太田述正コラム#10463(2019.3.30)
<2019.3.30東京オフ会次第(その1)>(2019.6.17公開)
1 始めに
東京オフ会幹事団の一員を含め、このところの常連4名が欠席された割には、(私を除き、)11名の出席、と盛会でした。
ケーキを持ち込まれた方、チョコを持ち込まれた方、ご自宅の庭の柑橘類を持ち込まれた方、には、この場を借りて御礼を申し上げます。
また、今回は、出席者のkomuroさんが、番号札を作って持参され、各自の履物にそれを入れることで、間違って履いて帰ってしまうという、このところ、2回連続して発生していた椿事の解消を図られたところ、それに成功した、ということも付記しておきます。
2 私が「講演」冒頭で行った話
中共の日本文明総体継受戦略や(日本再軍備を意図した)対日軍事攻勢については、私は、それぞれ、かなり前から気付いていた。
しかし、杉山構想「発見」をもたらすこととなったきっかけは、3年前の11月だったかに、中学同級生の渡洋二郎君から、彼のご先祖様の、パリコンミューン見聞時の日記を、親族グループで本にした『渡正元『巴里籠城日誌』』を贈呈されたことに始まる。
その後の彼との雑談の中で、正元が、帰国後、軍人、司法官、議員(貴族院)等として活躍したところ、そんな彼のような「つぶしのきく」人物を育てた藩校教育ってどんなものだったのか、という疑問が湧いた。
そこで、藩校での教育について書かれた本を買って読んでみた。
その本で取り上げられた数校の藩校群は、どれも、外様の藩のだったが、一様に兵学・・武術も含む・・が必修であり、教官数や図書数から見て、兵学教育のウェートが一般教育のウェートを上回っていた。
で、今度は、幕府系・・幕府、親藩、譜代・・の藩校はどうだったかを調べようと思い立ち、博士論文を発展させたところの、昌平坂学問所(昌平黌)についての浩瀚な、かなり値の張る研究書を読んでみた。
予想通り、そこでは、兵学教育は行われておらず、また、幕府系の藩校群の多くにおいても、同様であることを自分で確認した。
この時点で、幕末から明治維新にかけて、外様系諸雄藩が幕府を倒すこととなったのは、このような、兵学教育の有無の違いに由来するところの、(欧米勢力東漸に対する)安全保障上の危機意識の多寡で説明できるのではないか、という気がしてきた。
しかし、ここで困ったのは、維新の主力となった薩摩藩の藩校では兵学教育が行われていなかった点だ。
そこで、一つの仮説を立てた。
薩摩藩の藩士達は、天才的な名君であった、斉彬の世子時代と藩主時代に、その薫陶を受けたことで、兵学教育の欠如を補って余りある、安全保障感覚等を身に着けたのではないか、という・・。
そこで、今度は、『島津斉彬言行録』という本があったことを思い出し、この本を買って読んで、もう少し、斉彬について知ろうとした。
この本を入手した時に、すぐ、驚いた点が二つあった。
一、この本が岩波文庫中の1冊として出版されたのが、1944年であったことと、二、この本を出版させ、かつ、序文を書いたのが、大久保利通の子の牧野伸顕であったことだ。
一については、敗色濃い当時の日本で、紙も割当制になっていた中で、出版されたことには、余程の理由があったに違いないことを意味し、二については、その理由が、明治維新と関係していることを推察させ、たからだ。
こういう次第で、勇んで、その本文を読んでみた。
ところが、少しも面白くなかった。
(続く)