太田述正コラム#11557(2020.9.26)
<皆さんとディスカッション(続x4573)/改めて聖徳太子コンセンサスについて–高向玄理や藤原氏の隠された役割>
<太田>(ツイッターより)
「金正恩…異例の謝罪…同胞に失望感与え申し訳ない…積み上げてきた北南間の信頼が損なわれることのないように必要な安全対策を講じる…」
https://news.livedoor.com/article/detail/18953593/
そのマゾっ気を知り尽くした正恩坊やによる鞭打ち後の愛の告白で、一層この大教祖への帰依心を深めているだろうな、文在寅教祖。
<太田>
コロナウィルス問題。↓
<あららんらん。↓>
「・・・死者1543人(+7人)・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55811680Z10C20A2I00000/
それでは、その他の記事の紹介です。
ね、自民党の「タカ」派と見事な連係プレーでしょ。↓
「公明党・山口代表「敵基地攻撃能力の検討は慎重に」・・・」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/57839
でも、宗主国移行戦略、という、経産省戦略の基本は、菅おじさん内閣でも変わるあるはずないからねえ。↓
「菅政権「経産省内閣の終焉」で今後起きること 官邸で権勢誇った今井尚哉首相補佐官が退任・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%8f%85%e6%94%bf%e6%a8%a9-%e7%b5%8c%e7%94%a3%e7%9c%81%e5%86%85%e9%96%a3%e3%81%ae%e7%b5%82%e7%84%89-%e3%81%a7%e4%bb%8a%e5%be%8c%e8%b5%b7%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8-%e5%ae%98%e9%82%b8%e3%81%a7%e6%a8%a9%e5%8b%a2%e8%aa%87%e3%81%a3%e3%81%9f%e4%bb%8a%e4%ba%95%e5%b0%9a%e5%93%89%e9%a6%96%e7%9b%b8%e8%a3%9c%e4%bd%90%e5%ae%98%e3%81%8c%e9%80%80%e4%bb%bb/ar-BB19qYOK?ocid=UE03DHP
日・文カルト問題。
<日本また敗北。↓>
「・・・死者は前日から2人増え、計395人・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200925001100882?section=society-culture/index
<よかったのう。↓>
「10月から韓国人の日本新規入国可能に…中長期滞留者が対象・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/270631
<悪女の囁き。↓>
「金正恩氏「かんばしくないこと…文大統領・南側同胞に失望感与えて申し訳ない」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/270624
<至れり尽くせりじゃん。↓>
「南北首脳 約6カ月ぶりにコロナ問題で親書交換・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200925004200882?section=politics/index
<見て来たようなウソをつき。↓>
「韓国人射殺 金正恩氏に報告されず幹部が指示=韓国情報機関・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200925004100882?section=politics/index
<怖いものしらずの、文カルト使徒。↓>
「康京和外相、米国のクアッドに「良いアイデアではない」–来月のポンペオ米国務長官との会談を前にはじめて反対の立場を明言・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/09/26/2020092680002.html
<信徒以外からの負け犬の遠吠え。↓>
「【社説】北が人間をウイルスのように焼却しても1日隠した文大統領…大統領がいて政府があって軍もあるが国はあるのか・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/09/25/2020092580110.html
<同じく。↓>
「遺体が消えた? 浮遊物を40分間燃やした? つじつまが合わない北の説明–北が送った通知文の内容は…韓国軍の発表と大きな食い違い・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/09/26/2020092680007.html
<これもそう。↓>
「「親書ライン」は稼動していても国民を救うためには使わなかった–野党「あらゆる連絡チャンネル途絶えたと言っていたのに」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/09/26/2020092680003.html
<巨額国防費といい、韓国政府はカネがあり余ってるようで。↓>
「韓国政府 慰安婦団体の支援事業を直接管理へ=補助金不正疑惑受け・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200925003100882?section=politics/index
トランプが最高裁判事に指名予定の女性、実子が5人でうち1人はダウン症。
カトリック信仰に忠実で中絶はもちろん、避妊すらやってないのかもね。
ま、日本の女性達には見倣って欲しいとも思うが・・。↓
Amy Coney Barrett ‘to be picked by Trump for Supreme Court’–Born in New Orleans, she is married to a former federal prosecutor in South Bend, Indiana, and together they have seven children.
