太田述正コラム#10598(2019.6.5)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その41)>(2019.8.24公開)
権力による近代化の最も重要な一環<である>「殖産興業」の名で呼ばれる自立的資本主義化・・・の起点となったのは、明治4年から6年にかけての岩倉具視を全権大使とする使節団の欧米巡遊でした。・・・
⇒くどいようですが、「自立的資本主義化」→「資本主義化」、です。(太田)
彼らの欧米での見聞は、ひとり「殖産興業」政策の起点となったのみならず、富国強兵を志向する明治政府による近代化の起点となりました。・・・
大久保は欧米巡遊を画期としてその政治的志向を単なる権力の強化から広く国民社会の近代化、なかでも産業化へと転換させます。
このような大久保の政治的志向の転換は、大久保を中心とする明治政府それ自体の政治的志向の転換となりました。
⇒三谷さん、ご冗談を、という箇所です。
それらの「起点になったのは、」島津斉彬の集成館事業に決まっているからです。↓
「島津斉彬<は、>・・・<薩摩>藩主に就任するや、・・・洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年7月(新暦:1851年8月頃)には、土佐藩の漂流民で<米国>から帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興し<、>西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している<ほか、>・・・黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させ<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
この「島津斉彬は、・・・藩主就任前<から、>・・・日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業<(注45)>をスローガンに藩政改革を主張していた<のであり、>・・・<また、>1858年に斉彬が亡くなった後、<父親で前藩主の>島津斉興をはじめとする保守派の復権などから集成館事業は一時縮小されたが、1863年の薩英戦争において<英>海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場・・・<と>、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD
ところです。
(注45)「<支那>では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見え・・・<るが、日本では、>幕末期の段階で開国派・攘夷派を問わず、富国強兵の必要性については共通の認識が確立していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5
ところだが、少しネットにあたった限りでは、「殖産興業」については、その概念、用語、のどちらについても、起源を突き止めることができなかった。
支那の戦国時代においては、「富国強兵」の「富国」は、「治水事業を興して生産力を高めて増税をはか<ることであり、>・・・それを可能にしたのが鉄製農具、鉄製の武具の普及であった<ところ>、そのための方策をどのように実現するかをめぐり・・・諸子百家<が競い合った>」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-037.html
というのだから、そもそも、「富国」に「殖産興業」の意味が含まれているというのに、「富国強兵」と並ぶ形で、日本の幕末に「殖産興業」が唱えられるようになった経緯を知りたいのだが・・。
ちなみに、「この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す」(上掲)のです。
斉彬による、この集成館事業を、藩主当時の斉彬によって「登用<され>て朝廷での政局に関わ<りはじめた>・・・西郷隆盛や<とりわけ三谷が言及している>大久保利通」(上掲)は、その「富国強兵」のための「殖産興業」政策を、引き続き推進して行った、というだけのことなのです。(太田)
これ以後、日本は資本主義化の新段階に入ったというべきでしょう。
権力による近代化の心理的促進要因となったのは何だったか。
それを一言でいえば、欧米先進国の文明の理想化されたイメージと対比して生じる、自国の文明への「恥」の意識です。・・・
⇒維新の元勲達が、日本の資本主義化ないし工業化(農業の高度化を含む)の「遅れ」を強く意識していたことは事実でしょうが、それを、三谷のように、「「恥」の意識」と形容してしまうと、あたかも、彼らが、日本の文明が、欧米諸国の文明・・正しくは諸文明だが・・に比べて劣位にあるとの認識を抱いていたかのような誤解を与えかねないので、いかがなものかと思います。
そんな意識は、斉彬には全くなかった(コラム#省略)ところですし、維新後、森鴎外が当時の日本人達に「和魂洋才」を勧めた
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E9%AD%82%E6%B4%8B%E6%89%8D-665000
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E9%AD%82%E6%BC%A2%E6%89%8D%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82%E6%B4%8B%E6%89%8D-1610589 ←不正確
のは、彼等の、かかる共通認識に根差したものであったはずです。(太田)
(続く)