太田述正コラム#10113(2018.10.6)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その68)>(2019.1.21公開)

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[ノモンハン事件と杉山構想]

 この後、ソ連に終戦仲介をしてもらおう、という話が出てくるが、それに杉山が反対しなかった理由を考えるにあたって、ノモンハン事件の際の杉山の「対応」が参考になる。

 まず、張鼓峰事件があった。↓

 「1938年(昭和13年)7月、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。・・・
 <この>事件は満ソ国境でおこったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った)。
 しかし、日本は不拡大方針で第19師団の一部のみで対処した。
 これに対してソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させた。
 8月に入って日本軍も増援の砲兵部隊を出動させたが、モスクワでの日ソ交渉により8月11日に停戦。・・・
 動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1,500名、ソ連軍3,500名であった。
 張鼓峰事件で陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調した「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定した。

⇒「平時」における外国との軍事紛争の対応方針は参謀本部ではなく陸軍省(軍務局)が主管であることが分かる。(太田)

 辻政信参謀が起草し、1939年(昭和14年)4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」と<いう>・・・方針が示され・・・た。
 この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる<が、>この要綱を東京の大本営は「正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかった。」

⇒陸軍省(軍務局)が事実上、お墨付きを与えたわけだ。(太田)

 1939年(昭和14年)には紛争件数は約200件に<も>達した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 では、張鼓峰事件からノモンハン事件にかけて、陸軍省中央はどんな布陣だったのだろうか。

 1938年6月~1939年8月と、張鼓峰事件、そして、ノモンハン事件の大部分、の間、陸軍大臣だったのは、杉山の「子分」の板垣征四郎だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
 また、陸軍次官については、張鼓峰事件の時は杉山のロボットの東條英機だし、ノモンハン事件の時は山脇正隆(1885~1974年。次官:1938年12月~1939年10月)だ。
 山脇は、陸士、陸大(首席卒)で、「高知県甲原村(現:土佐市)で士族の家に生まれ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E6%AD%A3%E9%9A%86
というのだから、島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高く、次官就任は、恐らくは杉山の指名だろう。
 担当者である軍務局長は、張鼓峰事件の時は中村明人(あけと。1889~1966年。軍務局長:1938年4月~11月)で、彼は、陸士、陸大で、「愛知県出身」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%8E%E4%BA%BA
だというのだから、やはり、島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高く、時の杉山陸軍大臣(1937年2月~1938年6月)の指名に間違いない。
 また、ノモンハン事件の時は町尻量基(注96)(かずもと。1888~1945年)で、彼は、陸士、陸大で、公家の家の出身だが、元々、中村明人の前任の軍務局長(1937年10月~1938年11月)だった人物であり、ノモンハン事件の時は、軍務局長に再任されていたものだ。

 (注96)陸軍省軍務局軍事課長の時の前後に2度にわたって侍従武官を務める。「1938年(昭和13年)4月・・・北支那方面軍参謀副長に転ずる。同年6月10日第2軍参謀長として武漢作戦に参加する。・・・再び軍務局長に就任<した後>、・・・先の第2軍参謀長の時に作戦文書を紛失していた為、同年12月29日から停職一箇月の処分を受け<、>処分後、軍務局長に復帰し1939年(昭和14年)1月31日から調査部長を兼ねる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E5%B0%BB%E9%87%8F%E5%9F%BA

 当然のことながら、町尻も、時の杉山陸軍大臣の指名によって、1回目の軍務局長に就任したわけだ。
 (恐らくは、昭和天皇や閑院宮との間を結ぶメッセンジャーとして、杉山が、彼を重宝したのだろう。)

 さて、肝心のノモンハン事件(1939年(昭和14年)5月~9月)だ。
 簡潔に通説的なことが述べられているのが下掲だ。↓

 「<日本側は、>国境警備隊同士の小競り合いに師団規模の援軍まで繰り出しておいて、全面戦争に発展する事態は避けようとしていた。・・・
 制空権は事実上、日本側にあった。
 ところが、・・・敵地の飛行場や補給基地への爆撃を見合わせたため、数で勝るソ連空軍は爆撃を継続することが可能となり、日本軍の損害が拡大する結果を招いた・・・ 
 この敗戦に対する陸軍上層部の対応というのは、新聞等に一切の情報を伏せたばかりか、生き残った将兵には箝口令を敷き、連隊長など現場指揮官には「敗戦の責任」を押しつけて自決を強要し、惨敗をなかったことにしようと腐心し<た。>」
http://blogos.com/article/329741/
(10月5日アクセス)

 しかし、この事件が、事実上、日本側の勝利であったことが現在では明らかになっている(コラム#省略)ところ、当時、それが分からなかったどころか、大敗北であった、と陸軍上層部が判断した、というのが事実であるとは考えにくい。
陸軍上層部・・その背後に杉山がいた・・が、「箝口令を敷」いたり、関東軍がこの空気を読んで「自決を強要し」たりしたのは、公式に嘘をつくことなく、敗北であった、との謀略情報を拡散させるためだった、と私は見るに至っている。
 これによって、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達を中心とする、陸軍内外における北進論や南進論反対論(日支戦争反対論を含む)に打撃を与えることができる。
 (もとより、大勝利を収めてしまうと、謀略が台無しなるので、そうならないように関東軍に様々な制約を課した上で戦わせた。)
 他方、ソ連側は、当然、日本側の(余裕を持った)勝利であることが分かっていることから、爾後、余程のことがない限り、日本軍に手出しするようなことは試みなくなるはずなので、後顧の憂いなく、アジア解放のための、対南方軍事攻勢を敢行できる、と。
 つまり、ノモンハン事件は・・他の場所でも構わないわけだが・・、杉山による一種のやらせであった、と見るわけだ。
 (辻政信は、「ノモンハン戦で日本は・・・本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
と「的確」な主張をしている。)
 この杉山の謀略を知ってか知らずか、参謀本部内の北進論者や南進論反対論者は一掃され、杉山の参謀総長就任の環境整備が整ったが、とばっちりで犠牲になった者も(自決を強要された者達以外に)出た。↓

 中島鉄藏(1886~1949年)は、「山形県出身。」陸士、陸大。・・・1937年参謀本部総務部長、同年開始の支那事変については、上司である多田駿参謀本部次長(総長は閑院宮載仁親王)とともに不拡大路線で、陸軍次官東條英機(陸軍大臣は板垣征四郎)と対立、1938年多田と東條の両者が更迭され、多田の後任として参謀本部次長に就任。1939年ノモンハン事件が発生すると、これを解決すべく、新京に2度渡り事態の収拾に努めた。事態収拾後責任を取って、関東軍司令官植田謙吉大将、参謀長磯谷廉介中将とともに予備役編入となり、第一線を退いた。
 1942年司政長官として、ジャカルタに赴任。1945年現地にて戦犯として収監され、1949年ジャカルタ刑務所にて病没した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%89%84%E8%94%B5

 ちなみに、「陸軍省の責任は統帥権独立の立場よりないものと判断」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6#日本 
され、陸軍省本省からは一人の「犠牲者」も出ていない。
 杉山は、二・二六事件の時にやったやらせ的なことを、ノモンハン事件でもまたやったわけだが、我々のような常人たる戦後人の感覚からすれば、まことにもってひどい話ではある。
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