太田述正コラム#9919(2018.7.1)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その12)>(2018.10.15公開)
「オホナムチは傷の治療をすることができたが、八十神はできなかった。
(注25)「《古事記》のオオクニヌシを主人公とする物語は,(1)オオナムチが種々の苦難,試練を克服して大いなる国主となる物語,(2)ヤチホコの神の妻問い物語,(3)少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命)との協力による国作り物語,(4)葦原中国の主として天津神に国譲りする話の4部分からなる。
(1)オオナムチには多くの兄(八十神(やそがみ))がいたが,1日かれらは因幡(いなば)の八上比売(やかみひめ)のもとへ求婚に出かける。途中赤裸(あかはだ)の兎と出会い,八十神が兎をいっそう苦しめたのに対しオオナムチは懇切に療法を教えて救い,よって袋を背負い従者の身なりをした末弟のオオナムチがヤカミヒメを得ることとなった。…」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%8D%81%E7%A5%9E-648477
できなかった理由が、知識不足によるのか、性格上の問題なのかは分からないが、治療ができなかったことに変わりはない。
その結果どうなったか。
八上比売<(注26)>(やがみひめ)は、八十神との結婚を拒否し、オホナムチに結婚の意思を伝えることになったのだ。
(注26)「大国主神の最初の妃。大国主神との間に木俣神をもうける。・・・大国主神は因幡の白兎と出会いこれを救う。 救われた白兎は「あなたの求婚は成功するでしょう」という予言を残し、この予言は的中する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%8A%E6%AF%94%E5%A3%B2
「八上(やがみ)」とは、因幡の国(鳥取県東部)の地名であることが知られており、ヤガミヒメとはいわばその土地を代表する女性である。
こうした女性は、宗教的能力(巫女的な能力)を持って、その土地の神を祭る存在だったと考えられている。
そういう女性と結婚することは、国の宗教的支配権の獲得を意味していたのだ。
⇒史上初めてアラビア半島の大部分を領域的に統一することによって、サウディアラビアの初代国王となったイヴン・サウド(1876~1953年)が、その最も直近のぴったりの例です。↓
「血縁をことのほか重視するアラブ社会において有力部族の部族長の娘に子どもを産ませるため、100回以上の結婚を余儀なくされた。最後の男子が生まれたのは71歳の時であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%89
このウィキペディア筆者の言っていることが正しいとして、「余儀なくされ」ずして、サウドと同じくらいの年齢まで、側室を設け続け、子供を産ませ続け、これらの子供達を日本全国の大名家等に養子や正妻として送り込むことで、結果的にアジア復興の礎の礎となったところの、島津重豪(斉彬の曽祖父)に、改めて、深甚なる敬意を表しておきましょう。(太田)
だから男の王は各地の姫と婚姻関係を結ぶ必要があり、これが色好みの王の物語を形作っていったのである。
素兎条の趣旨はもはや明白であろう。
傷の治療をすることができたオホナムチが、将来、国の王つまりオホクニヌシになるべき資質を備えていることを示しているのである。
ヤガミヒメと婚約したオホナムチは、ただの従者から、八十神のライバルになった。
そこで八十神はオホナムチの排除を目論むことになる。
オホナムチは愚かにも、八十神の策略にまんまとはまり、二度も殺害されるが、そのたびに母親らの力によって復活を遂げる。
死と復活は、通過儀礼に認められる要素で、こうした試練を経て、オホナムチは少しずつ成長を遂げてゆく。・・・」(76~77)
⇒ここで、イエスの復活のこと等を想起したのですが、つい最近ですが、ネット上でそういうことを書いた人が既にいました。↓
https://blogs.yahoo.co.jp/ueda2770/66463128.html
洗礼や禊まで持ち出すとは、なかなかのもんです。
学術論文に仕立て上げれば、博士号がとれそうですが、先達がいそうですね。
(続く)