太田述正コラム#10620(2019.6.16)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その52)>(2019.89.4公開)

 1889年・・・、日本は実に1873年以来、26年ぶりに外債の新規募集に踏み切りました。
 当時そのイニシアティヴをとったのは、第二次山縣(有朋)内閣の松方蔵相でした。・・・
 ちなみに明治天皇は日清戦争勃発後の1895年4月21日、松方大蔵大臣に対し、戦後財政の基本方針について・・・指示を与えています。・・・
 「・・・外債を起す之弊害は、先年グラント将軍意見言上も有之(これあり)。」・・・
 ・・・にもかかわらず、日清戦争後において松方<は>・・・非外債政策<の>根本的な転換を遂げたのです。・・・

⇒まず、天皇のこの指示は、グラントを持ち出してはいるけれど、日清戦争の後に想定される日露戦争を日本が仕掛ける芽を摘むためには、外債を禁じて資金源を断つ必要がある、と、戦争嫌いの天皇が考えたから下されたと思われ、松方がこの指示を相手にしなかったのは、島津斉彬コンセンサス信奉者であったところの、山縣や松方ら、当時の政府指導者達の大宗が、日清戦争(の予想される)勝利の後、一層の軍備充実の必要性があるという認識で一致していたことと、天皇自身の「任務懈怠」によって、憲法施行から間もない時点で既に政府解釈変更が事実上定着し、天皇主権が議会主権にとって代わられていた、とまでは行かないまでも、少なくとも、天皇の象徴化と「有司専制」が当然視されるに至っていたこと、からであろう、というのが私の見解です。(太田)

 それを可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです。
 いいかえれば、不平等条約からの部分的離脱と日清戦争の戦勝とが日本の経済的な対外信用の増大をもたらしたのです。・・・
 日露戦争が・・・開戦されると、・・・日本の外債依存度は質量ともに・・・飛躍的に増大したのです。・・・
 第一に外債は量的に6倍以上に膨張したのみならず、既発の外債はその借換えの必要から新たな外債を呼ぶ誘因となり、・・・さらに戦争によって獲得した南満州権益等は、その維持のために外債依存の必要をますます強めることになりました。・・・
 また第二に日露戦争前は英国にのみ限られていた募債の対象が、・・・米独仏3国にも及ぶにいたります。・・・
 高橋は・・・資本の国際的な自由移動に積極的な自由貿易論者であるというよりも、それに対して消極的な保護貿易論者であり、外債についても<松方同様、>本来は否定的でした。・・・
 <そんな>松方や高橋が、日清・日露両戦争がもたらした国際政治経済状況の変化に適応する形で、・・・<それぞれの>本来の信条に反して・・・自立的資本主義の転換を先導したのです。・・・

⇒繰り返しになりますが、松方も、松方の薫陶を受けたところの、(かつ、日露戦争当時は松方の作った日本銀行の副総裁であったところの、)高橋(注56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 前掲
も、自分達の「本来の信条」たる経済政策など持ち合わせておらず、松方への「セイの「レク」の核心であったところの、「「場所や時」に応じて、柔軟に「経済政策」を行うべきだ」、に忠実に」行動しただけのことだった、というのが私の見解です。(太田)

 (注56)高橋は、父親は幕府御用絵師、母親の実家は魚屋、で、仙台藩の足軽の養子になった、という人物であり、その後の米国「留学」時を含め、まともな教育を受けておらず、帰国後、米国滞在中に出会った森有礼のつてで文部省に入省、更に農商務省に移り、一時ペルーに滞在し、その後、日銀に入行した、という経歴であり(上掲)、松方同様、経済や財政について学ぶ機会があった形跡はない。

(続く)