太田述正コラム#1089(2006.2.21)
<赤軍と先の大戦(その2)>
(3)反転攻勢へ
反転攻勢のきっかけになったのは、スターリングラード攻防戦における勝利だが、その頃から、赤軍が普通の軍隊となり、まともで洗練された戦法が採用され、適切な訓練が行われるようになったことが特記される。帝政廃止とともに廃止されていた勲章制度や将校肩章が復活させられ、敵のバリケードに向かって自殺的な猪突猛進をしたり、行軍の早さを競わせたりするようなこともなくなった。
能力主義で将校が選ばれるようにもなった。
より大きかったのは、赤軍兵士達は、第一次世界大戦から大粛清に至る20年間にわたって、不断にロシア(ソ連)の暴力的な時代を生きてきたため、ロシア的運命主義に逆らって、どんな艱難辛苦にも耐えて生き抜く能力を身につけていたことだ。
しかも、スターリンがしぶしぶ認めたように、赤軍兵士中のロシア人兵士達は、唯物主義を叩き込まれていたにもかかわらず、伝統的なロシア精神性を失っておらず、ロシアに郷土愛を抱き続けていた。
更に、女性も第一線の戦闘に投入されるようになり、戦争末期には80万人が動員されていた。彼女たちは、狙撃手として、あるいは女性達ばかりの乗組員による夜間爆撃機に搭乗して活躍した。
そして、1943年までには、ソ連は、単純だが効果的な兵器であるT-34戦車を月産1200両のペースで生産する体制を確立した。
(4)戦争犯罪
やがてドイツ軍に対する追撃戦になると、もともとソ連当局に対し怒りを抱いていた赤軍の兵士達は、自分達は性的禁欲を強いられているのに故郷に残してきた妻達は不貞をはたらいているのではないかと猜疑心で自らを苛み、占領地でドイツ軍が行った暴虐行為を知ってドイツとその協力者に対する怒りに身を震わせ、ウォッカで酔っぱらい、かてて加えて、政治将校達によって復讐心を煽り立てられた。赤軍がドイツ領内に達すると、資本主義化のドイツでソ連のノメンクラトゥーラよりも高いドイツ人の一般庶民の生活水準に目を剥き、赤軍兵士達の怒髪は天を衝き、彼らは野獣と化した。
政治将校達が用いたスローガンの典型例は、「君達は怒り狂って戦闘しなければならない。君達は、単なる兵士ではないのだ。人民の正義の法廷を体現した存在なのだ」や、「赤軍兵士の諸君。諸君は今やドイツにいる。復讐の時がやってきた!」だった。
こうして赤軍によって、東欧やドイツの町は焼かれ、建物は破壊され、掠奪が行われ、役人達は虐殺され、難民は機銃掃射され砲撃された。強姦は日常茶飯事となった。ドイツの女性達はもとより、ドイツ領内等に移送されて強制労働に従事させられていたハンガリー・ユーゴスラビア・ポーランド、更にはロシアやウクライナの女性達も兵士達の餌食になり、まるでレコードのように擦り切れるまで「回され」た(注6)。
(注6)タテマエ上は、掠奪や強姦は、その場で射殺されることになっていた軍規違反だった。
ちなみに、メリデールは、200人の元赤軍兵士から聞き取り調査をしたが、相手が女性研究者であることもあってか、全員が口裏を合わせたように、掠奪・強姦を目撃したことはないし、いわんや自分はそんなことはしなかったと答えた。
こんなことはどんな戦争にもつきものではある。
しかし、戦争犯罪の規模の凄まじさ、そしてそれにもかかわらず、その記憶が旧ソ連の人々の間からかき消されてしまった、という二点において、赤軍が犯した戦争犯罪は他の軍隊が犯したものとは決定的に異なる特異性を持つ。
(5)戦後
ドイツに勝利した時点で赤軍は、いい意味でも悪い意味でも自由な精神が横溢した軍隊に変貌していたが、戦後ただちに粛清が開始され、1945年中に、135,056名の将校や兵士が反革命罪の嫌疑で逮捕された。
やがて、ブレジネフの時代に公定赤軍史が確立し、都合の資料は厳封され、兵士達には箝口令がひかれたまま、ソ連崩壊に至る。
3 感想
日本は、日本軍が先の大戦以前に赤軍とノモンハン等で戦い、大戦末期において再び戦い、敗れる過程で満州の在留邦人が赤軍兵士達の掠奪・強姦の対象とな(り、その上、日本軍の将校や兵士達はシベリアに抑留され)るという経験をしました。
日本の現代史研究家にも、ぜひ日本人の視点で赤軍論を書くことによって、世界の史学界に対し、応分の貢献をして欲しいものです。
(完)