太田述正コラム#10524(2019.4.29)
<映画評論59:ヒトラー ~最後の12日間(その3)>(2019.7.18公開)

 まず、彼女(Traudl Junge。1920~2002年)自身についてですが、ビール醸造人であった父親は、第一次世界大戦後、失業し、ナチスとは別の極右の政党に属してワイマール共和国打倒に動いたけれど、この政党が禁止され、彼は彼女が5歳の時に母親と離婚してトルコに移住してしまいます
https://de.wikipedia.org/wiki/Traudl_Junge
し、彼女の母方の祖父は、警察官で、最終的には少将相当まで昇任しますが、ババリア王制復活追求者として生涯を終えており、ナチスとは何の関係もなさそうです。
https://de.wikipedia.org/wiki/Maximilian_von_Zottmann
 また、彼女の夫のハンス・ヘルマン・ユンゲ(Hans Hermann Junge。1914~44年)についてですが、ヒトラーの従者兼従卒で、実質、もう一人の男と共に交替でヒトラーの家令を務めていた人物であり、ヒトラーが彼女を引き合わせて1943年6月に結婚させたものである
https://en.wikipedia.org/wiki/Traudl_Junge 前掲
ところ、その翌月、この夫は、前線勤務がしたいと何度も訴えてきていたことが受け入れられ、武装親衛隊(Waffen-SS)<(注3)>に回されてヒトラーの下を去り、1944年8月にフランスで戦死していますが、彼がヒトラーの下を去ったのは、ヒトラーの考えに染まってしまうのが厭だったからだ、と彼女が回顧録に記していて、
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Hermann_Junge
この記述が正しいことは、この夫の、結婚直後の事実上の彼女との別居、そして、その最期、が物語っていると思います。

 (注3)「<ナチ>党もしくはヒトラー個人の私兵・・・。国防軍とは異なり基本的に志願兵制」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%A6%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A

 なお、我々ですら、ヒトラーが、その公的発言にもかかわらず、少なくともユダヤ人達に関しては人種主義者ではなかったどころか、少なくともユダヤ人達に関しては好意すら抱いていたことを知るに至っている(コラム#省略)のですから、当時、ナチ党の幹部達にとっては、そんなことは周知の事実であったはずであり、だからこそ、彼らは、ホロコーストをあえてヒトラーの指示を仰がずに計画し、実施に移した、と考えられるのであって、そうである以上、ヒトラーに最も近いところにいた、ユンゲらの耳にホロコーストの話が全く入ってこなかったとしても、それは当然だったと考えられるのです。
 そんなユンゲの証言を、この映画であえて2度も流したところの、アイヒンガーは、事実上、ヒトラーはホロコーストを指示していない、と、この映画で、(前述したように、ヒトラーにフィクションであると断定できる、ホロコースト示唆発言までさせるほどビビりながらも、)訴えていることになるのです。
 にもかかわらず、それに気付いてか気付かずしてかはともかくとして、この映画の評論群の中でこのことの指摘が一切なされていなさそうであるところ、それが一体どうしてなのか、私にはさっぱり分かりません。
 とまれ、このことと、ヒトラーは普通の人間だった、というアイヒンガーのもう一つの訴えとを併せるとどういうことになるでしょうか。
 ロジャー・エバートの言葉を借用して言えば、ヒトラーは、「人種主義、排外主義、自惚れと恐れ、によって焚きつけられたところの、ドイツ人達の多くによる自然発生的蜂起の中心」となったところの、少なくとも人種主義に関しては、彼らの中では最も正常・・まとも・・な人物だった、ということになるのではないでしょうか。
 そうだとすれば、この映画は、当時の、ナチ党員達やナチ党シンパ達であった過半のドイツ人達はもとより、ナチ党の支配に消極的抵抗すら行わなかった、その残りの大部分のドイツ人達を含めた、ドイツ人のほぼ全体、を、改めて断罪したものである、と言えるわけです。
 ところが、ヒトラーのホロコースト指示の不存在すらこの映画を通して直視しようとしないドイツ人映画評論家達が、この映画のそんな含意を口にするはずがありません。
 ドイツ人以外の映画評論家達も、情け深いことに、意識的無意識的に、このような、ドイツ人映画評論家達の「職務怠慢ないし放棄」、を、助長し、手助けをしている、という構図です。
 ヒトラーが、私の見るところの、異常な戦間期ドイツに出現した庶民出身の悲劇の英雄、として、「正しく」描かれるようになる日がやってくるのは、一体、いつになることやら。

(完)