Two of them were adopted from Haiti and their youngest biological child has Down Syndrome.・・・
https://www.bbc.com/news/world-us-canada-54303942
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<人民網より。
習ちゃん、もうあきらめようよ。↓>
「・・・菅内閣の対米外交政策にはだいたい3つの可能性があり、この3つが交互に進む可能性もある。1つ目は、日本の対米外交の自主性と独立性を大幅に広げ、高めるという可能性だ。・・・
以上3つの可能性のうち、1つ目は日本の政権上層部が将来に向けて計画している戦略構想であり、米国の幾重もの圧力に直面してもなお段階的に推し進めるだろう。ただそのプロセスは長期的で漸進的なものとなり、量的変化から質的変化へという螺旋蓄積型発展になるだろう。・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2020/0925/c94474-9764387.html
<ここからは、サーチナより。
この観点に絞ったのは目新しい。↓>
「食事の量に関しては、やはり日本人に学ぶべきかもしれない・・・中国のポータルサイト・百度・・・」
http://news.searchina.net/id/1692988?page=1
<定番。↓>
「日本好きを公言すると「罵られるのは納得いかない」 中国人が日本を好きになっちゃダメなのか?・・・中国のQ&Aサイトの知乎・・・」
http://news.searchina.net/id/1692989?page=1
<同じく。↓>
「日本の半導体産業の成長過程を、中国は見習うことができるか・・・中国のQ&Aサイトの知乎・・・」
http://news.searchina.net/id/1692995?page=1
<これもそう。↓>
「これは不安だ! 日本人が荒唐無稽な抗日神劇を見たらどう思うのか・・・中国のQ&Aサイトの知乎・・・」
http://news.searchina.net/id/1693002?page=1
<これもまたそう。↓>
「中国人が日本の医療サービスを受けたがる理由、「日中の医療はこんなに違う」・・・」
http://news.searchina.net/id/1693004
<定番になりつつある。で、お望みどおりに進行中よ。↓>
「困難は承知の上だが・・・日中韓が1つの国になれば「世界の覇者になれるだろうに!」・・・中国メディアの百家号・・・」
http://news.searchina.net/id/1692997?page=1
<概ね定番。↓>
「陝西法制網に・・・日本の「地方政府」は中国とは違って「指導機関」ではなく「市民にサービスを提供する存在」であるとする記事が掲載された。・・・」
http://news.searchina.net/id/1693000?page=1
<アハハ。↓>
「日中のどちらを侮辱してるのか困惑・・・ネイマールが酒井宏樹選手に「クソ中国人」・・・中国メディアの網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1693001?page=1
<ちーとズレとるね。習ちゃんに聞きな。↓>
「・・・中国メディアの百家号・・・記事は・・・明治維新後の改革について記事は、日本が「本質的な変革」を遂げることができたのに対し、当時の清王朝は「表面的な改革」しか行わず、問題の根本原因を意識していなかったのが大きな違いだと分析している。
そのうえで記事は、日本の近代化の成功には4つの要素が関係していると紹介。その1つは、「欧米列強から学び続けたこと」。国家としての統治の仕方や工業生産技術などを吸収していったとしている。2つ目は「宗教を利用した国民の力の結集」。神道を国教とし、天皇を奉ることで国民を1つにしたと主張した。
3つ目は「教育への投資」。明治政府は財政的には苦しかったが、教育への投資は惜しまなかったと伝えた。4つ目は「憲法の制定」。立憲制を導入して憲法を制定し、法体系の整備を行い、憲法で天皇による統治を定めたと指摘した。」
http://news.searchina.net/id/1693003?page=1
<へーそうなの?↓>
「・・・サラダ油やラードでチャーハンを作るのが当たり前であるのに対し、こだわりを持つ日本人は「エビ油を使って炒めるのだ」とした。こだわりのチャーハンを出す飲食店では、コックが何キロものエビの頭を用意して油の入った中華鍋の中に入れ、1時間ほどエキスを抽出して褐色のエビ油を作るほか、使った殻もペースト状にして調味料として用いるのだと説明している。
その上で、このエビ油とエビペーストを使って炒めたチャーハンは見た目のシンプルさとは裏腹に100元(約1500円)という、中国人が抱くチャーハンの常識的な価格とは大きくかけ離れた金額で提供されるのだと紹介。「これだけ手間暇をかけて作られるのだから、日本の食べ物の値段がこんなに高いのも納得だ」と評した。・・・中国のポータルサイト・百度・・・」
