太田述正コラム#10447(2019.3.22)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その23)>(2019.6.9公開)
五・一五事件の描写が延々と行われますが、引用に値する個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_5.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_6.htm
第十六章 追放国家(1932~1933年)
・・・1926年、裕仁が天皇に即位した時、日本は世界のどの国より、良好な麻薬撲滅の記録を持っていた。その当時、3千人に1人のアメリカ人が薬剤の形――特許睡眠薬使用の副作用――の阿片中毒患者だった。それに比べ、日本では、1万7千人に1人が中毒患者であるにすぎず、日本の最新の植民地、朝鮮でも、住民4千人余りに1人にすぎなかった。しかし、満州においては、日本は新たな政策を敷いた。1920年代末、関東租借地以外で商売する日本人の麻薬売人は、満州で出来る限りの量を売りまくり、満州人の拒絶反応を切り崩した。1931年9月に日本が奉天を占領した時、国際連盟の統計によると、満州人の120人に1人が麻薬中毒者だった。そして7年後には、満州人の40人に1人が中毒者となっていた。
日本の阿片売りつけ活動は単純かつ直接的だった。大豆とケシを輪作する農家には手当てが支給された。すべての阿片吸入者は登録され、雑誌の予約購読者が週刊の雑誌発行に料金を後払いするのと同じようような方法で、毎週の配給に料金の支払いが期待されていた。最初に、購入物が入門価格で届けられ、家族から離れて夢を追いたい者には、快適な吸引所も提供された。
そうした吸引所の他に、満州の主要都市の下町通りに設置された、およそ3倍の数の阿片窟があり、そこでは、吸引習慣者も初心者も、皮下注射による楽しみも体験することが出来た。・・・
1934年2月24日の Saturday Evening Post の Edgar Snow の記事。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_16_1.htm#ch16
⇒以前から、日支戦争が始まってから、帝国陸軍が阿片取引をやっていたとの認識は持っており、例えば、下掲↓でもその話が出てきますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB
満州国時代からそれをやっていたという認識はありませんでした。
そこで、更に調べてみたところ、「アヘンは満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培させたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだ・・・満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたから<であり、その>・・・基本的な資金源はアヘン<だった>」(注33)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49263
ようですね。
(注33)山室信一(京大人文科学研究所教授)『キメラ―満洲国の肖像 増補版』(中公新書)[(2004年)](上掲)。
http://www.book-navi.com/book/syoseki/kimera.html ([]↑↓内)
私は、増補版ではない最初の版[(1993年)]を読んでいるが、1993年版には、補章中のこの類の記述・・岸信介の部下たる満州国総務庁次長を務めた古海忠之の証言に基づく・・に相当する記述はなかった。
南京事件やシンガポール華僑虐殺事件、更には、730部隊の蛮行や九州大医学部における蛮行も併せ、考えるに、新兵による刺殺訓練に使われた支那人達もスパイや便衣兵だけではなく、それらの「容疑者」ですらない一般住民も含まれていた・・引用しませんでしたが、バーガミニが少し前の箇所でそのことを書いています・・可能性が大ですね。
そうだとすれば、韓国人の日本への恨みは逆恨みだけれど、中共の人々の日本への恨みは、かなりの部分、根拠あり、ということにならざるをえません。
一体、弥生的とは雖も、人間主義者達であったはずの杉山元らの膝下で、どうしてこのような不祥事が頻発したか、ですが、概ねは、島津斉彬コンセンサス中の支那を辱めよ、の拡大解釈ないし曲解で説明が付くのかもしれませんが、ここで、それだけではなかったのではないか、という、私の最新の仮説を提示しておきたいと思います。
それは、支那に派遣された日本軍兵士達のできるだけ多くに、支那に対する罪の意識を植え付ける目的もあった、という仮説です。
具体的に言えば、杉山元らは、日本の降伏後、中国共産党に支那における権力を奪取させる予定であったけれど、その中国共産党がソ連共産党と一枚岩ないしは同じ穴の狢であるという印象を日本、ひいては米国、において維持する努力も併せて行い、そうすることが、戦後、米国に、一層真剣に対ソ抑止をやらせることに資する、と考えられたところ、にもかかわらず、降伏後の日本の国民に中国共産党下の支那(中共)に「好意」を抱かせ、将来的には、日本をして中共に経済援助等の援助をなさしめることへの、それが布石になると考えた、という仮説です。
満州及び支那本体における多数の支那人達の阿片中毒患者化はもとより、支那人刺殺訓練(注34)も、730部隊の蛮行も、はたまた、島津斉彬コンセンサス信奉者たる、柳川平助(南京事件)、山下泰文(シンガポール華僑虐殺事件)、の行動(コラム#省略)も、ことごとく、杉山らの指示によるものであった可能性がある、ということです。
(注34)満州国についての青写真は陸軍次官(1930.8~1932.2)当時の杉山
http://www.geocities.co.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
が描いたと思われるが、その中に、阿片に係る計画が最初から含まれていた可能性があるし、日支戦争を1937年中に勃発させることにしていた杉山が、支那に派遣された新兵達の教育訓練における支那人刺殺をルーティン化させたのは教育総監(1936.8~1937.2)当時であった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
いや、彼が教育総監に就任した大きな目的の一つがそれだった可能性がある。
(仮にそうだとすれば、南京事件に不快感を抱いた・・それが、その全体についてなのか、捕虜虐殺以外の部分なのかは定かではありませんが・・、松井石根(コラム#省略)は、島津斉彬コンセンサス信奉者ではあったけれど、予備役からの出戻りであって、かつ、杉山よりかなり先輩であったこともあり、杉山構想は聞かされていなかった、ということになりそうです。)
但し、依然として、私に分からないことが一つ残っています。
それは、前出の九州大医学部における蛮行です。
というのも、それも、間違いなく陸軍中央からの、捕虜殺害指示を受けてのものであったところ、支那人ならぬ、米兵を対象とするものだったからです。
米軍による都市無差別爆撃への復仇心によるものであった、とも考えられない訳ではありませんが、一般住民による虐殺ならともかく、陸軍中央が関与した虐殺である以上、そんなことではなかったはずです。
恐らくは、私がまだ気付いていない、杉山らの意図があったのでしょうが・・。
別件ですが、私が残念に思うのは、既に、1971年にバーガミニが満州国でのアヘンの話を書いていたというのに、いくら、その典拠が、毛沢東べったりの、従って、信憑性に疑問符の付くところの、エドガー・スノーが書いた本であるとはいえ、2004年に山室が書くまで・・もとより、調べ尽くした訳ではありませんが・・、日本の戦前史家が誰も追及しコメントしようとしなかったことです。(太田)
(続く)