太田述正コラム#10554(2019.5.14)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その20)>(2019.8.2公開)
幕藩体制には政策決定のための重要な制度として合議制というべきものがありました。
幕府の政策決定に携わる老中は4人ないし5人、若年寄<(注12)>は3人ないし5人、大目付<(注13)>は4人、目付けは10人から30人<(注14)>、寺社奉行<(注15)>は3人から5人、町奉行<(注16)>は2人、勘定奉行<(注17)>は4人ないし5人が、それぞれの役職を共同して担当していたのです。
(注12)「老中に次ぐ重職。老中が朝廷,寺社,諸大名など幕府外部の諸勢力を管轄することによって国政を担当したのに対して,若年寄は,旗本,御家人などを指揮,管理することにより,将軍家の家政機関としての幕府内部のことを掌握した。・・・
初めは専任の職ではなく,寛永 10 (1633) 年松平信綱以下6人に協議して小事を裁決させたのが始りで,同 15年若年寄と呼ばれるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E5%B9%B4%E5%AF%84-153900
(注13)大目付が、合議制だった、ないし、(老中と同じだが)合議することがあった、的な記述を、ネット上で見出すことができなかった。
(注14)典拠の信頼性に疑問符が付くが・・。→「うまくいっていない<幕府の>役方(部署)があれば改善の方法を、不行跡な幕臣が見つかればどう処分すべきかを、目付<全員>が「目付部屋」で合議して、処分内容が全員一致で決議すれば、それを直属の上司である若年寄方に上申<する>。
・・・目付のなかで、もっとも目付の職務に精通していて、他・・・の同僚から信望が厚い者が筆頭として目付方の長、「筆頭目付」に選ばれ、上司である若年寄方と連絡を取り合ってい・・・た。・・・
目付に欠員が出<た場合も>、新任の人選を・・・合議で・・・する」
https://www.jidai-show.net/2018/09/15/post-honmaru-metsuke-beya/
(注15)「寺社奉行<は、>・・・社寺領以外にも、関八州以外の複数の知行地にまたがる訴訟を担当した。主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制であるが、門前町民や社寺領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。寺請制度の下、当時の庶民の戸籍ともいうべき宗門人別改帳は社寺が全て管理していたため、結婚と離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)の管理、移住、旅行(通行手形の発行)という点については、現在の法務省が担う行政も担当していた・・・
原則として一万石以上の譜代大名が任命され、奏者番を兼任していた。寺社奉行はいわゆる三奉行の1つではあるが、主に旗本であり老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格であり、三奉行の中でも筆頭格といわれる。・・・
月番制。勘定奉行・町奉行と並んで評定所<(後出)>を構成した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%A5%89%E8%A1%8C
寺社奉行の本来業務に関しては合議制とも合議することがあったとも、ネット上では確認できなかった。
(注16)月番制だったが、同様、町奉行の本来業務に関しては合議制とも合議することがあったとも、ネット上では確認できなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C
(注17)「月番制<で>1ヵ月交替で業務を処理し、合議制で事を決し・・・た。」
http://www.token.or.jp/magazine/g200308/g200308_4.htm
とあるが、勘定奉行の本来業務に関しては、同様、合議制とも合議することがあったともネット上では確認できなかった。
これらの同一の役職を担当する複数の要員が幕府の政策決定のための合議制を実際に運営していました。
⇒まるで、それぞれの役職、全てが合議制であったかのような記述ですが、老中と目付以外もそうであったかどうかは判然としませんでした。
三谷は評定所(注18)のことが念頭にあるのかもしれませんが、それならもちろんのこと、いずれにせよ、評定所に言及すべきでした。
(注18)評定所は、「江戸幕府の中央機関。三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が合議によって事件を裁決し、かつ老中の司法上の諮問に答える幕府の最高司法機関。・・・2代将軍秀忠のころからあったと考えられるが、制度的に整備されたのは3代家光の1635年(寛永12)である。三奉行によって構成される評定所一座と、勘定組頭など三奉行所から派遣されて実務を担当する評定所留役(とめやく)からなっていた。寄合(よりあい)(評定)は毎月2、11、21日の式日(しきじつ)と4、13、25日の立合(たちあい)の6回行われた。式日には三度に一度は老中が出席したほか、大目付・目付や側用人など将軍の側近も臨席したが、一座以外には評議権はなかった。裁決は多数決によったが、決着がつかないときはそれぞれの意見を書いて老中の裁決にゆだねた。評定にかかる事件は、民事(出入物(でいりもの))では原告・被告を管轄する奉行が異なる場合であり、刑事(詮議物(せんぎもの))では重要事件と上級武士が被疑者である場合であった。諮問を受けるのは、各奉行や大名から老中に呈出された仕置伺(しおきうかがい)で、一座は書面審査によって判決を老中に答申した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A9%95%E5%AE%9A%E6%89%80-121327
三谷が、徳川幕府における合議制を持ち出したことには敬意を表しますが、彼がこれを「議論による統治」、ないし、その前駆的制度、とするのかどうかに興味が湧きます。(太田)
(続く)