http://news.searchina.net/id/1692996?page=1
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一人題名のない音楽会です。
リストによる編曲曲特集の二回目です。
今回は、バッハ(Bach)、ベートーベン(Beethoven)篇です。
Variations on a Theme of Bach, S180(注α) ピアノ:Poom Prommachart
00:00—Introduction (Improvisatory; based on chromatic descent)
00:59—Var. 1-8 (Polyphonic; explicitly contrapuntal)
02:39—Var. 9-19 (Register expands)
04:51—Var. 20-24, 25 (Register expands; more pianistic style)
05:38—Var. 26-33 (More chromatic; middle register)
06:23—Var. 34-35 (Unison octaves;
register expands again)
06:34—Var. 36-39 (Rhetorical style;
register expanded)
07:20—Var. 40-43 (Diminished harmony;
maximum register expansion)
08:17—Var 44-45 (Whole-tone harmony, descent to bass register; motive fragmented)
lunga pausa
09:12—Var. 46-47 (Recitative; motive used to accompany)
10:47—Var. 48 (Motive fragmented; very chromatic harmony)
11:54—Transition (Based on chromatic descent; strong tonal direction: diminished harmony leads to V pedal: register expands)
13:17—Recitative (Interruption of harmonic motion towards cadence, Tristanesque enhancements)
13:56—Chorale (Strong cadence into F major; middle register, gradually expanding outwards)
15:49—Coda
https://www.youtube.com/watch?v=Jibl38gsuTE
(注α)Bach cantata Weinen, klagen, sorgen, zagen, BWV 12.のテーマを用いている。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Liszt_S180_Variations_on_a_theme_by_Bach.jpeg
Adelaide(注β) von Beethoven, S466iii ピアノ:Ian Yungwook Yoo
https://www.youtube.com/watch?v=xu7SXSYJ2uE
(注β)1796年頃作曲された歌曲。ドイツの詩人のFriedrich von Matthisson (1761–1831)の詩に曲を付けたもの。
https://en.wikipedia.org/wiki/Adelaide_(Beethoven)
Capriccio alla turca sur des motifs de Beethoven, S388 ピアノ:Ian Yungwook Yoo
https://www.youtube.com/watch?v=sW5J3bVEmW8
(続く)
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–改めて聖徳太子コンセンサスについて–高向玄理や藤原氏の隠された役割–
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一、始めに
二、遣隋使の目的–高向玄理の隠された役割
[改めて遣隋使について]
[騎馬遊牧民]
[支那の封建制]
〇支那にかつて存在した封建制
〇支那における封建論争
・始めに
・前漢
・後漢
・曹魏
・西晋
・参考
(一)欧州の封建制
(二)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想がもたらした日本の封建制
[漢人文明没落の分水嶺と最終フェーズ]
〇分水嶺–曹操の関連事績
〇最終フェーズ–北魏・北周・隋・唐
・前史
・北魏
・北周
・隋
・唐
・参考:後史
[漢人文明の滅亡の徴表としての道教の生誕と仏教の隆盛]
〇漢人文明滅亡へ
〇道教の生誕
〇支那における仏教の「隆盛」
〇漢人文明滅亡の象徴たる椅子
