太田述正コラム#11360(2020.6.19)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その56)>(2020.9.10公開)
「17世紀の儒家系神道と言えば、山崎闇斎<(コラム#1626、1632、1648、8663、9663、9681、9692、9902、10238、10576、10790、11117、11137、11185)>の垂加(すいか)神道がもっとも名高いであろう。
熱烈な朱子信奉者であった闇斎は、朱子学的な理を日本の神話に読み込もうとする。
その点では羅山と近いところもあるが、羅山がそれによって神話を合理化しようとするのに対して、闇斎は朱子学的な君臣の倫理を読み込んだ。
そこから会津の保科正之(ほしなまさゆき)はじめ武士階層に受容され、後の尊王思想の一つの源泉となった。
また、吉川惟足<(注173)>(よしかわこれたり)から秘伝を受けて、独自の神人一体説<(注174)>を展開させた。・・・
(注173)1616~1695年。「出生から後に江戸日本橋の魚商に養子に入り家業を継いだが、商いがうまくいかなかったことから鎌倉へ隠居した。1653年・・・に京都へ出て萩原兼従の門に入って吉田神道の口伝を伝授され、新しい流派を開いた。その後江戸に戻り将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、1682年・・・幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した。子孫は代々、会津藩からも初め50俵、後に30俵の合力米が給付されていた・・・
惟足の思想は、江戸、會津、水戸等にも広まったが、後には、垂加神道の勢力とほぼ合流してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%83%9F%E8%B6%B3
「吉川神道<は、>・・・吉田神道によりながら,その儒仏神三教包摂的な思想に対し,仏教的要素を除いて,儒学とくに宋学理論の重視を説き,みずから理学神道と称した。また君臣の道としての神道を強調した。惟足は幕府の神道方に登用され,儒学における林家と並んで幕府の文教政策に神道を反映させたいと意図していたが,幕府の東照宮祭祀は天台神道<(前出)>によって支配され,日本の教学としての神道を武家社会に宣布しようとする惟足の素志は実現できなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93-654129
(注174)「惟足は・・・神は不測の神理でこの一理から万種が生起する、神人一体、天人合一の理であるが、現実には神と人との差は厳然とある、日本人は神の子孫で敬神崇祖の念をもつことがだいじであり、わが国の法はみな神道と心得よなど、理を強調して自ら「理学の神道」と称し、世間の祭法行事の「社人(行法)の神道」と区別した。神儒習合神道の一典型といえるが、会津藩主保科正之らをはじめ、当時の上下の知識層から抵抗なく受け入れられ普及した。」(上掲)
⇒元々の素性が明らかではなく、大きい店ではあったのでしょうが魚商を営んで引退した一町民が、その考えや能力を買われ、将軍等が師とし、旗本並みに処遇されるに至ったというのですから、江戸時代の風通しの良さには、改めて驚かされます。(太田)
こうした神人観は、人が神となるという発想が次第に一般化していく一つの源泉となるものと考えられる。
⇒どうしてそう「考えられる」のか、その論理が私には全く不明ですし、「人が神となるという発想が次第に一般化し」た結果がどうなったのかも示されていないので、途方に暮れてしまいます。(太田)
このように、儒教を日本的に変容させていく方向が進むが、日本中心主義を明確にして、日本こそ「中国」だと主張したのが山鹿素行<(コラム#5362、5768、8068、9360、9663、9681、9692、9745、9773、9865、9900、10238、10321、10440、10448、10790、11137、11147、11322)>、の『中朝事実』<(注175)>(1669)であった。
(注175)「当時<支那>は漢民族の明朝に代わって万里の長城の北の野蛮人の満州族による征服王朝の清朝となっていた。また歴史を見ると、<支那>では易姓革命で王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。<支那>では君臣の義が守られてもいないのに対して日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているとした。・・・
山鹿素行は、・・・日本書紀の巻第三で・・・神武天皇が45歳になり東征を決意した際、兄と子に天孫降臨から179万2470年余りが経過した」と語ることが本文に記されている<ことを踏まえ、>・・・神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F
「儒者・兵学者山鹿素行<は、>・・・本書において、日本は「中華」「中朝」「中国」とよ<び>、「水土は万邦に卓爾(たくじ)として、人物は八紘(はっこう)に精秀」なるゆえんが述べ<ており>、日本主義的傾向は明らかであるが、<支那>において聖人の示した政治理念が日本において実現していたとするのであり、儒教そのものを否定する国学の傾向とは異なる。・・・
日本が天神の皇統がついに絶えることなく,また外国より侵されたこともなく,智・仁・勇の三徳において,外国,とくに<支那>よりもすぐれた国であることを,歴史に即して述べたものである。この比較は普遍的な基準によってなされており,後年誤解されたような国粋主義の書ではない。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F-97395
日本は世界の中心にあり、その皇統は神代から連続して途絶えることがないというのである。
ここでも皇統の一貫性がクローズアップされる。・・・」(120~121)
⇒1644年の、漢人の李自成による漢人王朝たる明の首都の北京入城と明の最後の皇帝、崇禎帝、の事実上の弑逆、と、それに引き続く、女真人の清による北京無血占領という経過を辿ったところの、明の滅亡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B8%85%E4%BA%A4%E6%9B%BF
が、江戸時代の同時代の日本の識者達に、おしなべて、漢人に対する侮蔑意識を抱かせたと考えられるのであり、素行の主張もそのワンオブゼムであった、と、我々は受け止めるべきでしょうね。(太田)
(続く)