太田述正コラム#11025(2020.1.4)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その15)>(2020.3.26公開)
3 福沢における「実学」の転回–福沢諭吉の哲学研究除雪–(1947年)
「・・・我国に於て「啓蒙」を語ることは即ち福沢を語ることであるといっても過言でない。・・・
大西祝<(注17)>(はじめ)が、『国民之友』362号に於て「・・・福沢翁が尚当年の啓蒙的思潮の精神を持続し特に最近再び其の声を大にして此の精神を鼓舞せんとせらるるを見ては、予輩は翁に対して同情を寄せざるを得ず。・・・」と叱呼したのは福沢が輝かしい生涯の幕を間もなく閉じようとする明治30年である。」(36~37)
(注17)1864~1900年。「岡山藩士<の子。>・・・同志社英学校神学科を卒業。明治18年1月、東京大学予備門第一第二両学年の試験を一時に通過してただちに第三学年に編入学し、9月、大学に進む。1889年(明治22年)帝国大学文科大学哲学科を首席卒業・・・、大学院に入り倫理問題を研究する。1891年(明治24年)大学院を辞し、東京専門学校(現早稲田大学)に聘<(へい)>せられて、これに明治31年2月まで奉職する<。>・・・京都帝国大学文科大学初代学長に内定していた<て>・・・入洛したが・・・急死した。・・・「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%A5%9D
下って、大正の初年にも、田中王堂<(注18)>は「我が同胞に依っては、未だ、啓蒙運動の意味が十分に理會されて居らぬ。・・・」ことを警告し、その著『福沢諭吉』の第一章に「福沢に還れ」という標語を冠した。・・・」(36~37)
(注18)1868~1932年。「シカゴ大<卒、同大院>卒・・・東京高等工業学校(<後の>東京工業大学)の哲学教授<を経て、>・・・東京専門大学の文学部講師・・・教授・・・プラグマティズムを基にして、評論活動をおこなう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%8E%8B%E5%A0%82
⇒私としては、諭吉が啓蒙思想家とされるに至った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
経緯、とりわけ、「近代日本を代表する啓蒙思想家」
https://www.sankei.com/life/news/180903/lif1809030006-n1.html
とされるに至った経緯を知りたかったのですが、啓蒙思想家の定義を丸山は下さず、また、大西や田中といった、こういっては失礼ではあるけれど、マイナーな識者達ではない識者による、諭吉啓蒙思想家論、も丸山が引用してくれていないのは、残念です。(太田)
「・・・『学問のすゝめ』<において、>福沢は空疎にして迂遠な漢学や有閑な歌学に対して、「人間普通日用に近き」実学を対置した。
そこにはじめて他人の労働に寄食する生活を前提としていた学問からの解放が宣言され、福沢のいわゆる「自ら労して自ら食ふ」生活の真只中に据え置かれた。
そのことの意義は限りなく大きい。
しかし福沢のこの文章が天下に喧伝され、「実学」が流行語となり、福沢学が実業学としてのみ普及して行ったことは、同時に、福沢の学問観に於けるもう一つの–むしろヨリ根本的な–「革命」を見失わしめる危険を生んだ。
そうして、福沢学全体を卑俗な現実的功利精神と見る俗見も主として、この一文の解釈から醗酵しているのである。
若(も)し福沢の主張が、単に「学問の実用性」「学問と日常生活との結合」というただそれだけのことに尽きるならば、そうした考え方は決してしかく斬新なものではない。
この点では福沢は継承者ではあっても断じて革命者ではないのである。
いわゆる空虚な観念的思弁を忌み、実践生活・・・に学問が奉仕すべき事を求めるのは日本人の観念生活に於ける伝統的態度だといっていい。
いなむしろ、実践的必要から切り離された理論的完結性に対して無関心なのは東洋的学問の特色とさえいわれている。・・・
「一般に東洋にて学といふは実学であって、たゞの理論でない。実学とは宗教・道徳・政治等現実の人生問題を現実の立場から講究する意味であって、理論的構造の完結を必須とするものではない」(西晋一郎<(注19)>、東洋倫理、8頁)<ということだ。>・・・
(注19)1873~1943年。「東京帝国大学に入り・・・哲学科を卒業した。広島高等師範学校が設立されるとともに同校教授となり、同校が文理科大学となって引き続きその教授となっている。・・・京都帝国大学の西田幾多郎博士とともに“両西”と呼ばれ、倫理哲学界の重鎮であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B%E4%B8%80%E9%83%8E
この様な学問に於ける「現実」的傾向は古学のみならず、「知行合一」を唱うる陽明学より、「学問事業其効を殊(こと)にせず」(弘道館記)をモットーとする水戸学<(注20)>に至るまで、一貫して流れていたのである。・・・
(注20)「経世致用の学とは、儒学において明末清初に現れた学術思潮。 学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないと主張された。顧炎武・黄宗羲・王夫之<(前出)>といった人物が代表であり、その先駆けは明末の東林学派の主張に見られる。・・・
<この経世致用の学から、日本において>派生<したのが、一つは、>経世論<であって、>・・・近世(江戸時代)の日本で「経世済民」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想<であり、もう一つは、>水戸学<であって、>明国滅亡に伴い日本に亡命した朱舜水<が>水戸藩徳川光圀の厚遇を受け、水戸学の基礎とな<ったところの、>朱舜水の学問は朱子学と陽明学の中間にあるとされ、理学・心学を好まず空論に走ることを避け、実理・実行・実用・実効を重んじた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E8%87%B4%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%AD%A6
「明朝末期の江南の士大夫を中心とした政治集団・学派<を>学術的側面からは東林学派という。・・・思想的には、彼らは陽明学に対して批判的な立場であり、・・・彼らの学問の目的は社会の現実的な要求に応えることであ<って>、道徳的修養と政治的な社会活動とを区別し、社会的欲望を調和することに「理」を見いだそうとした。このため水利や農業の技術開発・合理的な農業経営に取り組み、キリスト教宣教師と交流して<欧州>の自然科学的知識の摂取にも努めている。また「公」によって<万暦帝への>君主批判を行<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9E%97%E5%85%9A
或は、古学や水戸学で唱える日常的実践はもっぱら武士階級を対象としたのに対し、福沢のそれはなにより庶民への「学問のすゝめ」であったという事が主張されよう。
しかし庶民生活と学問との結合という点に於ても主唱者の地位を福沢に帰することは出来ない。
周知の如く吾々は心学という先輩をもっているのである。」(40~43、64)
⇒なかなか勉強にはなるけれど、先回りして指摘しておきたいのは、諭吉の「実学」を「実業学としてのみ」理解するのも、庶民のための学問と理解するのも、丸山のように啓蒙思想に立脚した「革命」的なものと理解するのも、ことごとく誤りであって、「実学」とは、島津斉彬コンセンサス信奉者としての諭吉にとっては、日本文明の普遍性、至上性を前提とした上での富国強兵のための手段としての学問の奨励であった、というのが私の見解であるわけです。(太田)
(続く)