太田述正コラム#1074(2006.2.8)
<ホントのコワーイ話(その2)>
その後、それ以上にすさまじい、というか、見方によっては抱腹絶倒ものの話が起こるのですが、まだ当分その話の主人公である友人を失いたくはないので、ご披露するのは止めておきます。
3 国際相場と国内相場の乖離
(1)始めに
ここからは、もっとコワーイ話です。
私は防衛庁時代に、官房審議官から仙台施設局長に転出したのですが、官房審議官は国防機構に係るグローバルスタンダードに照らせば、中将寸前の少将相当であり、また施設局長は中将相当であって、いずれも、国際的にはかなりの敬意を払われる「階級」です。
(2)ロシア
さて、同期トップに比べると、既に昇進レースで2年遅れていた私(注3)が官房審議官に就任すると、さっそく駐日ロシア大使館の筆頭駐在武官の某海軍大佐がかなり強引に私に接近してきました。
(注3)どうして2年遅れになったかについては、現在進行形の防衛庁(施設庁)不祥事の帰趨を見極めた上で、いずれお話しするつもりだ。
彼は、あらゆる機会と理屈を見つけては私を昼食に誘いました。都合三回ほど六本木や赤坂でご馳走になったところで、バランスをとるために自腹を切ることにし、この駐在武官を夫妻で週末に我が家に招待しました。
そうしたら、娘さんがモスクワから遊びに来ているので、一緒に連れて行きたいと連絡してきたので、どうぞと答えると、歩きで一家3人が我が家(大田区)までやってきました。私は、共稼ぎの妻に週末まで働かせるわけにはいかないので、お茶だけ家で飲んで、先方3人、当方は当時保育園児であった一人息子を入れて3人の計6人で私の車に乗って、近くの多摩川を眺望するレストランに連れて行き、食事をしながら歓談しました。
その後も彼には、役所等で何回か会いましたが、大したことのないロシア関係の邦訳資料を私にくれるだけで、私には何も求めずにいる状態が続き、私が仙台に異動になったので、関係はそれで切れたかに見えました。
ところが、翌年の1月2日、正月の休みを自宅で過ごしていた私の所へ彼から突然電話がかかってきて、今車で近くまで来ているのだが、ちょっと寄って良いか、と言うので待っていると、彼がやってきて、少し歓談をした後、ロシアのカレンダーを置いて帰って行ったのです。
その後、彼とは音信不通になりました。この間もそれ以降もクリスマスカードめいたものが来たことは一度もありません。
だから、彼が(自分の家族まで動員して)公務で私に接近したことは明らかです。
私は次のように考えています。
ロシア政府は、自分自身に対する処遇に不満を抱いているに違いない太田(私)という人物が防衛庁の中枢にやってきたので、時間をかけてこの人物と関係を築き、その上で、情報をひき出そうという目的で、異例にもこの筆頭駐在武官(諜報要員ではない!)を私に接近させたが、私のガードが堅いことを次第に認識し、私が中枢から再びはずされた上、今度はもう中枢に戻る可能性はないと見切りをつけた時点で、私との関係を断った・・と。
どうしてそんな怪しい人物とつきあったのか、ですって?
情報をとるためですよ。以前、(コラム#295に)登場したマレーシア情報を聞かせてくれた某大佐とは、この人物のことです。
それにしても、ロシアの軍事情報収集にかける執念と、協力者確保の手段たる人事情報収集分析能力の高さは相当なものだと思いませんか。
(3)中共
このロシアよりも、はるかにすごい、と思ったのが中共です。
(続く)