太田述正コラム#0636(2005.2.21)
<モンゴルの遺産(その5)>
ロヤ・ジルガは、アフガニスタンにおいて、パシュトン族・タジク族・ハザラ族・ウズベク族の長老等が一堂に会して、部族間の争い・社会改革・憲法等について議論し、決定する会議であり、初めて開かれたのは1924年であり、当時の国王が招集し、アフガニスタン初の憲法を制定し、政策大綱を決定しました。
これは、それまで特定部族が行ってきたジルガを、部族横断的かつ全国的なものに拡張したものです(注7)。
(注7)1747年に開催され王を選出したパシュトン族のカンダハルでのジルガは有名であり、王国としての近代アフガニスタンはここに始まる。
1928年に開かれたロヤ・ジルガでは、国王が女性の社会参画を含めた余りにも急進的な改革案を上程したため、翌年各地で反乱が起こり、この国王の退位につながりました。
1930年のロヤ・ジルガでは、二番目の憲法が制定されました。
1941年のロヤ・ジルガでは、アフガニスタンが第二次世界大戦で中立を維持することが決定されました。
ザヒル・シャー(Zahir Shah。1914年??)国王によって招集された1964年のロヤ・ジルガでは、三番目の憲法が制定され、アフガニスタンは自由・民主主義国家の仲間入りをしました。
しかし、1973年にはクーデターが起こり、王制は廃止され、容共制権が樹立されます。
興味深いことに、この政権も1977年にロヤ・ジルガを開き、四番目の憲法たる社会主義憲法を制定しています。
その後の1979年のソ連軍事介入から2001年の米国等によるアフガニスタン戦争までの経緯は
ご存じの通りです。
さて、ロヤ・ジルガはジルガの伝統の中から生まれた制度ですが、ジルガの由来は何に求めるべきなのでしょうか。
一般にジルガは、アフガニスタン古来の慣習とイスラムのシューラ(コラム#633)に由来するとされているのですが、以上のようなジルガやロヤ・ジルガの実態からして、これはシューラよりクリルタイ(コラム#626)に近く、私は純粋にアフガニスタン古来の慣習に由来を求めるべきだと思っています。
(以上、http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/1782079.stm、及びhttp://www.institute-for-afghan-studies.org/AFGHAN%20CONFLICT/LOYA%20JIRGA/What%20is%20loya%20jirga_II.htm(2月18日アクセス)による。)
ここから先は、仮説に過ぎませんが、私はこのアフガニスタン古来の慣習は、まさにクリルタイに淵源を持つような気がしてなりません。
それは、アフガニスタンの先住部族の一つであるハザラ族(Hazara)が中央のパンジシル平原に住んでおり、彼らはモンゴル族であると言い伝えられてきた(注8)からです。
(以上、http://members.tripod.com/~ismat/(2月20日アクセス)による。)
(注8)ハザラ族の言葉の10%はモンゴル由来であるし、容貌体格もモンゴル族に似ている。しかし、彼らが5??6世紀にこの地にやってきたモンゴル系のエフタル(Ephthalites)の子孫なのか、13世紀にこの地に侵攻したチンギス・ハーンの部隊の子孫なのか、それとも14-15世紀のチムールのモンゴル人部隊の子孫なのか、定かではない。
ハザラ族の祖先がモンゴル族だったとすれば、彼らがクリルタイの伝統を受け継いできたと考えられ、この伝統がアフガニスタンの他の部族に伝播した可能性があると考えられるのです。
そうだとすると、ジルガないしロヤ・ジルガはクリルタイの系譜に連なる制度であり、民主主義の萌芽形態であって、アフガニスタンの諸部族がイスラム化した「にもかかわらず」、アフガニスタンにおいて時代を超えて受け継がれてきた、ということになります。
だからこそ、アフガニスタンは自力で一旦は自由・民主主義化に成功し、長い内戦を経て、2002年にザヒル・シャー元国王立ち会いの下で、久しぶりにロヤ・ジルガが開かれ、暫定政府に正当性を与え、次いで2004年には大統領選挙が行われ、急速な自由・民主主義体制への復帰ができたのだ、というわけです。
(続く)
<読者>
> ハザラ族の祖先がモンゴル族だったとすれば、彼らがクリルタイの伝統を受け継いできたと考えられ、この伝統がアフガニスタンの他の部族に伝播し た可能性があると考えられるのです。
『アジアの16の地域に住む男性の身体からそれぞれDNAを採取して分析した結果、それぞれの地域で人口の凡そ8%がチンギスと同じY染色体を持っていたことが明らかになった』(http://x51.org/x/04/06/1407.php)
ご参考まで。