太田述正コラム#9813(2018.5.9)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その62)>(2018.8.23公開)

 「昭和初期<に>伊野邊茂雄<(注145)>・・・は、ペリー来航の際の諮問答申における・・・開国若しくは鎖国という・・・主張は、必ずしも識見の卓越か頑陋<(がんろう)>無知の有無かの判別基準にはならない<、と主張した。>・・・

 (注145)1877~1954年。「高知県出身。国学院卒。1906年から東京帝国大学史料編纂所で『国史大辞典』を編纂、1909年から渋沢栄一のもとで萩野由之らと『徳川慶喜公伝』を編修。1923年史料編纂官となり「大日本史料」を編修、國學院大學教授。戦後は立正大学教授。1935年、東京大学文学博士。論文は「対外策ヨリ考察セル維新前史ノ研究」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E9%87%8E%E8%BE%BA%E8%8C%82%E9%9B%84
 「關ケ原戰爭と明治維新」「山内容堂公と尊王」という著作(論文か本か不明)もある。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I7913029-00

 このような伊野邊の指摘は、・・・今なお有効であろう。・・・
 <その上で>、・・・嘉永6年の答申を対外危機への当面の対策案としてその分類に終始するのではなく、「識見」評価を目的とする思想史の問題として、答申群のなかから長期的な構想が盛られた意見を見出して解釈を加えること<が>可能であろう。・・・」(361

⇒こんな、伊野邊/眞壁的主張はナンセンスです。
 攘夷よりも開国の方が、論理的に言って「頑陋無知」度が低いに決まっているからです。
 というのも、来航したペリーの艦隊のうちの2隻は蒸気外輪船(注146)であり、それだけからでも、欧米の技術力・・それは軍事技術力をも当然意味する・・が当時の日本のそれを顕著に凌駕していることは遠方から一瞥しただけで明白であり、攘夷が戦争を意味する(と正しく受け止められていた(典拠省略))以上は、見返りが想定できなかったところの、軍事的敗北が必至の選択肢など、およそ現実的な選択肢たり得ないからです。

 (注146)「この当時の蒸気船<・・全て外輪蒸気船だった・・>は、蒸気機関を使った航行は港湾内のみで行うものであり、外洋では帆走を用いる。艦体も鉄製というイメージがあるが、実際は全木製である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9
 ペリーの艦隊の外輪蒸気船たる旗艦サスケハナの兵装は、150ポンド:20.3cmパロット式前装填ライフル砲2基、9インチ:22.9cmダルグレン式前装填滑腔砲12基、12ポンド:7.62cm前装填ライフル砲1基であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%8F%E3%83%8A_(%E8%92%B8%E6%B0%97%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88)
ライフル砲は、同艦隊のもう1隻の外輪蒸気船であったミシシッピにも、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%94_(%E8%92%B8%E6%B0%97%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88)
また、帆船であった、サラトガ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%AC_(%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97)
とプリマスにも装備されていなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Plymouth_(1844)
ところ、「大砲は、・・・ライフル・ガン・・・開発後も長らく球形弾を飛ばす滑腔砲であったが、長弾の弾頭にリベットを付け、施条と噛み合わせて旋転するライット・システムが19世紀に開発された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
が、この「ライット・システム(仏語:”Système La Hitte”)は、1855年3月に・・・フランス陸軍<で>・・・採用された・・・施条前装砲で・・・砲は、従来使用されていた滑腔砲に比較して相当に改良されていた。榴弾、榴散弾、ぶどう弾共に3000 mの射程を有していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
というのだから、(これら記述に誤りがある可能性があるが、)サスケハナに装備されてたこと自体が不思議なほどの最新装備だった。
 もっとも、そもそも、この4隻には、全て、「1840年代以降、各国の海軍が・・・採用し」たばかりの、炸裂弾を発射するカノン砲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B2%E5%BC%BE
が装備されていた(各船のウィキペディア参照)ところ、カノン砲すら、当時の日本には存在していなかった
http://kawagoe-guide.at.webry.info/201501/article_27.html
のだから、火砲だけとっても、幕府が同艦隊と戦っておれば、一方的な無惨な結果になったことは確実だ。
 (なお、ダルグレン砲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E7%A0%B2
も旗艦サスケハナだけに装備されていたが、この点については深入りしない。)

 (もとより、その後、幕府ならぬ長州藩等が唱えた攘夷は、幕府にできないことをあえて行うよう迫ることで幕府を困らせ、打倒することを目的としたもの(典拠省略)であり、その限りにおいて「現実的な」選択肢だったわけですが・・。)
 それに加えて、前にも指摘したように、欧米の技術力の実態を本格的に把握し、学び、導入しない限り、欧米諸国と戦うことも欧米諸国を抑止することもできないわけですが、そのためには、(従来のようにオランダを通じて技術文献を輸入するだけでなく、)開国して、欧米から専門家を招致したり、留学生を送り込んだりすることが必要不可欠だからです。

(続く)