太田述正コラム#11155(2020.3.9)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その8)>(2020.5.30公開)
「宋学とくに程朱學をかゝる佛敎への一方的依存から獨立せしめ近世における儒學發展の礎石を置いたのは藤原惺窩<(注23)>(永祿四年–元和五年–西紀一五一六–一六一九・・・)とその高弟林羅山<(注24)>(天正十一年–明暦三年 一五八三–一六五七)であつた。
(注23)「家名の冷泉を名乗らず、<支那>式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。・・・
公家の冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれた。
長男でもなく、庶子であったため家は継がず、上洛し相国寺に入って禅僧となり、禅と朱子学を学んだ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者・姜沆と交流し、その助力を得て『四書五経倭訓』を著し、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。・・・<また>、仏教に<も>寛容的であった・・・。・・・
和歌や日本の古典にも通じて・・・<いた>。豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の羅山を推挙した。・・・
また、実家の下冷泉家は、播磨の所領において戦国大名の別所氏に攻められ当主が戦死し没落した。このため、惺窩が尽力し弟の為将を新たな当主に擁立することで下冷泉家を再興させた。惺窩自身は庶子でもあり、自ら下冷泉家の当主の座に就くことはなかったが、為将の死後、長男の為景が勅命により当主となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9
冷泉為純(ためずみ。1530~78年)は、「公卿・武将。歌人。・・・1578年・・・、播磨において織田信長の命令を受けた羽柴秀吉の中国方面軍に協力して嬉野城に立て籠もっていたが、秀吉から援軍が送られなかったために別所長治の攻撃を受けて<嫡子と共に>自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%B4%94
「冷泉家は当初は<藤原>定家の嫡流子孫ではなかったが、最終的には子孫として冷泉家のみが残る事となった。その冷泉家も南北朝時代には上冷泉家(かみれいぜいけ)と下冷泉家(しもれいぜいけ)に分かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6#%E4%B8%8B%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6
姜沆(きょうこう、カン・ハン)(1567~1618年)は、「朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。
日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流した。・・・
1600年・・・に帰国<、>・・・「日本はどんな才能、どんな物であっても必ず天下一を掲げる。壁塗り、屋根ふきなどにも天下一の肩書が付けば、多額の金銀が投じられるのは普通だ」と綴っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E3%82%B3%E3%82%A6
(注24)1583~1657年。「京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる。・・・京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して・・・1597年・・・、家に戻った。その間、建仁寺・・・の古澗慈稽および・・・英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、・・・1604年・・・に藤原惺窩と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで・・・朱子学を学んだ。・・・
23歳の若さで家康のブレーンの一人とな<り、>・・・家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。・・・1614年)の大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた。・・・
家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え・・・学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。・・・幕府に対しては僧侶の資格で仕えながら、仏教批判をおこなっている・・・<一方で、>神儒合一論<を唱えた。>・・・
<なお、>家康自身は、羅山よりも崇伝や天台宗の僧侶天海を政治的助言者としてはむしろ重用しており、儒学者をことさら特別視したわけではなかった。・・・
<ちなみに、>羅山の朱子学は<支那>から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされている。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『延平問答』に由来するものである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1
二者いづれも僧門に生れながら後に還俗して宋學に歸し、却つて儒學の立場から出世間敎としての佛敎を排撃するに至つた經歴は、近<(←一点から二点しんにょうに変更)>世における儒敎の獨立過<(同左)>程をさながらに物語るものであつた。」(11)
⇒「注23」「注24」を一瞥しただけで、惺窩と羅山についての、「二者いづれも僧門に生れながら後に還俗し」、が完全な誤りであることは明白であり、こんな誤りを犯す丸山に、果して、文系学者としての資質と気概があったのか、すら疑わせるものです。
ここに限らず、既にご存知のように、丸山の諸「論文」が間違いだらけであるのは、彼が、学者たるべき教育訓練を受けなかったこと、と、『日本政治思想史研究』収録諸論文について言えば、それらが、『国家学会雑誌』という、(厳しく形容すれば)単なる東大法学部教官雑文集、に掲載されたものでピアレビューを全く経ていないものであること(コラム#10987)、から起こったと考えられるわけですが、救いようがないのは、『日本政治思想史研究』が出版されたのは、戦後の1952年12月、東京大学出版会からである(同書奥付)ところ、丸山自身は恐らく読み返しもせず・・と好意的に解釈してあげましょう・・出版会に編集をぶん投げ、出版会は出版会で、著者が「身内」であるためか、恐らくは改めて校正することもないまま、右から左に出版してしまったらしいことです。
いずれにせよ、一時が万事であって、細事とはいえ、これほど、初歩的、かつ、基本的、な誤りを平気で犯すような、丸山が、いくら、大説を展開しようと、およそまともに取り扱う価値などない、と思うべきなのです。(太田)
(続く)