太田述正コラム#11352(2020.6.15)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その52)>(2020.9.6公開)

 「・・・世俗化の広がる時代の中で、儒教は現世での秩序や倫理を説くものとして、次第に評価を高めてゆく。
 惺窩や羅山は朱子学の立場を取ったが、限定された朱子学というよりも、仏教に対抗する儒教としての意識が強かった。・・・

⇒最小限の典拠が必要です!(太田)

 もっとも仏教側も世俗倫理を基礎づける理論を持たないわけではなかった。
 それは三世の因果<(注158)>説であり、善悪の行為は来世に反映されるというものである。

 (注158)「過去・現在・未来の三世を通じて因果応報の関係があること。過去の因により現在の果を生じ、現在の因によって未来の果が生ずることを説いたもの。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%B8%96%E5%9B%A0%E6%9E%9C-70922
 「仏教では、時間を実体的に捉えず、つまり実在するものとは見ない。変化し移ろいゆく現象や存在の上で、仮に3つの時間的な区分を立てるに過ぎないとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%96

 羅山は友人の松永貞徳<(注159)>(ていとく)と『儒仏問答』<(注160)>を交わしている。

 (注159)1571~1654年。「父は連歌師永種、母は藤原惺窩の姉という文化的環境に育ち、・・・20歳ごろ豊臣秀吉の右筆となったが,関ケ原の戦い後は私塾で和歌や俳諧を指導した。・・・貞門俳諧の祖」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3-16598
 (注160)「林羅山の仏教批判に<日蓮宗徒の>松永貞徳・・・が答えた18か条に亙往復書簡に、貞徳の『仏儒違目事』を付して刊行され<た>書・・・。刊行年次は寛文9<(1632)>年またはそれ以前であるが、実際に書簡が交わされたのは慶長末年で、近世の早い段階での儒仏論争の先駆と位置付けられ<、>・・・特に変化の理と因果、聖徳太子の位置付けが大きく問題となっている。・・・
 羅山の排仏論は、<在京時代の>日蓮宗との思想的緊張を契機としている」
http://www.otani.ac.jp/cri/nab3mq000001jvxk-att/nab3mq00000478bo.pdf
 「近世前期、儒学の台頭を基本に、キリスト教もいまだ一定の影響力を残し、仏教も新たな展開を模索中で、三者がせめぎあう状況にあった。ハビアンと羅山のようにキリスト教と儒教との間に思想論争が始まり、同時に羅山は貞徳に論争を仕掛けた。」
http://ajih.jp/backnumber/pdf/38_01_07.pdf

⇒仏教の立場から儒教(と道教)を批判した書としては、空海の『三教指帰』(797年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%95%99%E6%8C%87%E5%B8%B0
が有名ですが、その後、その種の論争なり書なりが見られなくなったのは、臨済宗の僧達が儒教も嗜むということが常態化し、いわば、儒仏調和の時代が続いたからでしょうが、それが、他の宗教・思想を排撃するところの、外来のキリスト教の伝来、や、内生の日蓮宗の京都町衆の間での隆盛、があり、それに刺激されて、儒仏間での論争も再開、活発化した、ということでしょうね。(太田)

 貞徳は俳人として知られ、不授不施の日蓮宗の信者だった。
 その際の大きな論点は、貞徳が三世の因果を説くのに対して、羅山がそれを否定して世界内の変化を「理」として説いたことにある。
 同じような議論は当時さまざまな形で交わされたようであり、仮名草子<(注161)>の『清水(きよみず)物語』<(注162)>(朝山意林庵(あさやまいりんあん)、1638)や『見ぬ京物語』(作者不詳、1659)にも、同様の儒仏の争いが記されている。

