太田述正コラム#10680(2019.7.16)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その77)>(2019.10.4公開)

 こうした「地域主義」のイデオロギー的影響は、日本の国際法学にも及びました。
 1940年に「大東亜新秩序」(さらに「大東亜共栄圏」)が提唱されると、その原モデルとして重視されたのは、一つは当時のナチス・ドイツの公法学者たち、とくにカール・シュミット(Carl Schmitt)によって提唱された欧州広域<(注87)>国際法の理論、またもう一つはモンロー・ドクトリンにあらわれた米国を中心とするアメリカ大陸の国際法秩序でした。

 (注87)広域、ないし、広域圏(Grossraum)。(前掲(※))
 なお、このシュミットの広域圏の原モデルもまた、モンロー・ドクトリンだった。
https://www.researchgate.net/publication/274538039_The_question_of_space_in_Carl_Schmitt
 シュミットには、日本の「アジア・モンロー主義」(1939年)という論文まである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

 これら二つの事例は、「地域主義」的国際法の原理を提示したものとして、「大東亜国際法<(注88)>」の先駆と見なされたのです。・・・

 (注88)「開国期以降、特に、日清・日露戦争の過程において示されたように、(少なくとも表面上は)近代国際法遵守という日本の態度は一貫していたとする点では、見解の一致が見られる。しかし、このような日本の国際法遵守の姿勢は、日中戦争及び第二次世界大戦の中で180度の転換とも言うべき事態を迎えるとされる。・・・
 大東亜国際法の一連の理論構築作業の中で、極めて重要な役割を果たしたと思われる研究者は、松下正壽(立教大学教授)・・・大平善悟(東京商科大学教授)・・・前原光雄(慶應義塾大学教授)・・・である。・・・以上の他にも、安井郁(東京帝国大学教授)・・・英修道(慶應義塾大学教授)・・・小野清一郎(東京帝国大学教授)・・・田畑茂二郎(京都帝国大学教授)等々が、・・・主要な研究者として挙げられる。・・・
 「共栄圏」という結合を国家の生存のための(或いは、国家の「生存権」に基づく)「運命的」・「必然的」なものとする・・・論考<がいくつか見られる>・・・と同時にこの結合の「必然性は、・・・「道義意識」や「東洋倫理観」というような観念により媒介されることが多い。
 <また、>「指導国」(又は「主導国」<・・概ねは日本を指している・・>)の存在を共栄圏内に認める<。>」
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/listitem.php?index_id=56353  たとえば、明石欽司「「一八世紀」及び「一九世紀」における国際法観念(一) : 「勢力均衡」を題材として」。

⇒「注88」中に登場する学者達はほとんどが国際法学者ですが、唯一の例外が小野清一郎(1891~1986年)(刑法学者)です。
 彼の刑法理論については、私に若干の知識はあったところ、彼のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E
では、彼による法哲学や仏教の著作も列記はされてはいるものの、「大東亜国際法」を直接連想させるようなタイトルの著作は見いだせませんでした。
 また、安井郁(かおる。1907~80年)については、戦後の原水爆禁止運動や金日成の主体(チュチェ)思想礼賛で有名ですが、そんな彼が、「大東亜国際法」を唱え、戦後公職追放された人物であったとは驚きです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%83%81
 彼、常に巧みに時流に乗ろうとした、器用な・・不器用な?・・「学者」、といったところでしょうか。
 また、田畑茂二郎(しげじろう。1911~2001年)も、戦後、「平和」運動で有名ですが、安井のウィキペディア(前掲)で、安井が「田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した」と記されているというのに、田畑のウィキペディアには、田畑と「大東亜国際法」との関係を示唆する記述はありませんし、彼が戦後公職追放されていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%95%91%E8%8C%82%E4%BA%8C%E9%83%8E
こととも相俟って、怪訝な思いがしています。(太田)

 この時期の日本主導の「地域主義」は、文化的基礎づけを欠いていたといえます。

⇒1930年代において、一つは、人間(じんかん)(間柄)概念を中核とした日本文明論・・いわゆる和辻倫理学・・の和辻哲郎による提示、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6
二つは、宮沢賢治による、私の言うところの人間主義の実践を訴えた『グスコーブドリの伝記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%AA%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98
に象徴される童話群の発表、といったものが、今から振り返れば、「地域主義」の事実上の「文化的基礎づけ」になっていたのであり、これらを、意識的に地域主義に取り込んで自分達の主張を補強しつつ展開しようとしなかったところの、当時の、広義の政治を志向した、日本の識者達は、何と怠慢であったことよ、と言いたくなります。(太田)

(続く)