太田述正コラム#10654(2019.7.3)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その66)>(2019.9.21公開)

 <しかし、>1917年<7月28日
https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0020-0020-0020.html 前掲>
には寺内内閣の下で、第一次山本内閣によって一旦廃止された拓植局が復活し、内閣総理大臣の管理下に一元的な植民地統治体制が再生しました。
 そしてそれとともに、関東州租借地では陸軍大・中将である関東都督によって統括される関東都督府の権限が強化されることになりました。・・・

⇒釈迦に説法だと叱られそうですが、三谷は日本政治外交史専攻であるところ、政治「外交」史を研究するにあたっては、日本を取り巻く国際情勢がどうなっていたかに常に思いを巡らしてしかるべきでしょう。
 少しでも、当時の日本を取り巻く国際情勢について思いを致せば、支那もロシアも著しく不安定化しつつあったわけであり、日本における、安全保障上の最前線に係る官制改正にそれが影響を及ぼした、と考えるのが自然というものです。
 まず、支那ですが、1911年の辛亥革命以来、その状況が極度に流動化しており、1915年末に袁世凱が帝政宣言を行ってからその撤回に追い込まれ、彼の1916年の「憤死」後、大総統となった黎元洪も、1917年7月1日の張勲による清の宣統帝の復位クーデタ(張勲復辟)で日本公使館に逃げ込み、このクーデタが覆された2日後の7月14日に大総統を辞任する、という有様でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8E%E5%85%83%E6%B4%AA
 また、ロシアですが、1917年2月に2月革命が起きて帝政が倒れ、その後も政治不安が続き、7月3日から7日には、ボルシェヴィキが臨時政府に対して暴動を起こし、鎮圧される、という事件(4月危機)が起きています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Provisional_Government
 帝国陸軍に日本の俊秀中の上澄みが集まっていたこと(コラム#省略)を想起するまでもなく、彼らの中の島津斉彬コンセンサス信奉者達にせよ横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達にせよ、スパイ網等を通じ、ボルシェヴィキが依然隠然たる力を保持していることを把握できていたはずであり、そのボルシェヴィキがロシアの権力を掌握した場合、そんなロシアが、上記のようにグジャグジャになっていた支那、そして日本統治下にあった関東州租借地や朝鮮半島、ひいては日本内地、に対して、再び軍事的脅威になるであろうこと、しかもそれに加えて、新たにイデオロギー的脅威にもなるであろうこと、を容易に予見できたはずであり、かかる事態に備えるべく、帝国陸軍が、関東州租借地を含め、日本の「植民地」の統治体制の一元化と強化を図ったのは当然ではないでしょうか。(太田)

 <次の、>大正後半期における一連の植民地官制改正の試み<は、>・・・国際協調とナショナリズムという第一次大戦後の二つの時代の要請に対して、帝国主義の遺産をいかに守るかという問題意識から生まれたの<です。>・・・

⇒そんな甘っちょろい話ではなく、「1921年に・・・ワシントン会議が開催され、ここで、日本、<英国>、<米国>、フランスによる四カ国条約が締結されて<日英>同盟の更新は行わないことが決定され」た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
一方で、(上述した)ロシアの脅威が再顕在化した(下述)、という、日本の安全保障上の深刻な危機、にどう対処するかという問題意識から生まれた、というのが、ごく当たり前の見方だと思っているのです。(太田)

 原内閣は・・・陸軍大・中将である関東都督に集中していた軍事・行政・経済の三権を分離<すべく、>・・・関東都督府を廃止し、行政部門を独立させ、それを担当する関東庁を設置し、その最高責任者である関東庁長官の文官化と自由任用を可能にし<ようと>したので<す。>・・・
 原は・・・山県の推薦によって就任した陸軍大臣である田中義一に・・・将来の北満州、すなわち関東州租借地外および満鉄付属地外への作戦を想定し、南満州行政に拘束されない軍事行動の自由を確保する<ためという>説明<をさせ、>・・・寺内前首相らを説得させ<たのです。>・・・

⇒語るに落ちた、とはこのことです。
 話は逆で、日本としてはホンネではボルシェヴィキによるロシア全土掌握を回避するために行ったところの、シベリア出兵が、日本にとって極めて不本意な形で終わろうとしていたこの時期(注75)、すなわち、ロシアの脅威が顕在化するに至ったこの時期、に、帝国陸軍が、原らだけにこの真の目的を開示した上で、彼等を使って、政府部内の、(私の言うところの)勝海舟通奏低音信奉者達を(用いるリクツは原らに任せつつ)説得させた、に違いないでしょうね。(太田)

 (注75)シベリア出兵は、1918年8月~1922年10月
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
原内閣は、1918年9月29日~1921年11月4日(原暗殺)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

(続く)