太田述正コラム#10600(2019.6.6)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その42)>(2019.8.25公開)

 文化人類学者のルース・ベネディクトはその名を戦後日本において有名にした『菊と刀』で、「罪の文化」と「恥の文化」とを区別し、前者を代表するものとしてヨーロッパの文化を、後者を代表するものとして日本の文化を挙げています。・・・
 それは「原罪」という観念が根底にある文化と、この世との緊張関係を最小化し、内面よりも外面を重視する分かとの違いであるかもしれません。

⇒私は、『菊と刀』を幼少時代に初めて邦訳で読んだ時に著しい違和感を覚えた記憶があります。
 当時は、その理由をうまく説明できなかったのですが、今なら、こういう説明になります。
 話はあべこべだということなのです。
 「罪の文化」なるものは、カトリック教会由来の旧約聖書解釈なる、自分の「外」に存在する妄想・・これが妄想であることはある意味自明。というのも、原罪なるものは、その説明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
を読んでも、理解するのが困難な概念だからです・・によって人が規律される文化であるのに対し、「恥の文化」ならぬ日本の文化は、人間主義という、科学的に検証済みと言ってよいところの、自分の内面の根底にある(ものの、多くの場合、埋もれているところの、)性向によって人が自己規律する文化だからです。(太田)

 それでは、大久保によって指導された「殖産興業」政策はいかに推進されたのでしょうか。
 まず、1873(明治6)年5月に欧米巡遊を終えて帰国した大久保は当時大蔵卿でしたが、同年11月「殖産興業」政策の推進機関として内務省を設置し、自ら内務卿を兼任します。・・・
 内務省が当時「殖産興業」政策として打ち出したのは、第一は農業技術の近代化と農地の開拓でした。

⇒斉彬による集古館事業の中では登場しなかった分野ですが、農業は支那の『戦国策』に遡る「富国」政策の原点であり、かつ、イギリスの産業発展の原点でもある(典拠省略)ことから、これは大久保の見識を褒めたいですね。(太田)

 ちなみに大久保は官営模範農場を設けただけでなく、自ら私営模範農場も設けました。・・・

⇒大久保だけではなく、「盟友」の山縣有朋もまた、前述したように、同じようなことをやったわけです。(太田)

 農業分野に現れた「殖産興業」政策の特徴は、工業化についても同様です。
 農業での模範農場に見合うものとして、・・・富岡製糸場<等の>・・・模範工場が設営され、工業化の起動力とされました。・・・
 大久保の「殖産興業」政策と密接に関連した分野として、貿易と海運政策を挙げなければなりません。
 大久保の意図は、当時外国貿易商や外国海運業者によってほとんど独占されていた日本の貿易と海運を、直輸出策と海運保護政策によって漸次日本の手に回収することでした。
 まず大久保は直輸出政策の第一歩として、1876(明治9)年に内務省に設置された勧商局を直接の担当者とし、主要産品である生糸や茶等を輸出することを試みます。・・・
 また大久保は・・・当局者を派遣して外国の市場調査を行わせ、それに基づいて新しい輸出産品を開発しようとします。・・・
 大久保の海運保護政策は、徹底して三菱会社に及ぼされました。・・・

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[三菱]

 「日本の商社の起源は、江戸時代末期、坂本龍馬が勝海舟とともに組織した「亀山社中」という海運会社だと言われている。「亀山社中」は物の運搬や貿易の仲介を主な仕事としており、倒幕運動に必要な軍備を手に入れた薩摩藩と長州藩に向けてイギリスと貿易して仕入れた外国の軍備や軍艦を販売していた。」
https://www.u-hyogo.ac.jp/mba/pdf/SBR/3-2/001.pdf
 「慶応3年(1867年)、・・・<この>亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となる<も、>・・・明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた。代表は海援隊の土居市太郎と、<海援隊と同じく土佐藩の藩営事業であった>長崎商会の中川亀之助、<そして、>弥太郎は事業監督を担当した<ところ、>・・・明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、<晴れて>九十九商会の経営者となった。・・・
 明治5年、<この>九十九商会は三川(みつかわ)商会とな<り、更に、>明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し<たところ、>・・・明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、・・・三菱が引き受けた。・・・
 <三菱商会は、その後、>日本の内外航路を独占していた欧米の汽船会社を駆逐するため横浜ー上海間に航路を開いたが、米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争に陥った。政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更した・・・
 <そのまた後、>彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井住友にない社長独裁を謳った。福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいた。明治政府は三菱に命じ、明治8年霊岸島に三菱商船学校が設立(東京商船学校)<され、また>、明治11年、神田錦町に[慶應義塾の分校的教育機関<であるところの、>・・・いわば明治時代のビジネススクールで<あった>]三菱商業学校が設立された。
 明治10年(1877年)の西南戦争で、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送し<て>・・・莫大な利益をあげ・・・所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占め<るに至っ>た。・・・
 弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で<、>熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船とな<るのだが、>・・・現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E5%95%86%E6%A5%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1 ([]内)
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⇒直上の囲み記事のような経緯に照らせば、三菱の源流たる亀山社中は、薩摩藩のダミー会社であり、明治維新後、島津斉彬コンセンサス信奉者達の中から、公的には大久保利通らが、そして、私的には福沢諭吉らが、三菱を支援したのは当然であると言うべきでしょう。
 なお、亀山社中からして、「貿易と海運」を主な仕事としていたことからもうかがえるように、この両者は切っても切り離せない関係にあったのですから、三谷のように、この二つを区分して説明すべきではなかったのではないでしょうか。(太田)

(続く)