太田述正コラム#10592(2019.6.2)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その39)>(2019.8.21公開)

 これに対して、後年ドイツの社会学者マックス・ウェーバー<(ヴェーバー)>は宗教社会学的観点に立って、ヨーロッパでの資本主義の形成をその内面的動機から説明し、神の栄光を顕現しようとする禁欲的で世俗内的なプロテスタンティズムの倫理にそれを求めました。・・・

⇒ヴェーバーのこの主張のナンセンスさについては、度々指摘してきた(コラム#省略)ところ、ここでは繰り返しません。(太田)

 すでに確立されていたヨーロッパ資本主義をモデルとした日本では、関心の対象は資本主義の内面よりも外面、ウェーバーのいう「精神」よりも機能でした。
 スペンサーの社会進化論的観点に立つ実証主義的な社会学は、そのような日本の要請に沿うものだったのです。
 この点で、勃興期のアメリカ資本主義を担った産業のカリスマ的指導者たちがスペンサーに惹き付けられた同時代のアメリカと同じだったといえるでしょう。・・・
 しかし日本の場合にはアメリカと異なり、スペンサー理論の自由主義的側面よりも国家主義的側面が重視されました。

⇒日本の場合、「上からの資本主義」・・上=国家・・だったのですから、当たり前でしょう。
 また、米国の資本主義は、基本的に、「母国」イギリスのそれと同じ類のものである、と見るべきでしょう。(太田)

 したがって日本では、内務省を推進機関とする国家主導の資本主義形成が行われていきます。
 政治リーダーが同時に経済リーダーとなったのです。
 その最初の例が、薩摩出身で明治政府の事実上の最高指導者であった内務卿大久保利通でした。
 その役割が同じ薩摩出身の松方正義<(コラム#8448、8452、8525、8529、8539、9881、9902、9910、10429)>に引き継がれていきます。
 政治リーダーにして経済リーダーという二面性が、大久保以後の薩摩系のシヴィリアン・リーダーたちの共通性となったのです。

⇒島津斉彬自身が殖産興業論者であった(コラム#省略)ことから、薩摩藩出身者達ならぬ島津斉彬コンセンサス信奉者達は、当然のことながら、全員、殖産興業論者であったのです。
 例えば、肥後藩出身の島津斉彬コンセンサス信奉者であった大隈重信(コラム#省略)も殖産興業論者でした。↓
 「明治13年・・・殖産興業政策の維持を図る大隈案に薩摩の参議は賛成したが、伊藤らは巨額の外債募集に反対し、・・・最終的に、外債は不可、倹約主義に基づく財政改革を行うよう勅諭が下され、大隈の案は退けられた。」
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kensei/kensei-tokubetsuH26.htm
 また、「シヴィリアン・リーダー」も意味不明です。
 長州藩出身の島津斉彬コンセンサス信奉者であった山縣有朋(コラム#省略)は、三谷からすると、「ミリタリー・リーダー」に該当するのかもしれませんが、彼もまた、自ら、殖産興業の担い手になっているからです。↓
 「「国軍の父」といわれる・・・山縣有朋は、殖産興業を目的に、明治19年、那須・高原山山麓(現・矢板市)に伊佐野農場(後の山縣農場)を開場。・・・農家の次男、三男を募集し、44戸300余人が移住して開墾事業に従事し・・・た」
https://tabi-mag.jp/tg0185/ (太田)

 このような薩摩系のリーダーの歴史的役割を引き継ぎ、最終的に日本資本主義の特徴を刻印する政治的経済的リーダーシップを担った人物、それが高橋是清でした。
 高橋は薩摩出身ではありませんでしたが、その官途を経る過程で、文部省では森有礼<(コラム#6559、9713、9902、10042)>、農商務省では前田正名<(コラム#9902、9910)>といった薩摩系官僚の薫陶を受け、さらに金融実務の上でその実績を松方正義に認められました。
 このことが高橋の日本銀行副総裁、そして総裁就任への道を開いたのです。
 その経済財政政策論においては、高橋は大久保にさかのぼる薩摩系官僚の系譜に属すると見てよいでしょう。

⇒「薩摩系のリーダー」を「島津斉彬コンセンサス信奉者」に読み替えればですが、三谷による、興味深い指摘だと思います。(太田)

 大久保とは逆に経済金融専門家として出発した高橋が政治家の道を歩むきっかけとなったのは、大正政変でした。
 1912(大正元)年、薩摩系勢力に対峙する長州系勢力が反政友会系政党勢力の支持を得て第三次桂太郎内閣を成立させますが、政友会その他の政党勢力の憲政擁護運動によってその翌年に退陣します。

⇒薩摩も長州閥も存在しなかった、従って、両者の対峙などもありえなかった(コラム#省略)、以上、このような「分析」は誤りです。(太田)

 そして、薩摩系と政友会との事実上の連立政権として、薩摩系海軍の代表者山本権兵衛を首相とする内閣が発足しました。
 これを機会に高橋は与党政友会に入党し、一転して政党政治家の道を歩んでいくことになります。
 こうして高橋は大久保に発する薩摩系の国家資本主義路線の継承者であり、完成者であるとともに、その転換者にもなるのです。

⇒くどいようですが、「大久保に発する薩摩系の」ではなく、「島津斉彬に発する島津斉彬コンセンサス信奉者達の」です。
 犬養毅が首相の時に五・一五事件で殺害され、また、(かつて首相を務め、)当時は蔵相を務めていた高橋是清が、またもや蔵相を務めていた時に二・二六事件で殺害された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85、及び、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
のは、二人とも島津斉彬コンセンサス信奉者であったというのに、軍部の鉄砲玉達が、(前者は満州国の承認に消極的であったこと(上掲)、後者は、自分が犬養内閣当時に蔵相であった頃から採ってきた軍拡路線の軌道修正をインフレ抑止目的で図ったこと(上掲)、から、)この二人を勝海舟通奏低音信奉者である、と誤解したためであったわけです。(太田)

(続く)