太田述正コラム#10586(2019.5.30)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その36)>(2019.8.18公開)
<蝋山>の「立憲主義」とは、「近代的な意味における立憲主義」ではなく、「国民協同体」の政治原理です。
⇒立憲主義(Constitutionalism)の邦語のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
には、これが英仏由来の概念であるにもかかわらず、英語の・・そして恐らくは仏語の・・ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Constitutionalism
とは全く異なった記述が盛り込まれており、翻訳したと思しき箇所が部分的にも見受けられない、という意味で、かつ、邦英どちらのウィキペディアも、読むと頭が更に混乱してしまう、という意味でも、珍しいケースだと思います。
で、私として、最低、三谷にやって欲しかったのは、三谷の、そして三谷が見るところの蝋山の、立憲主義、のそれぞれの定義、の開示です。
ところが、それが開示されていないために、ここで三谷が書いているところの、「立憲主義」だの「近代的な意味における立憲主義」だの、が、何を意味しているのか、我々読者には、皆目、見当がつきません。
(ちなみに、私ならではの立憲主義の定義ですが、国民主権の国において、その中央議会の立法権に制限を加える必要があるとの非民主主義的な、いや、より端的に言えば、タテマエとしての国民主権を否定する自家撞着的な、考え方です。)
更に、蝋山の「国民協同体」の、三谷が見るところの定義もまた開示されていないのですから、不親切極まれり、です。(太田)
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[蝋山政道の国民協同体論と東亜協同体論]
私が、帝国陸軍丸抱えの組織であったと見ているところの昭和研究会(コラム#10379)の1933年の創立時からの会員で、創立者の後藤隆之介と共にその綱領を作った、蝋山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
は、「東亜協同体の理論」『改造』第20巻第11号(1938年)・「国民協同体の形成」『改造』第21巻第5号(1939年)・「世界新秩序の展望」『改造』第21巻第12号(1939年)の3部作を世に問うている。
http://www2.odn.ne.jp/kamino/NewFiles/Royama.pdf
三谷の書きぶりでは、蝋山が既に1933年に主張していたことになるところの、国民協同体論、だが、蝋山の言う国民協同体なるものの特徴は、一、国民の政治への自発的参加、二、統制経済、三、社会集団の有機的結合、の3点だという。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=2ahUKEwikt5md2L3iAhUHqpQKHTR-BmcQFjAIegQIBxAC&url=https%3A%2F%2Fhannan-u.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D482%26file_id%3D18%26file_no%3D2&usg=AOvVaw1XRsV5KhqMqoeQhP3KHu9U
これは、まさに、江戸時代のプロト日本型政治経済体制を理想化(理念型化)しつつ、近代用語で再定義した、といった類のもののように私には見受けられる。
また、東亜協同体については、以下の通りだ。↓
「三谷太一郎の見解によれば、国際政治理論としての東亜協同体論は、大恐慌後、それまでの国際秩序の基盤であった民族主義を前提とする普遍的国際主義理念が「欧米中心的」とみなされて人気を失ったのち、欧米中心的「旧秩序」を打破する新しい秩序原理として急速に支持を集めた「地域主義」の一潮流と位置づけられている(論者のなかで特にこの傾向が強いのが蝋山政道である)。また三輪公忠は、従来は政府の脱亜入欧外交に対して民間外交の理念であったアジア主義が、「初めて政策化」されたものだとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%8D%94%E5%90%8C%E4%BD%93%E8%AB%96
こちらは、国民協同体論の国際版であって、島津斉彬コンセンサス中のアジア主義を理想化(理念型化)したもの、といったところか。
蝋山が、改造3部作の2番目に国民協同体論を持ってきたのは、東亜協同体論の一環であり、出発点でもあるところの、国民協同体論を振り返ってその説明を行った、ということ か。
「三木清<は>日中戦争と東亜協同体の「世界史的意義」を主張した<が、>・・・東亜協同体論と密接なつながりをもっていた近衛新体制運動が大政翼賛会発足にすり替えられてしまうと、協同体論も大東亜共栄圏構想に変質し、当初の「<支那>ナショナリズムとの真剣な思想的対決」という問題意識は失われることとなった。また体制内のより保守的なグループは、近衛グループが協同体建設と不可分一体のものとして唱道する「国内変革」に対し社会主義的であると反発、企画院事件・尾崎・ゾルゲ事件などを契機に昭和研究会とその周辺への弾圧が強行された。この結果、太平洋戦争開戦直前の時期には東亜協同体論を主張する声は次第に小さくなっていった。」(上掲)とされているところ、いや、そうではなく、日本型政治経済体制の思想的基盤は蝋山の国民協同体論であり、大東亜共栄圏構想の思想的基盤は同じく蝋山の東亜共同体論である、と言えそうだ、というのが、最新の私見だ。
なお、私は、国民協同体論にせよ、東亜共同体論にせよ、蝋山のオリジナルと言うよりは、昭和研究会の主要メンバー達のコンセンサス的なものであったと見ているし、彼らの発想の源泉は、ほぼ間違いなく、帝国陸軍の杉山構想推進者達だった、と思っている次第だ。
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<それは、>「日本の国体を中心とする国民の政治的形成の内在的原理の上に立てらるべきもの」という特殊な意味を付与されたものです。
議会制から離脱し、それを否定した「立憲主義」です。
⇒ここでの「議会制」が、明治憲法の公定解釈変更の結果としての「議院内閣制(憲政の常道)」を指しているのか、それとも、明治憲法に規定する「議会の立法権・予算承認権」を指しているのか、を、三谷が明らかにしてくれていないので、読者は途方に暮れてしまいます。
常識的には前者なのでしょうが・・。(太田)
「立憲的独裁」の概念形成に伴って、「立憲主義」概念自体が変質していったのです。
私は、今後の日本の権力形態は、かつて1930年代に蝋山政道が提唱した「立憲的独裁」の傾向、実質的には「専門家支配」の傾向を強めていくのではないかと考えています。
⇒蝋山の原典類に当たっていないので誤っている可能性があるとのディスクレイマーを付けさせてもらいますが、すぐ上の囲み記事内で、国民協同体の3特徴群だけでは、プロト日本型政治経済体制そのままであるところ、それに4番目の特徴と言うべき、「専門家支配」・・つまりは、「官僚支配」・・、を付け加えたものが、日本型政治経済体制である、という整理が可能なような気が私にはします。
このことを前提に申し上げれば、先の大戦までに日本で「専門家支配」を伴った日本型政治経済体制が成立し、戦後においても、その体制が続いたとは言えるものの、「専門家」の中から「軍事専門家(軍事官僚)」がほぼ脱落した(除外された)点だけは、戦前・戦中とは変わってしまっている、ということではないでしょうか。
以上を踏まえれば、三谷のこのくだりもまた、意味不明である、と言わざるをえません。(太田)
これに対して「立憲デモクラシー」がいかに対抗するのかが問われているのです。
⇒ですから、三谷には申し訳ないが、当然、「問われている」のは、脱落し除外されている、「軍事専門家(軍事官僚)」の本格的復活であり、その前提としての日本の米国からの「独立」でなければなりません。
しかし、私がこの趣旨の主張を始めてから、かれこれもう四半世紀にもなるけれど、その間、起ったことと言えば、「非軍事専門家(非軍事官僚)」の志・能力低下による、「専門家(官僚)」の名存実亡化なのであり、それどころではない、とんでもない状況に、現在の日本は陥ってしまっているのです。(太田)
(続く)