太田述正コラム#9879(2018.6.11)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その12)>(2018.9.25公開)

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[日本人の進歩?]

 日本人の「好きな歴史上の人物」トップ20に、支那からは、曹操、次いで、孔明、が入った(コラム#9878)ということは、その判断根拠はともあれ、現在の日本人一般の方が、西郷に比べれば、まだ目が確かだ、と言えそうだ。
 孔明を蹴落とし、毛沢東をトップに持ってくるのが太田コラムの現在の目標であるわけだが・・。
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3 結論–ダメ政治家/官僚・西郷隆盛

 同時代人達の中でも西郷を褒める人の方が多いのですが、一番辛い評価をしているのが佐賀藩の大隈重信と久米邦武(注24)、そして、長州藩の伊藤博文です。

 (注24)1839~1931年。「佐賀藩校弘道館・・・昌平坂学問所<で>・・・学んだ。・・・岩倉使節団の一員として欧米を視察。・・・帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任、重野安繹らとともに修史事業に関与する。在職中の1892年(明治25年)、・・・論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した(久米邦武筆禍事件)。1895年(明治28年)、大隈重信の招きで東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、1922年(大正11年)に退職するまで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた。・・・
 佐賀藩出身の大隈重信とは終生の友誼があ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E9%82%A6%E6%AD%A6

大隈重信:
 「維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余等も亦尊敬しつつありと雖も、其政治上の能力は果して充分なりしや否やという点に就ては、頗る之れを疑うのである。不幸にもその疑念は一転して失望となった。失望は更らに一転して苦心へと変じた」
 「軍人としては優れた人であるが、政治家としては如何であろう。西郷自身も『自分は政治家に非らず』と言われていた。我輩も二年ばかり一緒に事をしたが、己の判はお前に遣って置くといって、西郷は真の盲判を捺したばかり<(注25)>、その度量の壮快は敬服に堪えぬが、余りの大器であった為か、又は英雄英雄知るで、我輩の凡眼には解らなかったものか、西郷は政治家にあらずと思った」
 「西郷は強固なる意志を有せるに係わらず、人情には極めて篤かった。この情にもろい結果が、西郷の徳をして盛んならしむると同時に、その生涯の過ちを惹き起したのであろうと察するのである」
 「隆盛は表面からは、中々強毅であるが、裏面から行くと、生気地のないような人であった」

久米邦武:
「政治家としては、この三人(岩倉、木戸、大久保)に較べると、西郷南州は一段下ると見ねばならぬ。至誠という点においては偉大であったろうが、実際の政務という点では大久保らの比ではない」

伊藤博文:
  「天稟大度にして、人に卓出して居って、そうして国を憂うる心も深かった。徳望も中々あったが政治上の識見如何と云うと、チト乏しい様だ。そこで自分にも深く政府に立つことを嫌って居った。盲判を捺す<(注25)>ことは嫌で堪らないから、自分の部下を引き連れて北海道へ行こうと云うことを企てたことがあったが、それが変じて私学校と為り、謀反と為った。兎に角大人物ではあったが、寧ろ創業的の豪傑で守成的とは云えない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 前掲

 (注25)大隈と伊藤に共通する、西郷が「盲判を捺」したとの「証言」・・伊藤のは間接的表現だが・・については、「西郷隆盛<の弟の>・・・西郷従道・・・は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せて殆ど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持って<いた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93
ということと、「大山巖・・・は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C
ということから、西郷が「盲判を捺」したことについては、「薩摩に伝統的な総大将のスタイルであった」かどうかはともかくとして、西郷一族において、重要な意思決定の際に「長老」がとる共通のスタイルであった可能性が考えられないわけではないけれど、私は、後述する理由から、単に西郷に盲判を捺す能力しかなかったからだ、と見る。

 この3名の西郷評は、(久米のそれは、大隈からの伝聞である可能性もありますが、)内容がほぼ一致しており、かつ、島津斉彬の西郷評とも概ね合致していることから、正しいと考えていいでしょう。
 要するに、西郷は、ダメ政治家/官僚だった、ということです。
 私自身、彼らと殆ど同じ意見です。
 私は、斉彬やこの3名と違って、西郷や西郷関係者達・・西郷関係者達がこの3名存命当時、いかに広範かつ多人数かつ強力あったかも次のオフ会「講演」で説明・・と何の利害関係や付き合いもないことから、本シリーズでは、この3名に成り代わって、彼に、更に厳しい評価を下しましたが・・。

4 西郷隆盛「伝説」成立理由

 そんなダメ人間であった西郷が、英雄中の英雄としてもてはやされるようになり、そのまま現在に至っているのは、一体、どうしてなのでしょうか。

(続く)