太田述正コラム#10570(2019.5.22)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その28)>(2019.8.10公開)
<さて、その後、>幕府系勢力と外様雄藩勢力とのそれぞれの代表者たちの合議体を基礎とする幕藩連合政権というべきものが発足します。
[薩摩藩主島津茂久の父]島津久光、[宇和島藩前藩主]伊達宗城(むねなり)、[土佐藩前藩]主山内豊信(とよしげ)、[越前藩前藩主、前政事総裁職]松平慶永、[一橋徳川家当主、将軍後見職]徳川慶喜、[会津藩主、京都守護職]松平容保の6名から成る参預会議<(注31)>といわれたものが、その中心でした。
(注31)「文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在・・・当時流行した公武合体論および・・・幕府の権威低下にともない、これまで幕政から遠ざけられていた親藩・外様大名の政治力が相対的に高まり、中でも先進的な思想を持ち輿望を担う有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという・・・公議政体論の一つの帰結ではあった・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E9%A0%90%E4%BC%9A%E8%AD%B0 ([]内も)
しかし、これが内部対立によって解体した後に、幕府系と薩長連携を基軸とする外様系との対立が深まります。
⇒参預会議は、要するに、旧一橋派、改め、公武合体派、の有力者会議であったところ、内部対立の第一段は、「<文久3年>12月24日に関門海峡を通過中の薩摩藩蒸気船長崎丸(幕府から借用)が、・・・八月十八日の政変で京都を追放され<てい>た・・・長州藩が占領していた豊前田野浦(本来は小倉藩領)砲台から砲撃され、沈没する事件が発生。これが京へ伝えられると久光は激怒し、長州へ征伐即時実行もしくは藩主父子の大坂召還などの強硬処分を主張した。これに対し、山内豊信は<(慶喜の意を受けて(?。太田))>将軍江戸帰府の後、江戸へ呼び出す方が良いと主張して対立し<た。>・・・
<また、>元々諸外国と条約を締結して開国を行った当事者である幕府も攘夷には反対していたが、前年の家茂上洛の際、孝明天皇から攘夷実行を約束させられており、すでに文久3年12月に不可能を承知の上で横浜鎖港の交渉のため、フランスへ外国奉行池田長発を全権とする交渉団(横浜鎖港談判使節団)を派遣していた。参預会議においても、当初・・・兵庫(神戸)港の開港<に好意的にして(?。太田)、>横浜鎖港に<は>難色を示していたはずの徳川慶喜が、・・・<天皇の意向に沿って、>横浜鎖港の実行を主張することになる。2月15日に行われた参預会議では、久光と慶喜が・・・激しく衝突した。」(上掲)という次第なのですが、その背景は、私見では以下の通りです。
孝明天皇に(近衛家を通じて工作を行って、引き続き)攘夷姿勢を維持させたり、長州藩に(薩摩、長州両藩の尊王攘夷志士達の交流を黙認するといった形で)攘夷行動を取らせ続けた、のは斉彬時代以来、薩摩藩なのであって、その狙いは、いやいや開国志向を取っているところの、幕府を窮地に追いやることでした。
そして、薩摩藩が、慶喜を将軍職に就けようとし、それに一旦失敗するも、今度は慶喜を将軍後見職に就けることに成功したところ、その狙いは、彼が、「尊王」の水戸藩の出身であったこと、かつ、彼が天皇家の出自であったこと、から、幕府の姿勢よりも、攘夷論者たる孝明天皇の意向に、より近い姿勢を取らざるをえないと見込まれたところ、彼が将軍となれば、幕府が内部対立によって機能不全に陥り、熟柿が落ちるように幕府が内部崩壊するであろうこと、を期待してのことだったのです。
そして、引き続き、薩摩藩の目論見通り、というか、薩摩藩の対孝明天皇工作の結果、「徳川慶喜は<翌年の元治元年>3月25日に将軍後見職を辞し、朝廷から新設の禁裏御守衛総督(摂海防禦指揮を兼任)に任ぜられ、二条城において江戸の幕府から距離を置き、独自の行動をとるようになった<ところ、>この後慶喜は、松平容保および京都所司代となった松平定敬(桑名藩主)とともに、江戸の幕府中央とは半ば独立した勢力を構築するようになる(一会桑政権)」(上掲)のです。
この年、禁門の変が起ります。(上掲)
その上で、いよいよ、「慶応2年(1866年)末に15代将軍に就任した徳川慶喜は、兵庫開港をめぐる問題を解決すべく、朝廷工作を行う<ところ、>それに対し、諸侯会議路線の推進を図った薩摩藩の主導により、翌年5月13日島津久光・山内豊信・伊達宗城・松平慶永を集めて国事を議論する・・・いわば参預会議の再現である<ところの、>・・・四侯会議が設けられ<るが、>今度は逆に久光が長州の寛典を主張、慶喜が断固兵庫開港を優先するという、参預会議と逆の展開<が招来されたが、ことここに至って、ようやく>薩摩藩の意図を見抜いた慶喜が佐幕派公卿を味方につけ、徹夜の朝議で条約勅許を強引にもぎとったため、四侯会議も短期間で崩壊<する>。」(上掲)というわけで、慶喜が体現することとなった幕府の支離滅裂さ(ガバナンスのなさ)が露呈されるに至る、といった具合に、薩摩藩の、斉彬肝入りの中長期的な思惑通りに物事が進んで行ったのです。(太田)
幕府系は帝政フランスとの提携による幕藩体制の絶対主義的再編成を志向しました。
当時、幕府官僚機構の末端にあって、この路線を支持した福沢諭吉は「大君のモナルキ」ということばでこれを表現しましたが、・・・<幕府は、>最終的には軍事力によって各藩権力の廃絶を目指したのです。
⇒この間、福澤諭吉は、薩摩藩のスパイとして、幕府にもぐりこみ(コラム#省略)、その動向を逐一薩摩藩に伝えていた、と私は見ているところです。(太田)
このような幕府路線に対して強い脅威感を持った雄藩連合の中から、武力倒幕論というものが、いわば防御的な方策として台頭してくる。
⇒そうではなく、斉彬の当時から、薩摩藩は、用いられる武力が最小になるような形での倒幕を目指し、着々と布石を打ち、ついにそれに成功するに至った、ということなのです。
それにしても、維新そのものも、維新後の諸改革も、極めて成功裏かつ円滑に行われたことについて、三谷も含め、いまだに、諸勢力のせめぎあいの結果として成行でそうなった、的な史観・・日本と日本以外とを問わない・・しか見当たらないのは、嘆かわしい限りです。
特定の指導者ないし、プログラムがあったはずだ、と、どうして、彼らは考えないのでしょうか。(太田)
しかし、この雄藩連合の中でも、大政奉還後の「公議」というものを形成することがやはり必要であると考えられていました。・・・
⇒この点に限っては、私としても、異存はありません。(太田)
(続く)