太田述正コラム#11384(2020.7.1)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その66)>(2020.9.22公開)

 「維新政府の中核に入る大きな流れは津和野藩の国学・神道であるが、藩主亀井茲監<(注208)>(これみ)のもとで藩校養老館からは西周、森鴎外らも育っている。

 (注208)1825~1885年。「筑後久留米藩の第9代藩主有馬頼徳の六男として江戸で生まれる。・・・津和野藩の第10代藩主亀井茲方の養子となり、・・・茲方の隠居にともない家督を継いだ。・・・藩政の実権を握ると、・・・江戸深川にある下屋敷を売却するなどして得た1万両を学問関係に投資するなど、学問発展に寄与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E7%9B%A3

 そこで神道を指導したのは大国隆正<(注209)>(おおくにたかまさ)で、篤胤に学びながらも独自の立場を打ち立てた。

 (注209)1793~1871年。「津和野藩士・・・の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。・・・
 国学ばかりか儒学・蘭学・梵学を一通り学ぶ<。>・・・
 津和野藩主亀井茲監によって藩籍を復し、国学を以って本学とすべしと上申し、5人扶持を給して藩黌養老館国学教師となる。<1851>年にペリーが来航すると、儒者らの説く海防論に対して、自ら「文武虚実論」6巻を上梓。その中で海防の要は虚文虚武を斥けて実文実武を努めるにあると論じ、和魂を鞏固にし以って我が国を宇内に冠絶させるべきであると独自の尊王攘夷論を展開した。<1855>年には、「本学学要」2巻を著わし、我が国が宇内万国に卓絶する所以を述べ、天壤無窮の皇位は世界万国に君臨すべき神理があると説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3
 「維新後は神祇(じんぎ)事務局権判事(ごんのはんじ)を務め、旧藩主亀井茲監(かめいこれみ)らとともに、神仏分離や廃仏毀釈などの神道主義を指導し、明治初年の神祇行政に多大の影響を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3-17866

 それまでの平田派の幽冥重視に対して、顕明の世界に重点を置き、西洋とも比較しながら日本こそもっともすぐれた国であると説いた。
 その根拠を宝祚無窮(ほうそむきゅう)(いわゆる天壌(てんじょう)無窮)の神勅から天皇へのつながりに求めるなど(『本学挙要』)、明治期の神道につながる基本的な思想が形成された。・・・

⇒篤胤は廃仏毀釈まで踏み込んでいなかったよう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4 前掲
なので、「注209」に出てくる大国の廃仏毀釈の考え方は、彼が師の考え方を「発展」させたもののようですね。(太田)

 長州は真宗の西本願寺系(本願寺派)が強い地で、そこを中心に月性(げっしょう)らの勤王僧が活動し、吉田松陰などにも大きな影響を与えている。・・・
 <また、>幕末には真俗二諦<(注210)>(しんぞくにたい)説が進展するようになった。

 (注210)「南北朝期にとくに三論宗の教義の中心として論議された仏教教理概念で,真諦と俗諦のこと。真諦とは絶対不変の真理,俗諦とは世俗的真理を言う。三論宗では空(否定)の立場を真諦,有(肯定)の立場を俗諦とし,真俗二諦のいずれかに執着する立場を超越して無執着の真理,つまり空有以上の立場に至らしめる手段としてその教義の中心にすえる。・・・
 真俗二諦は種々に解されているが,大乗仏教では,真諦を説くにも世俗の言語や思想をもってせねばならず,世俗諦によらねば真諦へは至れぬとして,真俗二諦は不二と説く。真宗では仏法を真諦,王法(世俗の道徳)を俗諦とする特殊の真俗二諦説をとっている。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6-82163

 これは、真諦(宗教的世界、仏法)と俗諦(世俗的世界、王法)とが協調する必要を説くもので、もとは蓮如に遡る。
 そこから、俗諦としての国家の安定は、仏法にとっても必要というところから、月性らの活動が生まれることになった。
 月性は護国と護法を一体化して、大きな影響を与えた。
 月性らの影響を受けて、大洲鉄然<(注211)>(おおずてつねん)は真武隊<(注212)>や護国団を組織して、武力で幕府側と戦い、維新の達成に重要な役割を果たした。

 (注211)1634~1902年。「文武両道の西本願寺の僧侶、釈月性の後輩に当たり、彼の清狂草堂に入門し仏法護国論の影響を受けて倒幕活動に従事した。しかし、思想が過激過ぎたので本願寺を追われ、和泉国堺に渡って剣術道場を開いて糊口を凌いだ、長州に帰国して高杉晋作らと共に奇兵隊を設立した。しかし、長門系の人材が優遇される奇兵隊の現状に不満を抱き、第二奇兵隊結成の立て役者となった。第二次長州征伐では部隊と共に前線に出動した。・・・
 吉田松陰の教えを奇兵隊結成という形で具体化したのが松陰門下の高杉晋作であるならば、月性の教えを実践した月性門下生のリーダー格が大洲鉄然だった。・・・
 長州藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、月性の遺志をついだ大洲鉄然などの西本願寺の僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい。」
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11909005159.html
 「維新後、功績により西本願寺中枢に復帰し、盟友木戸孝允など長州閥とのコネクションを活かして・・・本願寺教団ならびに日本仏教界を代表して明治新政府との折衝にあたり、・・・廃仏毀釈を逃れる<とともに、この>・・・排仏毀釈の嵐の中で、信教の自由をからくも勝ちとり、政教分離を貫いた。」
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11909005159.html
 そして、「神仏分離政策に反対して寺院寮や教部省の設立に尽力<した>・・・。江戸時代に浄土真宗禁止政策がとられていた鹿児島での開教や海外布教でも活躍した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E9%89%84%E7%84%B6-1060366
 (注212)1863年7月・・・、高杉晋作が身分を問わない奇兵隊を創設すると、それに触発されて・・・1864年6月・・・、秋良雄太郎らが大島郡で真武隊を結成したが、軍資金不足などで活動不能に陥っていた。
 ・・・1865年2月・・・に、白井小助・世良修蔵らが中心となってこの真武隊を再興、他の数隊が合流する形で部隊が編成された。結成地である周防地方が長州藩領の南東部に位置するため、北西部の長門地方で結成された奇兵隊との対称で、南奇兵隊と称された。初代総督は白井小助、軍監には世良修蔵が就いた。室積村の普賢寺を屯所とし、農民・神官・僧侶・下級藩士などが多く参加、他隊を吸収するなどして隊員は300名を超えた。
 ・・・同年・・・4月・・・、諸隊を長州藩正規軍として公認することに伴って整理統合され、第二奇兵隊と改称、奇兵隊総督の山内梅三郎が第二奇兵隊総督も兼務した。白井・世良は軍監となり、隊員数は100人に削減(後に125人)、本営も石城山神護寺に移動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A

⇒神道を排斥するところの、真宗、の僧である鉄然が神仏分離政策に反対した、というのは意外でした。
 神仏分離、廃仏毀釈の経緯を改めて追究する必要がありそうです。(太田)

 明治初期に長州が政府の中心を占める中で、長州出身の本願寺派の鉄然や赤松連城(れんじょう)、島地黙雷(しまじもくらい)らが<西本願寺の>宗門改革を進めるとともに、政府と密接な関係を保ちながら、国の宗教政策を左右する力を有するようになる。」(155~156、159~160)
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E9%89%84%E7%84%B6-1060366

(続く)