太田述正コラム#10273(2018.12.25)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その15)>(2019.3.16公開)

 「1955年7月<の>・・・潘漢年逮捕は毛沢東がみずから下した命令であったことは、潘を記念して書かれた多くの文章が立証している。・・・
 1976年、毛沢東が死去したが、潘は依然として名誉回復されなかった。
 結局彼は77年4月24日、湖南で死去した。
 潘の死後5年たって、ようやく正式に名誉回復されるとともに、彼は高い評価を得た。・・・
 問題は、中共中央・・・<の>調査組織が一年余りの調査を行った結果、潘漢年には・・・1943年に汪兆銘と会見した<のに、>・・・長いあいだ、<中共>組織に<そのことを>報告しなかった・・・<、ということの>他にはいかなる問題もないことが判明したにもかかわらず、毛沢東が頑として彼を釈放しなかったことだ。・・・
 <しかし、実は、>潘漢年が指導する・・・情報活動は、毛沢東の延安政府が国民政府に打撃を与える戦いの一部であり、実質的には中国の抗戦を日本に売り渡すもの<だったの>である。
 こうしたやり方は中共の延安政権と日本政府に有利に働き、まぎれもない漢奸行為であった。・・・
 中共中央が潘漢年を通じて日本と関係をつけ<た>・・・ルート<は>・・・二つ・・・あった。
 第一のルートは、日本の戦略情報の特務と<の>直接<的関係である。>
 1939年、・・・上海・・・に設立した在中国特務機関「梅花堂」<の>・・・初代機関長は影佐禎昭<(注17)>(かげささだあき)少将[1942年に中将となる]であった。

 (注17)1893~1948年。「広島浅野藩士の家系<に生まれる。>」陸士、陸大卒で、東大法で学ぶ。「満州事変直前の1931年9月4日の講演では、「蒋介石が我国の恩を忘れて反抗せるは言語道断である……支那に対し平和の解決は至難であるから戦争は避け得られない。諸君は陸軍の後援者となりて鞭撻せられんことを切望す」と国民を扇動した。
 1937年陸軍参謀本部第7課(支那課長)、大佐昇進。同年11月、日中戦争が泥沼化の様相を呈すると、参謀本部第2部(情報部)では対支特務工作専従の部署の必要性に迫られ、新たに第8課(宣伝謀略課)を設置し、影佐は初代課長に据えられ日中戦争初期の戦争指導に当たる。その後、軍務課長を歴任し民間人里見甫を指導し<支那>の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても知られ、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を挙げた。
 1939年、日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蒋介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とする通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。1939年2月頃、活動を休止した土肥原機関を受け継いだ。この中に晴気慶胤少佐を長とするテロ組織「ジェスフィールド76号」も含まれていた。同年少将に昇進、支那派遣軍総司令部付。翌1940年3月、南京政府樹立で「梅機関」はその役目を終え正式に解散した。4月、汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任。「影佐機関」は解散したが、上海と南京にそのネットワークは残り、南京政府操縦工作と重慶政府攪乱工作を続けた。
 しかし東條英機内閣総理大臣から「影佐は中国に対して寛大すぎる」と判断され、1942年北満国境の第7砲兵司令官へ転任。同年中将、翌1943年にラバウルの第38師団長へ転任。ズンゲンの戦いで生き残ってしまった成瀬部隊に玉砕を命じた。・・・
 谷垣禎一(第24代自由民主党総裁、第47代党幹事長)は孫。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD

⇒影佐は、杉山の子分の板垣征四郎の子分、すなわち、杉山の孫子分といったところであり、杉山の代理として、毛沢東の代理であった潘漢年との連絡調整ルートを樹立、維持した、と見てよさそうですね。(太田)

 上海の日本領事館内にも専門の情報機関があり、岩井英一<(注18)>が指導していた。

 (注18)1899~?年。愛知県生まれ。東亜同文書院卒、外務省入省(ノンキャリ)。
https://baike.baidu.com/item/%E5%B2%A9%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%B8%80

⇒岩井の邦語ウィキペディアがないというのに、中共の公認ウィキペディアもどきである百度百科が岩井を取り上げているというのは、(調べれば分かるはずなのに、彼の没年が記されていない・・彼の支那での活動にしか興味がなさそう・・ことも含め、)意味深長です。
 但し、外務省は、支那においては、当時、帝国陸軍から情報を分けてもらう立場に過ぎないと私は見ており、ノンキャリの岩井は、単に、そのための現地窓口以上の存在ではなく、しかも、情報を分けてもらうために、帝国陸軍の下請けを果たし、かつ、帝国陸軍のスパイ達に外交的カバーを提供する、といった役割を果たしていたのではないでしょうか。(太田)

 潘漢年は、1930年代に左翼文化人だった袁殊<(注19)>を通じて、岩井との関係を築いた。」(124~126、128)

 (注19)1911~87年。中共のスパイ。
https://baike.baidu.com/item/%E8%A2%81%E6%AE%8A

(続く)