太田述正コラム#10644(2019.6.28)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その64)>(2019.9.16公開)

 1913(大正2)年から1914(大正3)年にかけて出現した第一次山本権兵衛内閣は、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛首相の下で、薩摩および海軍と大正初頭の第一次憲政擁護運動<(注73)(コラム#8543)>の一翼を担った政友会とが提携した事実上の連合政権です。

 (注73)「行財政整理により財源を確保し、日露戦後経営の完遂を期す第二次西園寺公望内閣下の1912年11月、上原勇作陸相は海軍拡張に対抗して2個師団増設を要求したが、これがいれられないとなると、12月2日辞表を単独で天皇に提出した。そして陸軍から後任大臣を得られなかった西園寺内閣は5日総辞職し、21日内大臣兼侍従長の桂太郎がとくに詔勅を得て第三次内閣を組織した。これら一連の事態は藩閥の横暴と広く受けとめられ、憲政擁護運動を興起させた。
 運動は西園寺内閣倒壊直後に本格化した。まず立憲政友会各地支部が増師反対、閥族剿滅(そうめつ)の決議をあげ、東京では12月13日に新聞記者、弁護士らが憲政作振会を結成、14日慶応義塾出身者のクラブ交詢社の有志が、政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅を引っ張り出して時局懇親会を開き、憲政擁護会を発足させた。・・・
 13年2月10日憲政擁護を叫ぶ数万の大衆が議事堂を包囲し,翌11日桂内閣は倒れた。この政変は民衆運動が内閣を打倒した最初のものであり,「大正の政変」とも呼ばれる。・・・
 後継内閣は海軍大将の山本権兵衛が政友会を与党として組織した。民衆の多くは政友・国民両党提携による政党内閣を期待していたから、政友会の妥協は民衆を失望させた。・・・
 これに対し山本内閣・政友会は文官任用令改正、軍部大臣現役武官制改正(現役規定をなくす)、行財政整理断行などによって批判をかわし、運動はいちおう収束した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%86%B2%E6%94%BF%E6%93%81%E8%AD%B7%E9%81%8B%E5%8B%95-60772
 「<陸軍は、>増師<を>・・・以後も強く要求し続け、第二次大隈重信内閣下の15年に認められた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C-1192461

 したがって、反長州・反陸軍の志向の強い政権でした。

⇒内閣は、第二次西園寺→第三次桂→第一次山本→第二次大隈、と変わったわけですが、武士もどきの西園寺こそ横井小楠(のみ)コンセンサス信奉者であったと私は見ている(コラム#10238で、黙示的にそうしている)けれど、桂は長州藩士出身ながら山縣が目をかけた「一応の」島津斉彬コンセンサス信奉者です(コラム#10042)し、薩摩藩出身の山本は言うまでもなく島津斉彬コンセンサス信奉者で、大隈もまた、佐賀藩士出身ながら島津斉彬コンセンサス信奉者です(コラム#9902)。
 また、この間、陸相は、上原勇作→木越安綱→柿瀬幸彦→岡市之助、と変わりますが、上原は、紛れもなく薩摩藩出身の島津斉彬コンセンサス信奉者であった(コラム#省略)のに対し、木越こそ、「金沢藩士・・・の二男<だが、>・・・日清戦争では第3師団参謀として第3師団長・桂太郎のもとで活躍、・・・それをきっかけにして長州閥の寵児として出世してい<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B6%8A%E5%AE%89%E7%B6%B1
人物であることから横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であった可能性があるものの、楠瀬は、「土佐藩士・・・の長男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6
ですから、島津斉彬コンセンサス信奉者でしょうし、岡は、「長州藩士・・・の二男<で>・・・陸軍長州閥の中心的存在であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B8%82%E4%B9%8B%E5%8A%A9
けれど、「軍部大臣現役武官制改正問題では、次官でありながら木越安綱陸相批判の急先鋒とな<り、>第3師団長を経て・・・陸軍大臣に就任し、上原勇作陸相以来の懸案であった2個師団増設を実現した。」(上掲)というのですから、木越の伝で行けば、「日清戦争には第1師団参謀として出征」した時に、師団長であった「土佐藩士・・・の長男<である>・・・山地元治(やまじもとはる)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E5%85%83%E6%B2%BB
の感化で、島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた可能性が大です。
 ウィキペディア執筆者達も、薩摩閥と長州閥の対立という妄想的謬見に染まってしまっていますが、以上のように私の視点で見ていただくと、日露戦争での日本の勝利とその後の日露協商によって、ロシアの脅威が大幅に低減した状況下で、政府部内において、(ロシアの脅威がもっぱら念頭にある)横井小楠コンセンサス信奉者達、と、(対欧米勢力のアジアからの駆逐までもが念頭にある)島津斉彬コンセンサス信奉者達、との間に、増師問題等を契機に亀裂が入ったものの、政府部内においては、後者が多数を占めていたため、2年の抗争を経て増師が実現した、ということが分かると思います。
 で、憲政擁護運動なるものは、この政府部内の亀裂を奇貨として、政党勢力が、各党が他党を最終的には出し抜こうという思いを抱きながら、政府部内の増師論者達を叩くという旗印を掲げる形で野合し、世論を扇動することによって引き起こした、というのが私の見方です。
 ですから、政党勢力の中に、鍵となる人物の一人として、島津斉彬コンセンサス信奉者たる犬養毅が登場しても、全く不思議ではないわけです。(太田)

(続く)