 (注161)「近世初期の慶長年間(1596~1615)から井原西鶴の『好色一代男』が刊行された1682年(天和2)までの約80年間に著作・刊行された、多少とも文学性の認められる散文作品で、中世の御伽(おとぎ)草子の後を受け、西鶴の浮世草子に接する<ところの、>・・・<かつ、>漢籍仏典医書などの学術書で<も>な<いところの>、平仮名で書かれた娯楽・啓蒙的な読み物。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E8%8D%89%E5%AD%90-45747
 「中世文学の複製方法が写本であったのに比べ、近世には仮名草子のような俗文芸も木版で大量に刷り販売されるようになった。・・・
 初期の仮名草子は戦国時代の回顧や大名の一代記などが多かった。通じて啓蒙的な内容のもの、儒教的な教訓を含んだ物語や説話集に人気があった。笑話のほか、名所案内記、また野郎評判記、遊女評判記のように実用的なガイドブックとして読まれたもの、事件や災害などを叙述する見聞記など多岐にわたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E8%8D%89%E5%AD%90
 (注162)「朝山意林庵(1589‐1664)作。1638年(寛永15)刊。2巻。意林庵は細川忠利・徳川忠長に仕えた儒学者で,わかりやすい儒教教理の解説や,当時の政治また風俗の批判をするつもりで,この書を著した。一応小説的形態をとり,著者が清水寺に参詣したとき,多くの人が問答をしているのを傍聴するという形にしている。学問のことから,隠者,賢人,法度,侍の気質,主君の心得,浪人,化物,喧嘩,殉死,天道などの問題が語られている。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E-53475

 前者は仏教を批判した現世主義的な立場、後者は儒仏一致的な立場を取っている。
 この時代の仏教側が三世因果説を前面に押し出していたことは、鈴木正三<(注163)>の『因果物語』<(注164)>が評判を取ったことからも知られる。」(117~118)

 (注163)1579~1655年。「曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。・・・
 1619年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』を書いてこれに反論し、翌年42歳で遁世し出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。正三の家も秀忠の命により養子の重長を迎え存続が許されている。・・・」
 故郷三河に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めた。
 島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹・・・の教義を理論的に批判した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E4%B8%89 (下の[]内も)
 「<また、僧侶には、>僧侶を役人として民衆教化を役とさせるという仏教治国,[在家の人びとには・・・「世法即仏法」を根拠とした<ところの、>]あらゆる職業はそれに専念するとき仏行となる(職分仏行説)という世俗倫理<、>を説<いた。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E5%88%86%E4%BB%8F%E8%A1%8C%E8%AA%AC-1341101
 (注164)「鈴木正三は、1627年・・・から、怪異譚の聞き書きを始めたとされているが、その目的は集成、出版ではなく、仏教的な内容の講話のための素材の収集にあったと考えられている。また、内容についても、鈴木が文学的潤色を加えずに、民衆の間の伝説類を書き記したものと考えられている。しかし、こうした仏教説話としての性格をもっていた『因果物語』は、娯楽としての草子の題材となることで性格を変化させることとなった。挿画も入り、浅井了意などが関わって膨らまされたと見られる<。>・・・<正三の>没後に弟子たちが1661年・・・に出版した・・・平仮名本は、片仮名本以上に普及して版を重ね、後世に大きな影響を残した。井原西鶴の『新因果物語』や青木鷺水の『近代因果物語』に影響を与えたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒「三世因果説」と言っても、「注158」から分かるように、「三世因果」なるものはアブナイ人を人間主義に帰せしめるための方便であるだけでなく、「三世」なるものそれ自体がそもそも方便なのであり、三世因果説をひっさげて○○と論争する、という構図そのものが客観的にはナンセンスである、ということに、少なくとも羅山は全く気付いていなかったのではないでしょうか。
 なお、私に言わせれば、「注163」に出て来る、正三の「仏教治国」と「職分仏行説」、は、それぞれ、日本の伝統的な人間主義的統治、人間主義的職業倫理、を、仏教チックに表現したものに過ぎません。(太田)

(続く)