太田述正コラム#816(2005.8.7)
<生殖・セックス・オルガスム(その6)>
(本篇は、7月31日に上梓しました。8月4日から12日まで夏休みをとるので、コラムの上梓頻度を増しています。なお、前回のコラム#815について、「霊長類」と「類人猿」の用法を誤っていたのを改める等の修正を加えて、ホームページの時事コラム欄とブログに再掲載してあります。)
(3)アルカーイダ系テロリズム論(試論)
ア 近代化が困難なイスラム社会
随分以前(コラム#60で2002年に)、「客観的に見れば無謀としか言いようのなかった攘夷運動があったからこそ明治維新が実現したと考えれば、昨年の同時多発テロでクライマックスに達したアルカイーダの対米闘争が、逆説的にイスラム世界の革命的近代化をもたらす可能性もまた否定できないのではないでしょうか。」と指摘したことがあります。
この指摘は今でも間違っているとは思いません(注19)。
(注19)アルカーイダ系テロリズムが攘夷運動であるという見方は米国にもある(http://slate.msn.com/id/2123010/。7月21日アクセス)。
しかし、攘夷運動は必然的に伝統回帰を伴うものであるところ、幕末の日本の場合は尊「皇(天皇制)」という伝統に回帰できたのに対し、イスラム世界においては「イスラム主義」という伝統に回帰せざるをえないことから、イスラム世界においては攘夷運動が容易に社会の近代化(アングロサクソン的社会化)につながらないどころか、むしろ社会を退行させてしまいがちである、という悩ましさがあるのです。
イ それはどうしてなのか
そもそも、(最初から個人主義社会であり近代社会であったアングロサクソン社会にはあてはまりませんが、)近代化とは、前近代的婚姻制度(家制度)から個人を解放し、社会を個人主義的社会につくりかえることであると言ってもいいでしょう。
家制度をコアとする前近代社会(非アングロサクソン的社会)は、人間一人一人が持っている利己的・利他的ポテンシャルの十全な発揮を妨げる社会です。
なぜなら、個人が自分の利己的ポテンシャルを発揮して財産・権力・安全を増大することができたとしても、その成果の相当部分を家の構成員全員に分かち与えなければならない以上、個人が自分の利己的ポテンシャルを最大限発揮するようなことは、まずありえないからです。(女性の場合は、家の中で男性に隷属していることから、利己的ポテンシャルを発揮する機会をそもそも与えられません。)
このため前近代社会は、全般的な貧しさの中で、ごく少数の富んだ家の構成員達と、圧倒的多数の貧しい家の構成員達とから成っているのが典型的な姿です。
また、前近代社会においては、社会全体のために発揮されるべき個人の利他的ポテンシャル(忠誠心=royalty・自己犠牲の精神=altruism・惻隠の情=caregiving、等)が、基本的に家の中に封じこめられ、家の中で費消され尽くしてしまい(この発想は、Stephanie Coontz, MARRIAGE, A HISTORY–From Obedience to Intimacy or How Love Conquered Marriage, Viking 2005 に係るhttp://archives.econ.utah.edu/archives/marxism/2005w18/msg00203.htm(7月16日アクセス)から得た)、家を超えた公の観念が希薄なのです。
このため前近代社会は、本来的に不安定な社会です。
すなわち前近代社会は、公の観念が希薄であるために無政府状態が常態であり、この中から強力な家(外来系勢力であることが多い)が他のすべての家を搾取するところの専制政府が樹立されたとしても、やがてその専制政府は必然的に衰亡し再び無政府状態に戻る、というのが前近代社会の典型的な姿なのです。
ですから、前近代社会が近代化するということは、家制度(前近代的婚姻制度)を近代的婚姻制度に切り替え、個人を家の桎梏から解放して個人の利己的・利他的ポテンシャルを十全に発揮させ、もって豊かで安定的な社会を構築する、ということなのです。
この過程で、当該社会は深刻なアイデンティティークライシスに陥る懼れがあります。このアイデンティティークライシスを回避してくれるのが、コインの両面たる攘夷と伝統回帰なのです。近代化しようとしているのではなく、近代化拒否の攘夷を行うために古き良き時代に回帰しようとしているのだ、と自分に言い聞かせるわけです。
それが最もうまくいった事例が、尊「皇(天皇制)」攘夷の旗印の下で近代化に完全に成功した日本です。
中共は尊「毛沢東主義」の旗印の下で近代化に一定程度成功しつつありますし、インドもやはり、尊「ヒンズー主義」の旗印の下で近代化に一定程度成功しつつあります。
この場合、「天皇制」、「毛沢東主義」、「ヒンズー主義」が、それぞれ近代化に適合的な形に読み替えられていることは言うまでもありません。
ところがイスラム社会の場合、攘夷しようとすると「イスラム主義」へと伝統回帰しがちであるわけですが、それはコーランとコーランに基づくシャリア(イスラム法)への回帰を意味するところ、コーランは神の発した言葉とされていることから、一切の読替が許されない点が問題なのです。これでは攘夷は破壊と退行しかもたらしません。(イラン革命とアルカーイダ系テロリズムがそれぞれ何をもたらしてきたかを想起してください。)
とりわけ、コーラン(とシャリア)が、前近代的婚姻制度を当然視している点が最大の問題なのです。
ですから私は、イスラム社会が近代化するためには、イスラム化以前へと伝統回帰するほかない、と思っています。
これを試みたのがトルコです。イスラム化以前からトルコ民族なるものが存在していた、と措定し、攘夷と尊「トルコ民族主義」という旗印を掲げたおかげで、トルコの近代化に一定程度成功しつつあります(コラム#163?167)。
このように見てくると、英国で近代的婚姻制度を当然視する圧倒的多数の人々に取り囲まれて暮らしている(前近代的婚姻制度の下にある)イスラム教徒達が、英国社会に統合されず、移民層の最底辺を形づくり、かつその一部からアルカーイダ系テロリストを輩出したのは、不思議でも何でもないということになりそうですね(注20)。
(注20)米国はサラダボール社会であり、最近の移民を中心に前近代的婚姻制度の下にある人々がいくらでもいる。その米国に住むイスラム教徒達に関しては、英国におけるような問題が余り見られないのは興味深い。もっとも、米国のイスラム教徒には、米国の大学に留学してそのまま帰国しなかったインテリが多い、という英国のイスラム教徒とは異なった事情もある。(http://www.nytimes.com/2005/07/21/nyregion/21immigration.html?pagewanted=print。7月21日アクセス)
なお、英国の場合、(日本と同様、)上記の圧倒的多数の人々の間で近代的婚姻制度が崩れ始めているわけだが、英国のイスラム教徒達から見れば、英国の人々の多くは、許し難いほど背徳的に見えることだろう。
(完)