三、聖徳太子コンセンサスの実施–藤原氏の隠された役割
1 武家の創出–藤原氏の隠された役割(その1)
[武家の創出のホップ–藤原氏]
〇藤原四兄弟
〇南家–武家創出実施本部別動隊
〇北家–武家創出実施本部兼実施直轄部隊
・桓武天皇構想策定支援
・藤原北家自身による武家創出試行
・桓武平氏による武家試行的創出への協力
・清和源氏による武家本格創出への協力
・参考
[武家創出のステップ–桓武平氏]
〇桓武天皇
〇葛原親王
〇高見王
〇平高望
〇国香
〇貞盛
〇維衡
〇正度
〇正衡
〇正盛
[武家創出のジャンプ–清和源氏]
〇総括
〇清和天皇
〇貞純親王
〇源経基
〇満仲
〇頼信
〇頼義
〇義家
〇義親
〇為義
〇義朝
[武家を創出したその他の諸氏]
〇嵯峨源氏
〇宇多源氏
〇橘氏
[武家関連諸機関]
〇健児/兵馬司
〇滝口武者
〇武者所
〇大内守護
〇北面の武士
〇参考:西面の武士
[武家創出の地方環境–荘園と国司]
〇荘園
〇国司
2 摂関政治の成立から院政の成立まで–藤原氏の隠された役割(その2)
(1)始めに
(2)藤原氏における北家の嫡流化
[藤原氏における北家の嫡流化]
〇そもそも
〇南家の非嫡流化
〇式家の非嫡流化
〇京家の非嫡流化
(3)摂関政治の成立と藤原北家
[摂関政治の成立と藤原北家]
〇嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)
〇藤原冬嗣(藤原北家)(775~826年)
〇藤原冬嗣(藤原北家)
〇太政大臣・摂政・関白
〇参考:改めて、摂政・関白について
(4)院政の成立と藤原北家
[院政の成立と藤原北家]
四、終わりに
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一、始めに
今回も、日本の第一次縄文モードの時代の通史を語ろうと決意しつつも、それが果たせませんでした。
通史を書くためにクリアしておかなければならない諸課題がまだいくつも残っていることに気付かされたからです。
そして、この諸課題に取り組んだ結果が、本日の「講演」というわけなのですが、結果的には、後半部分が第一次縄文モード史を概ね描いた内容にもなったと思うので、改めてこの時代の通史に取り組むことなく、次回のオフ会「講演」では、その次の第一次弥生モードの時代の通史的なものをお話ししたい、と思っています。
なお、既に過去にお話ししたり書いたりしたことが繰り返されている箇所がいくつかあると思いますが、ご容赦いただきたいと思います。
またこれも結果としてなのですが、今回の原稿は、囲み記事を短文で繋いでいく形式を採ったことをお断りしておきます。
この原稿の読み方ですが、囲み記事の外の短文だけを斜め通読され、なお時間があったら、各囲み記事の中の地の部分・・その出だしに何も付いていない場合と、「⇒」が付いている場合があります・・だけを斜め通読され、それでもまだ時間があったら、それ以外で興味がありそうな部分を読む、というやり方もあろうかと思います。
二、遣隋使の目的–高向玄理の隠された役割
遣隋使の派遣目的は、ホンネは、(今回初めてこういう言い方をしますが、)漢人文明が騎馬遊牧民系によって滅ぼされた原因を究明した上で日本ないしプロト日本文明が同様に滅ぼされないようにするための対策を模索することであった、というのが、私の最新の仮説です。
付言すれば、かかる対策を模索するにあたっては、日本に封建制的なものを導入すべきであるとすれば、それはいかなるものであるべきか、とりわけ、その担い手はいかなる人間であるべきか、という観点から行え、という指示を厩戸皇子から与えられた上で、遣隋使は派遣されたのである、と。
以上に加えて、派遣目的は仏教の、より体系的にして詳細な勉強である、と先方に伝えることとすると共に、この封建制の担い手の非人間主義の実践による人間主義性の毀損の回復方法をこの勉強を通じて模索するようにも厩戸皇子は指示した、とも。↓
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[改めて遣隋使について]
遣隋使(600~618年)のウィキペディアには、渡海した人々は出て来るが、彼らが何を持ち帰ったか、何を学んだか、が全く出てこない。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF ☆
⇒振り返ってみれば、遣隋使が派遣されるより前に、支那の大方の事物は既にことごとく日本に伝わっていた。↓
「道教<は、>・・・4世紀頃<に日本に伝来したとされ、>・・・継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日し・・・儒教が伝わった<とされている。>・・・<また、>陰陽五行思想<も>同時期に・・・入った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99
更に、「「日本書紀」では西暦五五二年にあたる年、元興寺(がんこうじ)の縁起類では西暦五三八年にあたる年、この年に、百済の聖明王から仏像・・釈迦如来をあらわした金銅仏・・<及び>幡蓋<(注1)>(ばんがい)<並びに>経論が欽明天皇に献上されたという。・・・
