太田述正コラム#10568(2019.5.21)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その27)>(2019.8.9公開)
幕末の開国に伴う政治状況の根本的変化–体制的危機、つまり幕藩体制にとっての「立憲主義」の危機–に対応して、権力分立制がなぜ浮上したのか。
⇒三谷は、(私なら用いませんが、)「立憲主義」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
という概念をここで用いるのであれば、徳川幕府にとっての、実質的な意味での憲法は何であったか、また、その実質的な意味での憲法の前提となる理念及び原則は何であったのかを明らかにすべきでした。
以下、取敢えずですの私見ですが、理念は人間主義・・久能山東照宮に残されている家康の遺訓「我のために悪しきことは人のためにも悪しきぞ」・・
http://www.tokugawa.ne.jp/okazaki/2017/03.htm ←徳川記念財団HPより
であり、原則は「小さな政府」と「平和維持」、
https://www.hs-tkg.co.jp/notice/kyouiku/20180833.html ←東京教育学院HPより
そして、実質的な意味での憲法については、1804年のロシアのレザノフの来航をきっかけに祖法と称されるようになったらしい、鎖国、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
だけではないか、といったところでしょうか。
(「鎖国」はミスノーマーである、との論議には立ち入りません。)(太田)
この問題を検討するために、西周<(コラム#1593、10042)>の権力分立論を取り上げます。
西周は特に慶應期、つまり徳川慶喜が将軍職に登場して以来、慶喜のブレーンでした。・・・
彼が起草した建議書「議題草案」の中で提案したのが一種の三権分立制だったのです。
彼は「法ヲ守候権(まもりそうろうのけん)」、つまり司法権と、「法ヲ立候権(たてそうろうのけん)」、つまり立法権、「法ヲ行候権(おこないそうろうのけん)」、つまり行政権、これら三権はそれぞれ相互に異なるものなのであり、「三権共皆独立不相倚候(あいよらずそうろう)・・・」と書いています。・・・
西は徳川宗家を・・・行政権の主体として想定しました。・・・
<そして、>非幕府勢力を立法権の領域に閉じ込め<ようとしたのです。>・・・
それを「享保年間仏国之大儒モンテスキウ之発明」といったのです。
西は幕末にオランダのライデン大学に留学して、そこで本格的に権力分立制の観念を学んだと思われます・・・
⇒モンテスキューの三権分立論は、彼がイギリスの政体を誤解した結果の産物だ、というのがかねてからの私の主張です(コラム#省略)。
そんなことはともかくとして、徳川宗家の権力の実質的維持を図るために都合が良いと思った(習いたての)概念を、日本の法匪のはしりの西が適当に援用した、というだけのことでしょう。(太田)
<もう一つ、>幕府が考えたのは・・・「勅許」<の活用であり、>・・・「権威」<(朝廷)>による「権力」<(幕府)>の補強であり、「権威」と「権力」とを一体化させることです。
⇒これ、三谷が公武合体論のことを言っている、と受け止めるのが自然ですが、そうだとすれば、この論が一番時期的には早く登場したことから、二番目に持ってくるのはおかしいですし、そもそも、公武合体論は朝廷側が言い出したことなので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93
幕府側の動きとする三谷の筆致にも首を傾げざるをえません。(太田)
<更に>もう一つが「衆議」でした。・・・
従来幕府の政策決定のアウトサイダーであった大諸侯をはじめとする諸大名の意見が「衆議」として、新たに戦略的価値を帯びてきたのです。
これはいってみれば、伝統的な合議制を拡充する意味をもつ具体的な方策であったというべきでしょう。・・・
すなわち、「公儀」から「公議」への支配の正当性の根拠の移行が幕末に急速に起こってくるのであり、これが議会制を受け入れる状況の変化であったのです。・・・
⇒この三谷の語呂合わせ的立論は、なかなか秀逸ですね。
それはともかく、江戸時代における幕府での合議制・・幕府の、老中の合議制、ないしは、評定所における合議制、(とちゃんと書いて欲しかった!)・・の延長線上に、明治維新後の議会制を位置づける三谷の見解には、(まことに珍しいことに、)私も賛成です。(太田)
(続く)