太田述正コラム#11069(2020.1.26)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その37)>(2020.4.17公開)

 「「・・・日本政府は20余年来その政を行ふに・・・自家の権力は甚だ堅固ならずして却て人民に向て其私権を犯すもの少なからざるが如し」(安寧策、全集十二)。・・・

⇒諭吉は、慶應義塾と時事新報の経営者として、政府批判的な部分がないと「売れ」ないので、この種の言辞をあえて吐いた、ということでしょうね。
 なお、幕藩体制から近代国家に変身したとはいっても、およそ、日本という国は、権威と権力の分離、権力の重層的分有、といった、本質的に「甚だ堅固なら」ざる「権力」しか持ち得ない国柄であることには変わりがなく、また、その一方で、江戸時代とは違って、島津斉彬コンセンサスの実現、いや、その横井小楠コンセンサスとの共有部分だけに限定したとしてもその実現、のためには、カネを含む資源を国民各層から「収奪」せざるをえない、といったことは、諭吉は百も承知しつつも、なおかつ、上述のような言辞を吐いた、と私は見ています。(太田)
 
 <他方、吏党のみならず、>民党<において>・・・も私怨や官途への羨望が政治行動の有力な動機をなし、「政敵と人敵との区別甚だ分明なら」(藩閥寡人政府論、全集八)ざる状況が少くなかった。
 <また、>明治29年12月の論説「今の長老政客は何故に和せざるか」(明二九、全集十五)において、吏・民両党の抗争を「本来種のなき喧嘩」と断じ、それが主義と主義との争いになってはじめて「是れぞ真実の反対にして是に於てか政党の争を見るに至ることならん。吾輩の敢て望む所なり」といっているように、福沢は晩年まで我国の政争を真の意味でプリンシプルの抗争と見ず、当時の政党を以て「政治家の政党にして国民の政党に非ざる勿論なり」(政治家の愛嬌、明二四、全集十二)と規定していた・・・

⇒私が現在の日本の諸政党に対して抱いている不満と同じような不満を諭吉が口にしていることは、興味深いものがあります。
 恐らくは、諭吉も、私同様、日本では政党間の争いが「プリンシプルの抗争」になることは本来的にはありえないことに気付きつつも、さしあたりは、島津斉彬コンセンサスの実現に対するに横井小楠コンセンサス(のみ)の実現、といった形での「プリンシプルの抗争」が政党間で行われることを期待していた、ということではないでしょうか。
 ご存知のように、私の場合は、再軍備の是非を巡っての「プリンシプルの抗争」が政党間で行われることを期待しているわけですが・・。(太田)

 <諭吉は、>すでに『学問のすゝめ』を書いた頃、「都(すべ)て物事には軽重大小の区別あるものなれば、よく其区別を弁じ、成る可きだけ堪忍して、軽小なることをば捨てゝ顧ることなかる可し。今一国内の人間交際はうちの事なり、外国交際は外の事なり。内の交際は軽小にして外の交際は重大なり。内は忍ぶ可し、外は忍ぶ可らず」(内は忍ぶ可し外は忍ぶ可らず、全集十九)として胚胎していた国際関係優位の論理は、その後の国際情勢によって益々強烈さを加え、日清戦争に至ってフォルティシモとなって爆発するのである。」(129、131~132、138)

⇒このように、(口幅ったいけれど私同様、)諭吉は、およそ日本に議会制が導入されてからというもの、日本では、議会は、基本的に「国際関係」に係る「プリンシプル」に関してのみ、政党間で「抗争」が行われるべき場であってしかるべきである、と固く信じていた、というのも、(口幅ったいけれど私同様、)諭吉は、人間主義的ナショナリストとしての強烈な危機意識と使命感に基づく認識であるところの、「国際関係」の日本にとっての「優位性(枢要性)」なる確固たる認識、を抱いていたから、なのです。
 「私は学生時代から現在に至るまで、折に触れて福澤の著作に親しんできたのですが、文明開化論者、欧化主義者、啓蒙思想家といった福澤の世間のイメージは、彼の思想のほんの一面にすぎないことを、読むたびに悟らされてきました。」
https://www.chichi.co.jp/web/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E4%B8%80%E9%9D%A2/
と書いた渡辺利夫(1939年~)は、慶大経卒、同大修士・博士の開発経済学者にしてアジア経済論者である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%88%A9%E5%A4%AB
ところ、(丸山や渡辺ほど諭吉の著作に親しんできたわけではないけれど、)私も全く同感であり、丸山のような考えの人間が、どうしてそもそも諭吉の著作に親しもうと思ったのか、そして親しんだくせにどうして偏頗な諭吉理解にしがみつき続けたのか、私にはさっぱり分からないのです。(太田)

(続く)