太田述正コラム#10025(2018.8.23)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その31)>(2018.12.8公開)

 「・・・第二部では戦争調査会の議論を手掛かりに、残された調査資料の読解をとおして、戦争への道を検証する。
 別の言い方をすれば、第二部は戦争調査会の資料に基づく報告書を作成する試みである。
 最初に・・・戦争の起源を考える。・・・
 八木<秀次(前出)>は「明治維新まで遡って戴く必要がある」と述べる。
 なぜならば「統帥権の独立」が戦争の原因だったからである。

⇒八木自身がどのように語ったかはともかく、井上によるこの紹介を読む限り、いくら八木が専門違いだとはいえ、主張が雑駁に過ぎます。
 一つには、明治維新は慶応3年(1867年)ないし明治元年(1868年)です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
が、統帥大権が大日本帝国憲法に明記されたのは、同憲法が公布されたのが1889年(明治22年)、施行は1890年(明治23年)です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
から、実に、22年の間隔が空いているのですからね。
 もう一つについては、井上自身が少し後のところで行っている批判に譲ります。(太田)
 
 八木は批判する。
 「統帥権の独立が軍に過大なる、分不相応なる政治力を与えたと云うことを強調しなければならぬ」。
 八木は明治維新に戦争が組み込まれていたことを強調する。
 「明治維新と云う事業の結果として一種運命的なものであった」。
 明治維新によって戦争が起こることに決まったかのような口振りだった。
 明治維新にまでさかのぼる見方は、八木に固有の個人的な見解というよりも、同時代において広く共有されていた可能性がある。
 この年(1946年)の岩波書店の月刊誌『世界』5月号に、のちに戦後の進歩派知識人の代表的な人物になる日本政治思想史家の丸山眞男の論稿「超国家主義の論理と心理」が掲載される。・・・
 同時代の人びとに広く共有されたこの論稿にはつぎの一節がある。
 「維新直後に燃え上がった征韓論やその後の台湾派兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近に感じていた日本が、統一国家形成を機にいち早く西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとしたもの」だった。

⇒明治6年(1873年)の征韓論、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
と、明治7年(1874年)の台湾出兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
まで、「維新直後」と言っても、明治維新から、それぞれ、5~6年、と、6~7年、間隔が空いていますし、丸山の筆致から、丸山もまた、「明治維新までさかのぼる見方」であった、とは必ずしも言えません。
 どうやら、私のような、「明治維新そのものにさかのぼる見方」をとっていた有識者は、当時、日本にはいなかったようです。
 そして、恐らく、それ以降も、少なくとも、日本には出現していない(出現していなかった)のではないでしょうか。
 考えてみれば、これは、まことに不思議なことです。
 なお、私が、明治維新以降の日本の対外進出を「西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとした」もの、などとは全く見ていないことはご承知のはずです。
 この点を含め、大昔にやったことがあるところの、丸山批判を、よりラディカルな形で、そのうち、改めて行いたいと考えています。(太田)

 この一節を読めば、明治維新前後の征韓論と台湾出兵が戦争の起源だったと考えても無理はなかった。・・・
 <話を戻すが、>八木のように、統帥権の独立を諸悪の根源と考える見方は今日においても残っている。
 <しかし、>問題は帝国憲法の構造よりも運用だった。
 帝国憲法は天皇大権を定めている。
 統帥大権もその一つである。
 統帥大権はたとえば外交大権と対等である。
 どちらが優越するということはない。
 天皇大権は相互にチェック・アンド・バランスが働く。
 それにもかかわらず、統帥大権が優越することがあったとするならば、それは帝国憲法下の政治の運用の問題だった。
 政治の運用の問題とは、たとえば1930年のロンドン海軍軍縮条約締結時の統帥大権の解釈をめぐる政治対立(統帥権干犯問題)であり、あるいは1935年の憲法学者美濃部達吉の学説をめぐる論争(天皇機関説問題)だった。
 <これは、>帝国憲法への政治的・軍事的な挑戦の問題と言い換えてもよい。

⇒私見では、大日本帝国憲法には(にも)規範性がなかったのですから、この井上の総括的センテンスは誤りだ、ということになりますが、これは、咎めるわけにはいかないでしょうね。(太田)

 <しかも、>これらの問題が起きたのは1930年代に入ってからである。
 明治国家の憲法は昭和の戦争を必然化するものではなかった。」(120~123、125~126)

⇒これは、井上の言うとおりです。(太田)

(続く)