太田述正コラム#9939(2018.7.11)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その22)>(2018.10.25公開)
「・・・日本書記の主文は、「陰陽二元論」<(注53)>(宇宙の万物は陰陽・天地・乾坤という二大要素からなっているという中国思想)に基づいて、天地創成から大八洲国(おほやしまぐに)の誕生を説いている(神野志・・・)。
(注53)「<支那>を中心に発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の二つの要素から成り立っていると考える。具体的には光と闇、昼と夜、男と女、剛と柔などにそれぞれ陽と陰の属性が対応すると考えられた。この場合二つは必ずしも対立することを意味せず、むしろ調和するもの、調和すべきものと捉える。そして、一元化はしない。そういう点では善悪二元論に陥りがちな一神教の究極的には一元化するものと意味づけられた二元論と、大きく違っている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96
これが日本書記の<歴史>における始発の原理である。
この文章自体、二つの漢籍(『淮南子』<(注54)>と『三五暦紀』<(注55)>)の文を切り接ぎしたものであって、原理から文章まで中国からの借り物なのである。<(注56)> 」(126)
(注54)えなんじ。「前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年–紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。・・・道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
(注55)「<支那の>三国時代(220~280)に作られた神話集。徐整(じょせい)の撰(せん)。『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』[、宋代初期成立の類書『太平御覧(たいへいぎょらん)』]などに一部が引用されているだけで、原書は存在しない。<支那>神話には、この世の初めの天地開闢のときに盤古(ばんこ)という巨人が誕生したという話があるが、この盤古についての最古の記述があるのが『三五歴記』で、盤古の時代が長く続いた後で三皇(さんこう)(女媧(じょか)・伏羲(ふっき)・神農(しんのう))が現れたとされている。」
http://flamboyant.jp/prcmini/prcbook/prcbook039/prcb039.html
「『芸文類聚』では一貫して『三五「暦紀」』表記、『太平御覧』では『三五「歴記」』表記だったり『三五「歴紀」』表記だったりする」
https://ncode.syosetu.com/n1251cc/2/
(注56)「《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。
古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。
<=>古には天地が未だ剖さけず、陰陽は分かれず、渾沌たること鶏子たまごの如く、溟涬めいけいとして牙きざしを含む。其れ清陽な者は薄靡たなびいて天となり、重濁な者は淹滯とどこおって地となるに及ぶ。精妙の合は搏とり易く、重濁の凝は竭つき難い。故に天が先に成って地は後に定まった。然る後に神聖が其の中に生まれたのである。
この部分は、《太平御覧・天部一・元気》に引用されて残る
《三五歴記》曰:未有天地之時,混沌狀如雞子,溟涬始牙,濛鴻滋萌,歲在攝提,元氣肇始。又曰:清輕者上為天,濁重者下為地,沖和氣者為人。故天地含精,萬物化生。
という文によく似ている。
また、《淮南子・俶真訓》の
有未始有夫未始有有無者,天地未剖,陰陽未判,四時未分,萬物未生,汪然平靜,寂然清澄,莫見其形,若光燿之間於無有,退而自失也,
だとか、同じく《淮南子・天文訓》の
氣有涯垠,清陽者薄靡而為天,重濁者凝滯而為地。清妙之合專易,重濁之凝竭難,故天先成而地後定。・・・
といった文の中にも共通の文句や観念を見ることができる。・・・
この後からが日本的神話であり、順次生成される神々の名によって世界の展開を述べる。その最後に伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が登場して、両尊の共同作業によって島々が産み出される。ここで生まれる島は当時の日本の範囲だけで、世界の他の部分がどのようにできたかについては語られない。だから、大陸の方は中国の書物にあるようにできたと認め、しかし日本はそれとは別にできた、ということを言おうとしている。
冒頭を中国におけるのと共通の天地創生で説き起こしたことには実際的な意味があった。《日本書紀》では唐朝をしばしば「大唐」と美称し、その君主を「天子」と呼んでその地位を認めている。つまり日本としては、・・・友好的に対等の交渉を求めたのであり、それをここにも表現しているのである。これに相当する文は《古事記》や書紀に載せる六種の異伝にはなく、書紀の本文では全く政治的意志によって加上したものと考えたい。
そうでありつつ、この天地創生に日本創造が接続されていることは、天皇が唐の皇帝と並んで天子を称することに根拠を与える。日本は元来、天地創生の後に、大陸世界とは分岐して形成された、もう一つの天下であるという主張だ。
これらの説話は、かつて孝徳天皇の白雉五年、高向玄理(たかむくのぐゑんり)らが唐に遣わされたときに、
於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。
<=>ここにおいて東宮監門の郭丈挙は、日本の国の地理及び国初の神名を悉く問う。みな問いに随って答える。
ということがあり、こうした経験からも整理する必要が感じられていたものである。」
http://kodakana.hatenablog.jp/entry/2015/12/09/231351
⇒「注56」の筆者の素性は不明ながら、分かり易く、かつ、もっともらしい、説明であると思います。
おかげで、日本で古事記・日本書紀類が作られるに至ったきっかけや、日本書記の冒頭の記述の由来、そして、記紀の開闢神話における日本列島以外の無記述の理由、について、それなりの理解をすることはできましたが、依然として、古事記・日本書紀・風土記が並列的に作られたのはなぜか、日本列島にかつて存在したであろう開闢神話群にそもそも日本列島以外への言及がなかったのか、なかったとすれば、それはどうしてか、といった疑問が、私の心中に蟠ったままです。(太田)
(続く)