太田述正コラム#11388(2020.7.3)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その68)>(2020.9.24公開)
「第四条に至って、ようやく「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と、天皇の統治権が憲法に基づくことが言われる。
これが、美濃部達吉などの天皇機関説の根拠になる。
しかし、第一~三条において、天皇が憲法の規定を超える根拠を有していることからすれば、憲法の枠内というのはあくまでも天皇の一部であり、天皇は憲法の規定を超える存在ということが前提になっている。・・・
⇒既に見たように、国王がそのような存在であることは、プロイセン憲法・・当時の欧州の立憲君主国における諸憲法の典型・・においても同様だったのですがね。(太田)
尊攘派は日本至上主義、自尊主義として大きな力を持ち続け<た>。
開明主義と自尊主義の対立は世界中の近代の至る所に現われ、現代でもそのまま引きずる問題である。
⇒「開明主義」と「自尊主義」とを対置させて使っているのは末木だけである可能性が高い(注218)ということもあり、彼は、それぞれの定義を示す必要があったと思うのですが、残念ながら、そうしてくれてはいません。
(注218)「開明主義」を「保守主義」と対置させて使った例なら、1件だけだが、福澤諭吉によると目される、1894年の「開明主義と保守主義の消長」という、『時事新報』掲載記事の見出しを見つけた。
https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/editorials/1894/18940428/
しかし、「開明主義」という言葉を単独で使った例はまだ1件も見つけられていない。
他方、「自尊主義」については、1件だけだが、林英臣による2015年の講演の演題「自尊主義 日本国の役割と自分緒使命を結ぼう」を見つけた
https://ameblo.jp/harmony0811/entry-12013748152.html
が、この言葉を他の言葉と対置させて使った例はまだ1件も見つけられていない。
ちなみに、林英臣(1957年~)は、東京鍼灸柔整専門学校(現・東京医療専門学校)卒、松下政経塾1期生。
https://www.mskj.or.jp/profile/hayasi.html
その上で、あえてこの2つの言葉を用いて申し上げれば、幕末から維新初期にかけて、日本の朝野の指導者達の大部分は(日本文明の至上性と普遍性を信じているという意味での)「日本至上主義」者だったという意味では「自尊主義」者であり、この自分達の素晴らしい日本を防衛し維持するための「手段」として追求されるべき富国強兵に関し、「開明主義」度・・どの程度の量と質にわたって欧米文明の一部を継受すべきか・・に関して彼らの間で見解の相違があっただけである、というのが私の見方です。(太田)
開明主義が他国とのバランスの中に自国を位置づけようとする相対主義であるのに対して、自尊主義は自国の価値観を絶対視して、利害を無視して突っ走る。
⇒「手段」としての富国強兵の話、と、この富国強兵なる「手段」でもって欧米勢力にどのように対処するかの「方法論」の話、とを、末木はごちゃにしています。(太田)
<日本では、>明治から大正へかけて、開明派が表に出て新しい国作りを進めるが、その裏で力を溜めた自尊派が、やがて昭和期になって表に躍り出ることになる。・・・
こうした天皇の超越性は自尊派の尊王主義に配慮したもので、巧みに開明派と自尊派の主張を結合しようとしている。
しかし、それはきわめて際どいバランスであり、やがてそのバランスが崩れ、自尊派の牽引によって帝国は崩壊へと向かうことになった。・・・」(169~172)
⇒末木の、このような見解とは全く異なり、上述したところの「方法論」に関して、早期に全欧米に対処すべきだとする「島津斉彬コンセンサス」、と、長期にわたって英米と手を結んで、欧州、就中その外延にして日本への尖兵であったロシアに対処すべきだとする「横井小楠コンセンサス」、と、専守防衛に徹し続けるべきだとする「勝海舟通奏低音」、との三つ巴の争いが日本の戦前史であった、とするのが、私の見方であるわけです。(太田)
(続く)