(注1)幢幡(どうばん)と天蓋。
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%A1%E8%93%8B-362680
http://www.hokkeshu.com/event/dic_ho_hondou.html ←写真
金銅仏とは、・・・<支那>南北朝時代の南朝やそのつよ<い>影響下にあった朝鮮半島百済の様式をを示す・・・銅または青銅で鋳造して表面に鍍金(ときん・金めっき)をほどこした仏像をいう。古代に行われたのは蝋型鋳造といって、像の概形を造った土(中型・なかご)の上に蜜蝋をかぶせ、これに細部を造形して原型とし、さらに土そとご(外型)で包み、加熱して蝋が溶け出た空間に溶銅を注いで造る技法である。・・・
やがて用明二年(ようめい・五八七)に崇仏派の蘇我馬子(?〜六二六)が廃仏派の物部氏を破り、翌年には飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)、すなわち飛鳥寺の造営を始めた・・・
飛鳥寺本尊丈六仏の作者として記録されているのは、「鞍作鳥<(注2)>(くらつくりのとり)」である。
(注2)「6世紀初めに<支那>南朝の梁から帰化した司馬達等の孫で,多須奈の子とされるが,その出自は4世紀ごろ帰化した司馬一族の「鞍作村主」であるとも,百済の「今来才伎」につながるともいわれる。鞍作姓が示すように馬具を造る工人集団の首長であったと思われるが,達等以後,蘇我氏と結びついて主に仏教関係で活躍し,その技術を生かして・・・北魏様式の・・・仏像制作も行ったと考えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9E%8D%E4%BD%9C%E9%B3%A5-1072444
のちに法隆寺金堂釈迦三尊像の作者として銘記に名をとどめる止利仏師と同一人物とされている。止利は、『日本書紀』ほかの史料によれば、<支那>から渡来したといわれる鞍作部に属する家柄とされ、祖父は司馬達等(しばたっと)、父は司馬多須奈(たすな)、叔母は鴫女(しまめ)という。彼らはいずれも仏教興隆に尽力した人として名をとどめられ、司馬達等は仏舎利(釈迦の遺骨)をえてそれを蘇我馬子に献じたこと、多額奈や鴫女は出家したことが記されている。止利は飛鳥寺には銅繍の仏像、つまり銅像と繍仏(刺繍の技法であらわした仏像画)の両方を造ったとい<う。>」
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%8F%E5%83%8F%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E7%BE%A9/
「578年(敏達天皇7年)・・・創業で現存する世界最古の企業である・・・金剛組<は、>・・・四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E7%B5%84
「古く斑鳩寺(いかるがでら)と称した法隆寺は、用明天皇の第二皇子で、推古天皇の摂政をつとめた聖徳太子(厩戸皇子。五七四~六二二)が自身の宮殿斑鳩宮の隣地に、七世紀初めに建立した寺であるという・・・
西院伽藍の中心、金堂の中央(中の間)に・・・釈迦三尊像<が>・・・安置されている・・・
・・・六二一<年>、間人(はしひと)皇后(聖徳太子の母)が亡くなり、翌年上官法皇(じょうぐうほうおう)すなわち聖徳太子と后が病に伏したときに王后・王子と諸臣が釈迦像の造像を発願し、病気の平癒と死後の往登浄土(おうとじょうど)を祈ったが、后・太子はあいついで亡くなり、翌年、三尊像と荘厳が完成した<ところ>、作者は司馬鞍作首(おびと)止利仏師であった」
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%8F%E5%83%8F%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E7%BE%A9/ 前掲
⇒このように、遣隋使が送られる前に、日本は、道教、儒教、そして仏教、を、既に、朝鮮半島経由で継受しており、また、(私は鞍作鳥の一族が百済からの渡来人であるとする説に与したいと思っているが、)塑像、絵画、装飾品、建築、等に関する支那の技術についても、直接、或いは、渡来人を通じて、殆どは朝鮮半島経由で既に継受しており、支那に、こと改めて、遣隋使を派遣する理由はなく、従って派遣の目的を先方に説明するのは、本来容易ではない。
しかし、これらの中で、仏教だけは、支那の思想ではなく、さりとて発生地であるインドにまで行くのは大変であるところ、日本とインドの間に位置してそこを経由して(更に朝鮮半島経由で)日本が仏教を継受した支那に、改めて、人を派遣して、本来の姿に近い仏教を学ぶ意義は少なからずある。
といったリクツで、遣隋使派遣の公式の目的は仏教を学ぶこととした、と、私は想像している。
そういう観点で、遣隋使について、改めて振り返ってみよう。↓(太田)
「派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はないが、東アジア諸国では末尾の遣使だった<(注3)>。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。・・・
