太田述正コラム#10642(2019.6.27)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その63)>(2019.9.15公開)
憲法との関連で、植民地の法的位置づけをおそらく最初に打ち出したのは、美濃部達吉が1912(明治45)年に公刊した『憲法講話』でした。・・・
植民地・・・を美濃部は「異法区域」あるいは「特殊統治区域」と呼んだのです。・・・
⇒植民地について、日本がどうしてそうしたか、に触れないのでは片手落ちというものです。
「植民地が異法域となった要因・・・は<、次の通りだ。>
第1に,そもそも・・・帝国の領域として併合・編入された空間が,異なった法慣習をもった空間として存在していたという歴然たる事実に対応せざるをえない必要があったためである。・・・
第2<に>・・・,植民地統治に当たる行政機関が司法権を含めた行政権の独立的行使を要求したことが挙げられる。そもそも日本の植民地の多くが軍事活動の結果として得られたものであったために,台湾総督府や関東都督府そして朝鮮総督府などの植民地統治機関は,軍人を首長とする軍衙組織としての性格をもって発足したものが殆どであった。また,植民地開始期において多くの抵抗運動に対処せざるをえなかったために,平時行政と異なる軍事行政の一環としての植民地行政を専断的に行う必要があるとして本国では適用されない法論理をもって刑事法令や治安法規が制定されることになった。・・・
第3に・・・,「財政的自立」を進めるためにも 中央政府ないし議会における野党からの統制を回避したいという要請があった・・・<。すなわち、>財政<について、>・・・これを憲法通りにしなければならぬことにしておくと予算に置いて総督府の経費は一々<議会の>協賛を経なければならぬことになるから,それでは面倒である故,台湾の事は総督府が勝手にきめる,そうしてその勝手にきめたことは法律の効力を持って居るということにした・・・
<いずれにせよ、>ドイツの法学者シュミット Schmitt ,Carl)<も、>イギリスやフランスの植民地について・・・, 「国内法的には外国, 国際法的には 国内(staatsrechtlich Auslad ,vo lk errechtlich Innlad) として存在していた・・・」<と>指摘したように<、この点で、日本の植民地は、別段、欧米列強の植民地と異なっていたわけではない。>
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/156382/1/101_63.pdf 但し、第2の前段については、私が既に記したことも加味すべきでしょう。(太田)
朝鮮・台湾・樺太や関東州租借地の人民は、帝国議会に代表者を出す権利を与えられず、また憲法上の自由権も認められていませんでした。
⇒「韓国併合により、在朝日本人は治外法権に基づく自治権を失い、朝鮮人と同じ無権利状態におかれた」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135488/1/ybunk00409.pdf
という具合に、「人民」には日本の内地出身者達も含まれていたことを三谷は注意喚起すべきでした。(太田)
「司法権の独立」も完全にはなく、行政権と立法権との分立もありませんでした。
⇒日本国憲法下でも、戦後日本を議会主権制・・立法府が行政、司法も掌握・・の一種と見ることができる(コラム#省略)ことはさておき、行政府によって最高裁裁判官達が任命され、彼らが、全裁判所の管理運営にあたっている(典拠省略)以上、「完全」な「司法権の独立」など存在しませんが、明治憲法下ではなおさらであった、という事実から、三谷は目を逸らしています。
なお、植民地において、実際に司法(裁判)を行った人々は、内地から送り込まれた司法官達であった、
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B8%E6%B3%95%E5%AE%98%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E6%BA%80%E6%B4%B2%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B8%E6%B3%95-%E4%B8%8A%E7%94%B0-%E8%AA%A0%E5%90%89/dp/4763403125
ということも付記しておきます。(太田)
さらに、非常に包括的・一般的な立法権の委任が植民地や租借地では行われていました。・・・
もし憲法が朝鮮・台湾にも効力を及ぼしているならば、帝国議会の協賛を経ない総督による立法は明白な憲法違反です。
現に1896(明治29)年帝国議会で成立した法律第63号によって、台湾総督はその管轄区域内において法律の効力を有する命令を発することができましたが、これに対しては美濃部や政府に近い立場にいた穂積八束を含めて憲法学者の間で違憲説が唱えられます。
⇒典拠が付されていないところ、少なくともこの2人が違憲説を唱えたかどうか、調べがつきませんでした。(太田)
これは、法律第63号が惹き起こしたいわゆる「六・三問題」<(注72)>として憲法上の問題を残したのでした。
(注72)台湾人らによる、「日本統治時代の台湾においてとられていた台湾総督に「特別統治」の権限を与える法律である、いわゆる「六三法」の撤廃を目指し、台湾を日本の憲法体系に組み入れさせようとする運動である・・・六三法撤廃運動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E4%B8%89%E6%B3%95%E6%92%A4%E5%BB%83%E9%81%8B%E5%8B%95
こそあったが、「六・三問題」なるものがあったかどうかは調べがつかなかった。
(続く)