太田述正コラム#0634(2005.2.20)
<モンゴルの遺産(その3)>

モンゴルは、清の崩壊後の混乱に乗じて、ソ連の後見の下、1924年にモンゴル人民共和国として独立を果たします。
1928年に、ソ連によってモンゴルの最高権力者にすえられたチョイバルサン(Horloogiyn Choybalsan。1895??1952年)は、スターリンの意向を受けて、農業集団化とラマ僧粛清政策を遂行します(注3)。

(注3)このほか、モンゴルはブリャート・モンゴル族(以下「ブリャート族」という)のジェノサイドにも荷担させられた。スターリンによる迫害を逃れてソ連内のブリャート族の総人口の半数近い12万人が1928年までにモンゴル、更には内モンゴル、或いは満州国に脱出したが、スターリンは、モンゴルに逃げ込んだ4万人あまりのブリャート族のうち25歳以上の男性全員の逮捕・処刑をモンゴル当局に命じ、1929年から31年にかけて有無を言わさず実行させた。

しかし、次第にスターリン体制そのものに疑問を抱くようになったゲンデン(Peljidiyn Genden。1892??1937年)は、1932年に首相になると、自分がラマ教信徒であることを宣言し、農業集団化やラマ僧粛清政策を撤回し、共産党(モンゴルでは人民革命党)の国家に対する指導的立場を否定し、更にはソ連軍の駐留に反対し、モンゴルがソ連の保護国的立場にあることに反発し、ソ連を赤色帝国主義と非難したのです。激怒したスターリン(注4)は、1937年、ゲンデンをモスクワで処刑します。

(注4)失脚直前、モスクワでの宴席でのスターリンとゲンデンとの大喧嘩は有名。「ゲンデン、お前はモンゴルの皇帝になりたいのじゃないか」(スターリン)、「血だらけのグルジヤ野郎、貴様こそロシアのツアーになったつもりじゃないのか」(ゲンデン)というやりとりの後、ゲンデンはスターリンの高価なパイプを叩き落とした。

これ以降、スターリンによって実権を回復してもらったチョイバルサンは、小スターリンとして、ラマ僧・富農・反体制派等を対象に、自民族に対する大粛清(ジェノサイド)を実行します。当時人口70数万のモンゴルで、実にラマ僧17,000人を含む約10万人、すなわち成人男性の2??3人に1人が虐殺されたのです。
この大粛清に反対した首相のアマール(英語表記及び生年不明)は、1939年、ソ連に拉致され、処刑され、その墓所すら定かではありません(注5)。
(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Mongoliahttp://en.wikipedia.org/wiki/Peljidiyn_Gendenhttp://en.wikipedia.org/wiki/Horloogiyn_Choybalsanhttp://en.wikipedia.org/wiki/Yumjaagiyn_Tsedenbal(いずれも2月19日アクセス)、及び吉田勝次「アジアの民主主義と人間開発」日本評論社2003年第3章1、も参照した。)

(注5)ソ連での裁判の際のアマールの発言を紹介しておく。「私は無罪である。・・モンゴル人民共和国が独立国であると言うならば、なぜ私はソ連の法廷で裁かれなければならないのか。私はモンゴル人民共和国の市民である。私を裁くことのできる法廷はモンゴルの法廷であって、ソ連の法廷でない。・・チョイバルサン元帥を抹殺せよと指示したという主張は嘘である。私がチョイバルサンを憎んでいることは本当である。彼がわがモンゴルの人民の虐殺を組織しているからである。私はソ連邦もソ連共産党も好きではない。私はモンゴル人民を愛している。同じようにロシア人民に同情を寄せている。私は決して共産主義者とその政府を信じたことはない。なぜならば、彼らは他の大国と同じように、モンゴルを植民地化すると言う政策を押し進めているからである。・・モンゴル人民共和国に反革命集団など存在しない。全ての調査はモンゴル人の虚偽の自白にもとづいてデッチ上げられた残忍なものだ。被疑者はすべて無実である。これが真実なのである。」

(続く)