太田述正コラム#10624(2019.6.18)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その54)>(2019.9.6公開)
井上が果たした役割は、モルガン商会・・・の中心的リーダーであるT・W・ラモント<(注58)>・・・に協力して日本を1920年に成立した中国に対する米英仏日四国借款団に加入させ、それを媒介として英米の国際金融資本との提携を強化したことです。・・・
(注58)1870~1948年。ハーヴァード大(文系)を優等で卒業。モルガン商会当主の息子と共に、米国での中央銀行・・連邦準備制度的なもの・・の設立を構想。実業家として活躍。1911年にモルガン商会のパートナーになる。第一次世界大戦時には政府内で、戦時公債の米国内での販売に協力すると共に非公式に連合国顧問を務めた。戦後はパリ平和会議に米財務省代表の一人として参加し、ドイツの賠償計画を策定した。その後、モルガン商会のスポークスマンの役割を担う(第二次世界大戦中にその会長にまで上り詰める)と共に、ウィルソン、フーヴァー、ローズベルトの各大統領の非公式顧問を務めた。
日本に対しては、満州事変時を含め、好意的な姿勢を取り続けた。
その日本によって、彼は、1945年4月、潜水艦乗組員だったところの、彼の孫の一人を、潜水艦を(恐らくは)撃沈されることで失っている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_W._Lamont
あの有名なモルガンお雪は、当時のモルガン商会当主の甥に嫁いだもの。
https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/12/%E3%81%8A%E9%9B%AA.html
モルガン商会は、2000年にケミカル(チェース・マンハッタン)と合併し、JPモルガン・チェースとなって現在に至る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/JP%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9
中国に対する米英仏日四国借款団結成のための交渉は、その活動範囲から日本が特権的地位を主張する南満州・東部内蒙古(いわゆる満蒙)地域を除外すべきか否かをめぐって、満蒙除外(満蒙留保)を要求する日本と他の三国との交渉は難航しました。
1920年3月から5月にかけて局面を打開するために米国国務省の要請を受けて米国銀行団を代表するラモントが来日しましたが、日本側を代表してラモントとの交渉に当たったのが当時の日銀総裁井上準之助でした。
両者の交渉の結果、日本側は借款団の活動範囲に例外は設けないという原則を受け入れ、米英仏三国側は日本が特権的地位を有する満蒙地域の現実を受け入れ、実際上その地域における借款団の共同事業は行わないという日本との間の暗黙の了解の下に四国借款団は成立したのでした。
ラモントは対日交渉妥結後、国務省に宛てた電報の中で交渉における井上の役割を次のように評価しています。
<「>・・・井上・・・はいわゆる近代日本の自由主義者グループの優れたタイプである。
満蒙留保方式に執拗にしがみつき、今もなお政府を動かしている軍閥を解体する必要を政府にわからせるために彼は倦むことなく働いた。<」>
⇒その後の、満州事変時のラモントの姿勢からして、むしろ、彼は、日本の「軍閥」に共感を寄せており、他方、井上はバカにしていて、その井上ら日本の「自由主義者」を盛り立てるためとの心にもないウソを述べ立てることによって、「軍閥」の意向に沿った、四国借款団結成を実現させた、ということではないでしょうか。(太田)
・・・要するに四国借款団は、ワシントン体制の成立に先立って、その経済的部分を形成したものといえます。
第一次大戦後パリ平和会議に米国使節団随員として参加したラモントは、後に四国借款団を「小国際連盟」(A little League of Nations)と呼んでいます。・・・
<こうして、>ラモント–井上ルートが米英資本導入の主要なルートとなったのです。
それは特に米英国際金融資本が中国市場に対する関心を失ってくるのと反比例的に増大していきます。
つまり投資対象としての中国の政治的経済的不安定化が日本の相対的安定性への評価を高めたのです。・・・
⇒ラモントは「中国の政治的経済的不安定化」を早い時期から予想していて、だからこそ、「日本の「軍閥」」による、満蒙の安定化、ひいては支那本体の安定化、に期待を抱いていたのではないでしょうか。(太田)
(続く)