、続いて文政元(1818)年5月にはゴルドンが浦賀に来航して通商を要求した。
 そして、この年から同国の捕鯨船が頻繁に常陸沖で捕鯨を行うようになる。
 ●庵は同年15日の日記に、「異国船浦賀に来る。暗厄利亜<(ママ(太田))>船との由」と記し」・・・後に朱点を打っている。
 幕府の通商拒否以後も、イギリス船は文政5(1822)年に浦賀に来航して薪水を求め、さらに文政7(1824)年には5月にイギリス捕鯨船員が常陸大津浜に上陸し<(注85)>、また8月には薩摩宝島に上陸して牛を略奪<(注86)>、さらにイギリス捕鯨船と交易をした漁民300余人が水戸藩に禁獄される事件が起きた。

 (注85)「19世紀初めごろから、産業革命のため欧米の国々による日本近海での捕鯨が盛んになった。水戸周辺での異国船の出没は次第に増えていき、文政6年(1823年)の頃には頻繁になっていた。1824年5月28日、英国船数隻が水戸藩領常陸大津浜沖に姿を見せ、12人の英国人が水戸の浜に上陸し、・・・役人に捕らえられた。尋問の後、船内に壊血病者がいるために新鮮な野菜や水を補給するために上陸したことがわかり、これらを与えて船員を船に帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注86)捕鯨船と思しき英船の乗組員が食糧の調達のために上陸し、牛3頭を奪った後、船長と思しき人物が藩士によって射殺された。
http://taigadorama.xyz/segodon/segofree/180206-2/

⇒●庵の日記類に登場しないのかもしれませんが、眞壁が、この全ての出発点と言うべき、フェートン号事件(注87)に言及しないのは、理解に苦しみます。(太田)

 (注87)「18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世は<英国>に亡命した。・・・このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなった。
 <英国>は、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既に<英国>が握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
 文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とする<英>海軍のフリゲート艦フェートン<号>・・・は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員・・・2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろして<英>国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。・・・
 湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。・・・
 長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長は・・・商館員も釈放し、出航の準備を始めた。
 17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
 結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。
 しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。<また、>・・・臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後も<英>船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。
 この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。
 また、この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」であると見なされ始め、組織的な研究対象となり、幕府は・・・オランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じた。・・・1811年には日本初の英和辞書・・・が完成し、1814年には幕府の命による本格的な<英和>辞書・・・が完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒幕府が「オランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じた」(「註87」)ことの背景に、フェートン号事件の際、「出島商館長ドゥーフが、自国の弱みを隠蔽するために、英露が提携し、イギリスはロシアの日本侵略を手助けしていると、架空の国際情勢を説明したこともあり、<幕府は、>東北アジア域圏における対ロシアへの危機観を強めた・・・と思われる」(573)ことが挙げられるのかもしれませんね。(太田)

 このような対外危機の高まりの中で、幕府は、天文方の高橋景保<(注88)(コラム#9692)>の建言を容れ、三奉行の評議を経て、文政8(1825)年2月に異国船打払令<(注89)>を発令するに至るのである・・・。」(258~259)

 (注88)1785~1829年。「天文学者である高橋至時[(よしとき。1764~1804年)・・大坂定番同心だったが、天文方に任命される・・]の長男として大坂に生まれた。・・・
 文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。・・・<<1811>年には暦局内に蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についても学識を有し、『増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)』ほか満州語に関する多くの著述がある。>・・・伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、・・・文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して・・・投獄され・・・獄死している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%99%AF%E4%BF%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%87%B3%E6%99%82 ([]内)
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%99%AF%E4%BF%9D-92703 (<>内)
 (注89)「日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返<すことと>した。また上陸外国人については逮捕を命じている。
 しかし、日本人漂流漁民・・・7人を送り届けてきた<米>商船モリソン号を<英国>の軍艦と誤認して砲撃したモリソン号事件は日本人にも批判された。また、アヘン戦争での大国清の惨敗の情報により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、1842年(天保13年)には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、文化の薪水給与令の水準に戻すことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4

⇒高橋景保が異国船打払令を建言したことについては、眞壁は、典拠的なものを記しているようにも読めます(573)が、ネットにあたってみた限りでは、同様の話は出てきませんでした。
 これが仮に事実だとすれば、眞壁自身が、蘭学者達とは違って、儒官達には対外政策に係る発言権がなかった、ないしは、彼らの対外政策に係る提言など相手にされなかった、ことを間接的に認めてしまっているようにも受け止められます。(太田)

(続く)