太田述正コラム#11368(2020.6.23)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その60)>(2020.9.14公開)

 「・・・新井白石<(注188)>は自伝『折(おり)たく柴の記』<(注189)>(1716年)で、朝鮮通信使の文書の書式の問題から天皇と将軍の関係を論じている。

 (注188)1657~1725年。「旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3
 (注189)「新井白石の自叙伝。・・・書名は後鳥羽天皇の御製「おもひ出(いづ)る折たく柴の夕煙(ゆふけむり)むせぶも嬉(うれ)し忘れがたみに」(『新古今和歌集』)からとっている。・・・享保元年(1716)成立。父祖のことから始め、将軍徳川家宣(いえのぶ)を補佐した事績などを、平易な和漢混交文で記したもの。」
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%98%E3%81%9F%E3%81%8F%E6%9F%B4%E3%81%AE%E8%A8%98-41443

 即ち、天皇を「日本天皇」、将軍を「日本国王」として、両者の関係を「天」と「地(=国)」の違いとして明確化し、将軍を朝鮮国王と同格と見た。
 天皇はそれを超える存在になる。

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[白石による朝鮮通信使に係る将軍呼称の変更]

 「日本<の>支配者を意味する称号としては、室町時代に足利将軍(室町殿)が<支那>の明朝から冊封を受けて「日本国王」となり、外交文書においては国王号が使用されていた。足利義満は最初、征夷大将軍を名乗ったが、・・・字義的には単なる軍事司令官の称号に過ぎないこと<から、>・・・明より外交相手として認めてもらえなかった経験によるものであるが、日本国王は中華王朝との宗属関係を意味する号であり、朝廷からは「他国より王爵を得た」という批判を受けた。
 江戸時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶していた日朝、日明関係の国交修復が試みられ、2代将軍徳川秀忠の時代には対馬の宗氏を仲介に李氏朝鮮との交渉が行われる。当時、将軍は「日本国源秀忠」という肩書きを使用しない署名を用いており、朝鮮に送る国書もこの形式がとられた。しかし朝鮮との貿易に依存していた宗氏は独断で国書を偽造し、国書の署名を「日本国王」として貿易の開始を取り付けた。後に送られる国書も偽造と改竄を続けたが、・・・1633年・・・に事態が発覚する(柳川一件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%9B
 「柳川一件の翌年<の>・・・1636年・・・の通信使<は、>・・・それまで柳川家主導で応対されていたものが対馬宗氏によって招かれた。これには幕府によって宗氏の力量が試されたという側面もある。ここにおいて接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君<(注190)>に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光璘である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。

 (注190)「大君の語は『易経』に由来し、「大君命あり、国を開き家を承く」(大君有命,開國承家)、「武人大君と為る」(武人為於大君)、「知ありて臨む、大君の宜なり」(知臨,大君之宜)などと見えるもので、いずれも天子を指す。また、英語やドイツ語などで(特に経済的な)実力者や大物を意味する タイクーン(例:ドイツ語のtycoonのページ) の語源となった。」(上掲)

 第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。・・・
 李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。朝鮮では、仁祖が清の要求を拒絶したことから丙子の乱となっていた。南漢山城の篭城降伏後、三田渡の盟約が締結され、それまでの明から清の影響下となり、この和議により日本への対応が変化した。・・・
 正徳期には・・・新井白石の主導によ<り>・・・待遇の簡素化と将軍呼称の変更がされた。・・・
 将軍呼称<については、>再び日本国王に変更した。
 この変更の理由としては江戸時代も安定期に向かい、将軍の国内的地位が幕初の覇者的性格から実質的に君主的性格に移行した現実を踏まえ、国王を称することにより徳川将軍が実質的意味において君主的性格を帯びるようになったことを鮮明にせんとしたとも、あるいは、大君は朝鮮国内においては王子のことを指すので、これではむしろ対等ではないので国王に戻すのだとも説明されている。
 呼称の当否は別とし、この変更は朝鮮通信使の来日直前に一方的に通告されたため、深刻な外交摩擦に発展した。・・・
 正徳の次に来日した享保度の通信使の際には徳川吉宗は名分論には深入りせず、再び大君に復し、待遇も祖法遵守を理由に全面的に天和度に戻している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
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⇒将軍を国王と対外的に呼称することは、この将軍/国王が、中華王朝に言う皇帝に相当する日本の天皇の(形の上に過ぎないとはいえ)臣である旨の註釈を白石のようにつければ、絶対的に正しいし、この将軍/国王と朝鮮国王が対等者として通交することについても、朝鮮国王が明に対するように形式上、或いは後金/清に対するように実質的にも、中華王朝に臣従していることから絶対的に正しいのであり、ここは、玉峰光璘や吉宗ではなく、白石に軍配を上げたいですね。(太田)

 天皇と将軍の関係は、歴史論である『読史余論』<(注191)>(1712)に詳しく論じられる。

 (注191)「白石が主君・徳川家宣に『通鑑綱目』を進講しつつ、日本古来の治乱興亡の沿革に深い関心を寄せていた家宣のために書いたものである。・・・
 白石は歴史の発展を「大勢」と考え、この<大勢>の転換を「変」と表現した。この変をうながす原動力として徳・不徳という儒教観念を用い、政治実権が天皇から摂関家・上皇・源氏・北条氏へと移っていった経緯を述べる。白石は中世日本の政治史を、公家勢力と武家勢力の対立ととらえ、その上に儀礼的存在として天皇があるものと考えた<上で、日本史を、>・・・公家が次第に衰退する過程<と捉えた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%8F%B2%E4%BD%99%E8%AB%96

 そこでは、頼朝時代から武家は朝家の「共主」となって「武家の代」となり、尊氏以後、朝家は「虚弱」となって、天下はまったく「武家の代」になったという。
 つまり、天皇は形式上は上位であるが、実質的には武家の時代だということになる。
 天皇を棚上げすることで、実際の政権は将軍が担うことを明確化して、幕府の支配を合法化したのである。」(130~131)

⇒武家勢力が権力を担うことは合法化できても、徳川家が恒久的に権力を担うことは合法化できませんし、いくら棚上げしようと、いくら形式上/儀礼上のことに過ぎなくても、天皇が将軍の上位に存在することが、徳川家以外の武家等の勢力が徳川家に取って代わる潜在的可能性を担保していることには変わりがありません。
 当然、そんなことは白石にも分かっていたはずです。(太田)

(続く)