太田述正コラム#10636(2019.6.24)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その60)>(2019.9.12公開)

 それには二つの理由が考えられます。
 一つの理由は、当時の日本が先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったことです。
 「非公式帝国」とは、最恵国条款(most favored nation clause)、つまり一国が貿易相手国に対して有する通商上の権利を他国もまた享受するという条約上の条項によって、不平等条約のもたらす経済的利益を共有する欧米諸国の「集団非公式帝国」でした。
 日本は未だそのアウトサイダーに止まっていたのです。

⇒「自由貿易帝国主義」ではない欧米諸国もあった・・米国だって、例えば、フィリピンを軍事力で独立勢力を根絶やしにして獲得(典拠省略)したところの「公式帝国」でした・・のですから、「「自由貿易帝国主義」による「非公式帝国」」、なるものは、ほぼ英蘭だけである、と私は思いますが、三谷の指摘中「最恵国条款」以後の部分は必ずしも間違ってはいません。
 「必ずしも」なのは、「集団非公式帝国」のインサイダーになる要件として、最恵国最恵国条款適用に加えて治外法権の撤廃も必要であった、すなわち、2種の不平等条約
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%B9%B3%E7%AD%89%E6%9D%A1%E7%B4%84
の撤廃の必要、があったからです。
 なお、「日本<自身、>・・・朝鮮、清に対して日朝修好条規や<日清戦争後の>下関条約、「日清通商航海条約」など不平等条約を結んだ」(上掲)ところです。(太田)

 当時の日本は欧米諸国との間で未だ大使の交換を認められておらず、これら諸国との間では在外公館は大使館(Embassy)ではなく、公使館(Legation)<(注65)>のレベルに止まっていました。

 (注65)「特命全権大使(大使)<は、>接受国の元首に対して派遣<、>特命全権公使(公使)<は、>接受国の外務大臣に対して派遣」
https://elite-lane.com/embassy-legation-consulate/

⇒「注65」の邦語記事・・典拠不明・・、と、三谷の、大使、公使に係る、ここまで、と、これから先、の指摘とは、一見、整合性があるように見えるけれど、三谷の指摘は、著しく不正確です。
 19世紀、及び、20世紀初、においては、在外公館の大部分は公使館であり、大使館は大国たる君主国が相手国に大使館を設置する場合があっただけです。
 他方、共和国や小国たる君主国は相手国に公使館しか設置しませんでした。
 で、相互主義から、大国たる君主国も、共和国や小国たる君主国には公使館を設置しました。ところが、大国のフランスが共和国(第三共和制)となり、また、共和国の米国が大国になり、フランスは、引き続き相手国に大使館を設置し大使館も受け入れ続け、1893年から米国もフランスの例に倣い始めた結果、以後、次第に、在外公館と言えば、大使館、ということになって行ったのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Legation

 当時のヨーロッパ中心の国際社会は格差社会です。
 大使の交換はいわゆる一等国(The First Class Power)相互間にのみ認められるのが国際慣習でした。
 日本が欧米諸国との間で大使の交換を認められるのは日露戦争後のことです。
 日露戦争の勝利によって日本は国際社会においてはじめて一等国として認知され、実質的意味の国際社会のメンバーとなったのです。
 ちなみに中国の場合、欧米諸国や日本との間で大使の交換が行われ、それぞれに大使館が開設されるのは、1934年のことです。・・・
 日本が「自由貿易帝国主義」による「非公式帝国」の拡大よりも、現実の植民地領有を優先したもう一つの理由は、日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということです。
 ヨーロッパの植民地が本国とは隣接しない遠隔地に作られたのに対して、植民地帝国日本の膨張は、本国の国境線に直接する南方及び北方地域への空間的拡大として行われました。

⇒このくだりは、先回りして開陳した私見と、部分的に一致していますね。(太田)

 いいかえれば、日本の場合にはナショナリズムの発展が帝国主義と結びつき、しかもそのことが欧米諸国とは異なる日本の植民地帝国の特性をもたらしたと見ることができます。

⇒しかし、すぐに三谷はおかしなことを言い出します。
 まず、ロシアの領域や勢力圏拡大は安全保障上の理由から行われた点で日本とほぼ同じであったところ、「安全保障」は全ての国家にとって、経済等の他の事柄よりも重要であるからして、日本の場合もロシアの場合も、「安全保障関心」と「ナショナリズム」とは直接関係などありません。
 (この点での日本のロシアとの類似性は、日本が、江戸時代中期以降、最大の潜在敵国であり続けたロシアの脅威に対処するにあたって、意識的、無意識的に相手の真似をした、ということなのかもしれません。
 なお、ひょっとしてですが、そもそも、三谷は、ロシアを「欧米諸国」の中に入れていないのかもしれませんね。)
 「ナショナリズム」と直接関係があったのは、英蘭等とは違って、仏独伊や米国のように、国家威信の増大関心のために領域や勢力圏拡大を行った列強においてでしょう。(太田)

(続く)