太田述正コラム#9935(2018.7.9)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その20)>(2018.10.23公開)

 「・・・古事記では、「別天つ神」の指令をうけてイザナキ・イザナミが国を生む。
 いっぽう日本書記の主文では、イザナキは陽神、イザナミは陰神として、陰陽二気の体現者として自ら国を生む。
 古事記が「天」主導の国作り一環と位置づけているのに対して、日本書記主文では「陰陽に言論」が国作りの中核を成している(神野志隆光・・・)。・・・

⇒原著は1995年に出ているようです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%87%8E%E5%BF%97%E9%9A%86%E5%85%89 前掲
が、既に、現役の日本人学者の本は余り読まなくなっていた頃であり、全く知りませんでした。(太田)
 
 大和王権は自らの統治領域を「天(あめ)の下(した)」と呼ぶ。
 「天の下」は、本居宣長が「漢国(からくに)より書籍(フミ)渡参来(リマヰキ)て言初(イヒソメ)たる称(ナ)」(『古事記伝』十八之巻)であると指摘して以来、漢語「天下(てんか)」の訓読語であるとされている。
 漢語の「天下」は、、皇帝の統治する中華帝国を意味する語である。
 つまり、自らが世界の中心(中華・中国)であるとし、その周囲に朝貢国を従える構造の帝国である(石母田正<(注50)>・・・)。・・・

 (注50)1912~85年。「二高を経て、東京帝国大学文学部哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。冨山房、日本出版会に勤務の後、朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。・・・専攻は古代史および中世史で、・・・唯物史観の観点から多くの論文・著作を発表、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%AF%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3

⇒この支那史に係るくだりで、いくら有名な歴史学者とはいえ、支那史ならぬ国史学者である石母田の著作を引用した松本の存念を問いたいところです。(太田)

 大和王権が盛んに「天の下」を用いたことには意味がある。
 かつて、この列島にあった国々は中国歴代王朝が営む「天下」の隅に位置していた。
 それが推古朝あたりになると、自ら東アジアにおける小さな中国であるかのような主張を行うようになっていた。<(注51)>

 (注51)「日本(倭国)における「天下」概念の成立は古墳時代にさかのぼる。5世紀後期の作成とされる江田船山古墳出土の鉄剣銘に「治天下□□□□□大王」とあり、□□□□□の部分は「ワカタケル」と訓ずると推定されており、雄略天皇に比定されている。雄略は<支那>へ送った文書では「倭王武」と自称していたが、国内向けには治天下大王・・アメノシタシロシメスオホキミ・・、すなわち<支那>とは異なる倭国独自の天下を治める大王、と称していた。このことは、当時既に「倭国は<支那>世界と異なる独自の天下なのだ」という観念が発生したことを如実に物語っている。以後の倭国王たちも治天下大王の称号を代々継承しているが、このことが背景となって、7世紀初頭に倭国王が隋皇帝への親書に「日出処天子」と自称した事件につながったと考えられている。
 その後、8世紀初頭における律令制の移入と時を同じくして、<支那>風の天下概念が導入されることとなった。この場合の天下はどちらかといえば実際の律令国家の支配が及んだ範囲という意味で、今日の日本列島における本州・四国・九州などにあてはまると思われるが、決して律令国家の直接支配の及んだ地域という意味ではなく、蝦夷など直接支配に含まれない異民族も内包していた。すなわち<支那>王朝の天下思想と同じように「天下」の中心に律令国家の中心を設定し、天皇を主宰者とした秩序の及ぶ範囲で、周囲には「夷」に対応する異民族が配されているという小中華主義的な色彩を強くしていた。この「天下」概念は律令国家の崩壊、王朝国家・中世国家の進展によって徐々に希薄化したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B

⇒「注51」のウィキペディアの記述にいう、律令制導入前と後における、日本における天下概念の変化なるものを、私は全く変化とは感じないのですが、それはともかく、松本は、自分が、「天の下」意識の成立を、5世紀後半ではなく、6世紀末~7世紀初(推古天皇:593~628年)とした理由を説明すべきでした。(太田)

 その小さな中国を中心とした小さな帝国が、「天下」ならぬ「天の下」なのである。
 古事記の中巻では、「天下」とまさに相似形の構造をもった「天の下」が、歴代天皇によって実現されてゆくのである(神野志・・・)。・・・
 「葦原中国(あしはらのなかつくに)<は、>・・・高天原(たかまのはら)」・・・の「下」にあって、だから将来「天の下」になり得るというわけだ。
 そして、この上下の世界関係が国土の中に復元されて、「天の下」が実現されたという理屈である。
 都を「天」と表現する例は少なくない。
 天皇が「高「天」原」の主宰神である「天照大御神」から「天津日継(あまつひつぎ)」(皇位)を継承し、地上の「天」にいるからこそ、「「天」の下」を統治することができるということだ。」(138、140~142)

(続く)