(注3)隋建国は581年であるが、建国に伴う使者派遣は、百済と高句麗が同年10月及び12月に早々と使者を送っているが、新羅は建国後13年を経過した開皇14年(594)の派遣であり、倭国はさらにその6年後の・・・600<年>の使者派遣であった。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiZqa-Xo6LrAhXa7WEKHfvVAsgQFjAAegQIBRAB&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F71785697.pdf&usg=AOvVaw1yePYDaOPUYSzgZyf16K0C
天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺<(かふ)>して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる。」(☆)
⇒日本側は、権威の担い手たる推古天皇と権力の担い手たる厩戸皇子について説明したところ、両国間の文明/国制の違いと日本側が用意した通訳の能力に問題があったため、説明内容が相手に正確に伝わらなかった、と見る。
なお、冠位十二階や十七条憲法が「隋風」であるとは必ずしも言えないのであって、これらは、厩戸皇子がかねてから構想していたものが、たまたまその時期に実施されたということだったのではなかろうか。
なお、この1回目の使節派遣の記録が日本書記にないのは、日本側としては、それが、あくまでも、支那の久しぶりの統一への祝辞を述べる儀礼的な派遣に過ぎなかった、というタテマエからだろう。(太田)
「<派遣>第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子<ら>が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。
日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。・・・
冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった。・・・
小野妹子(<支那>名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清<(はいせいせい)>が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。
裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育した<い>というこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」・・・
これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解がある。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」・・・とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある。
なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。
だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。」(☆)
⇒どうして日本側が隋との対等性を当然視していたかについてだが、厩戸皇子が、両国間に文明的優劣も国制の優劣もないことを、いや、縄文性が遍在している日本の方が支那よりも文明的には優位にあることを、支那文献群の読書を通じて実感していたからだろう。
(漢人側も、早い時点から、薄々そのことに気付いていたのではないか。
秦の始皇帝の時に長生不老の霊薬がある日本に向け旅立ったという徐福伝説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
の存在がそのことを示唆している。)
だからこそ、遣隋使の表向きの派遣目的を、(支那自身もインドから継受したところの、)仏教、の(より正しい)継受である、と、隋側に伝えさせた、と、私は見ている次第だ。
そう伝えた以上、それ以外のこと、すなわち、支那自身が自ら生み出したもの、については学ぶつもりはない、従って、仏教に関するもの以外で、継受するための隋による便宜供与は一切求めない、求めえないことにあえてした、ということになる。
もとより、私見では、より重要な秘密の派遣目的が別途あったわけだ。
くり返しを厭わずに申し上げれば、それは、漢人による、江南を含んだという意味で、初の統一王朝であったところの、秦/漢王朝が、どうして、事実上騎馬遊牧民系の人々によって打倒されてしまい、その挙句、騎馬遊牧民系の隋によって完全に乗っ取られてしまい、漢人文明が滅亡させられてしまうという羽目に陥ったのか、そして、日本ないしプロト日本文明が、隋(ないしその後継たる、或いは別の、騎馬遊牧民系の王朝)によって、同じ運命に陥らされることを回避するにはどうしたらよいか、を模索することであったわけだ。
