太田述正コラム#10893(2019.10.30)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その7)>(2020.1.20公開)
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[北京の読み方等]
言及しないでおこうかとも思ったのだが、関岡は、「山東人は北京を「ベィキン」、南京を「ナンキン」と発音する。日本人が北京を「ペキン」と読むようになったのは、山東省出身者の漢人が多い満州での生活体験から来るのではないか。」(61)としているが、以下を読めば分かるように、誤りだ。↓
・・・”Peking” is a spelling created by French missionaries of the 17th and 18th centuries.
In De Christiana expeditione apud Sinas (1615), Matteo Ricci calls the city Pechinum. (The English translation gives Pequin.)
”Peking” appears in A Description of the Empire of China (1735) by Jean-Baptiste Du Halde. These early spellings may represent pronunciation in the Nanjing dialect, which was used as a lingua franca at this time, or the various other southern Chinese languages (e.g., Cantonese, Hokkien and Hakka) used by the traders of the port cities visited by early European traders.
Peking was the English name of the city until the adoption of pinyin.
However, it is still employed adjectivally in terms such as “Pekingese”, “Peking duck”, “Peking Man” and various others.
The name is retained at Peking University as well.
The name remains in common and official use in many other languages. ・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Names_of_Beijing
論文執筆の教育訓練を受けているはずの三谷太一郎の著作にさえ、思い付きレベルの叙述が再三見られたくらいなのだから、関岡をこういった点で批判するのは酷なのかもしれないが、「山東人は北京を「ベィキン」・・・と発音する」のが本当だとして、「「ペ」キン」とは発音しないのだから、念のため、もっと符合する他の説がないかを確かめる労をとるべきだった。
関岡は10代から30代にかけて、支那から始め、中東を含むアジア各地を旅して回った(56~57)というが、その折にでも、北京ダック(上出)を食べて、英文メニュー・・Peking Duck・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Peking_duck
を見たことがないのだろうか・・若い頃には「全聚徳」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E8%81%9A%E5%BE%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Quanjude
のじゃあ高過ぎて手が出なかった可能性はあるが・・、また、支那に関わるこういう本も書いているというのに、北京大学・・Peking University・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6
(上出)に言及した英語の本を読んだことがないのだろうか。
それだけでも、北京を「ペキン」と発音するのは日本人だけではないことくらいは気が付いたはずなのだが・・。
付記すれば、「ダライ・ラマ4世はアルタン・ハーンの孫」(58)・・「アルタン・ハーンの曽孫」の間違い・・も、祥伝社の校正者を咎めるより、恐らくは原稿をそう書いたところの、関岡のケアレス・ミスを咎めるべきだろう。
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だが、近代日本とモンゴルとの関わりは、実は明治時代にさかのぼる。
そのきっかけは川嶋浪速・・・の人脈から偶然生まれたものだった。・・・
1911年10月、辛亥革命で清朝が崩壊すると、わずか2カ月後の12月1日、外モンゴルは独立を宣言、ジェプツンダンバ・ホトクト8世<(注17)>が国家元首に推戴されてボグド・ハーンを称号とし、ここに新たな君主制国家が誕生した。
(注17)Bogd Khan(1869~1924年)。「チベット人。・・・1890年、郡王ドルジパラムと対立した際、清朝皇帝はジェプツンダンバを支持し、郡王はその爵位を剥奪された。その後、ジェブツンダンバの請願によってドルジパラムは爵位を取り戻した。この事件以降、すべての王侯たちは彼の指示に従うようになった、とされる。・・・
1912年には内モンゴルの諸侯も帰服したため、南部境域安撫大臣を設け、1913年1月には内モンゴルに軍隊を派遣して帝政ロシアの要請で撤退するまでは内外モンゴルの統一を画策した。
1917年の十月革命で後ろ盾だった帝政ロシアが崩壊してからはナムナンスレンを赤軍と接触させて協力を仰ぐも失敗し、1919年に中華民国(北京政府)軍にモンゴルを占領され、ボグド・ハーンは退位させられ、自宅軟禁下に置かれた。
しかし、1921年に《ロシア人で白軍の首領の一人の》ウンゲルン男爵の軍がフレー<(後のウランバートル)>を奪取する直前、ボグド・ハーンは自由の身となり復位した。ウンゲルン男爵の暴虐で人心が離反し、同年4月にボグド・ハーンも北京に支援を要請したころ、赤軍やモンゴル人民党、ブリヤート人革命家らに指導された革命が起こり、1924年に死去するまで、立憲君主制の下で帝位にあることを許された。ボグド・ハーンの死後、共産主義政権はもはや活仏の転生を認めず、モンゴル人民共和国の建国を宣言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%B3 (《》内)
ジェプツンダンバ・ホトクト<(注18)>はチベット仏教の活仏で、17世紀以来、歴代にわたってハルハとオイラートを中心とする外モンゴルの宗教上の指導者であった。
(注18)「1614年、チョナン派の<チベット人>高僧ターラナータはモンゴルへ巡錫し、20年ほどそこで布教をしていた。ターラナータはモンゴル人の信頼を得、モンゴル人は「ジェプツンダンパ」と彼のことを呼んだ。1634年にターラナータは没したが、翌年に生まれたハルハ部のトゥシェート・ハーンの息子ザナバザルをその転生とし、法名を「ロサン・テンペーギェンツェン」としてモンゴル独自の法王を立てた。
1649年、ザナバザルはチベットへ修行に行った。当時チベットは<オイラト人の>グシ・ハンの勢力下にあり、チョナン派はゲルク派に取って代わられようとしていた。1650年、ザナバザルはパンチェン・ラマ4世から受戒し、正式に僧となった。そして、ダライ・ラマ5世と謁見し、ゲルク派に改宗の上で活仏と認定するということで、翌年ゲルク派に改宗し、ザナバザルは正式に「ジェブツンダンパ・ホトクト1世」となった。1657年、モンゴルへ戻ったザナバザルは[カラコルム近郊<に>・・・1585年・・・建設<された>・・・モンゴルで最古の寺院<である>]エルデネ・ゾーでチベット仕込みの仏教を広めていくこととなる。1688年、<オイラトの>ジュンガル部のガルダン・ハーンから攻撃を受けて清へ助けを求め、後に冊封の関係を結んだ。
1691年、康熙帝より「ホトクト大ラマ」の称号を賜り、ハルハ地方の宗教的、政治的指導者へと上りつめていった。以降、ジェプツンダンパの名跡は清朝の冊封を受けてからダライ・ラマが追認するという形式となった。
〈世以降の転生者はチベット人から選ばれた。 〉」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%BC ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3 (前掲)(〈〉内)
⇒チベットとは違って、モンゴルでは、神政政治は19世紀末から20世紀初頭にかけての極めて短い期間においてのみであった、というわけです。
それにしても、中華民国から独立した時点のモンゴルの元首がチベット人であったとは気が付きませんでした。(太田)
(続く)