そして、実のところ、この2回目の遣隋使の最大の目的は、このような秘密の派遣目的を追求することが現実に可能かどうかをきちんと見極めるためだった、と思われるのだ。(太田)
「<派遣第三回(608年)は、>裴世清を送<りがてら、>小野妹子・・・<と>吉士雄成など・・・が再度派遣された。この時は多くの留学生・・倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として〈新漢人日文
http://s-nakai.sakura.ne.jp/archives/242 〉
・南淵請安・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)[・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)
https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/0ee23c2ae204c36a72e01d1c2d705e2b ]
<の>8人・・・を引き連れ<て>・・・いて<、>彼らは隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国・・・する<ことになる>。
<そして、>614年<に>最後の遣隋使が派遣される。
<なお、『隋書』煬帝紀には、610年の派遣第四回の記述がある。>・・・
<ちなみに、>612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが、1回目で大敗し、次の2回にわたる遠征では、隋国内で反乱がおき、618年に隋は滅亡し唐が成立する。」(☆)
⇒小野妹子はもちろん、吉士雄成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%A3%AB%E9%9B%84%E6%88%90
も倭漢福因
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E6%BC%A2%E7%A6%8F%E5%9B%A0
も奈羅訳語恵明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E7%BE%85%E8%A8%B3%E8%AA%9E%E6%B0%8F
も高向玄理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86
も、およそ仏教とは縁がなさそうだ。
新漢人大圀については、新漢人とは新来の朝鮮からの帰化人のこと、という以外は分からない
http://www.techxel.jp/chinese/%E9%9A%8F%E7%AD%86/%E9%9A%8F%E7%AD%86%E3%80%80%E3%80%8C%E5%9C%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%AD%97
が、学問僧と銘打ったうちの、〈「日文」・・おそらく「旻」の1字では僧名にはならないと判断し、『日本書紀』の書写の際に2字に分解したのではない・・・か
http://s-nakai.sakura.ne.jp/archives/242 前掲〉
・・は、帰国してからも、仏教に関わった形跡がないし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%BB
南淵請安も同様だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B7%B5%E8%AB%8B%E5%AE%89
かろうじて、志賀漢人慧隠が、ほぼ唯一、例外的に、帰国後、僧として活躍している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%9A%A0
新漢人広済については、全く何も分からないので、逆に言えば、僧として活躍した可能性も完全には排除できないが・・。
この中で、最も注目すべきは、高向玄理だ。
漢人系の帰化人の中に能力の高い人物は少なくなかったはずだが、遣隋使の中に「魏の初代皇帝文帝曹丕の末裔と称する漢人系渡来人の後裔である高向氏の出身」(コラム#11164)の彼を加えたことから、後で詳述するように、遣隋使の真の派遣目的が透けて見えて来るからだ。
なお、実は仏教以外の情報収集活動をするためにこそ隋にやってきたというのに、そんな遣隋使のウラ活動にさして関心を払わなかったように見える、いい意味で言えば隋の度量の大きさに敬意を表したいところだが、実際には、隋は既に漢人文化によって安全保障感覚が鈍磨してしまっていて単にわきが甘かっただけなのだろう。
遣唐使についても、派遣された日本人達のウラでの活動にさして関心を払わなかったように見える点では唐についても同じことが言えそうだ。(太田)
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なお、厩戸皇子の抱いていたところの、騎馬遊牧民のイメージは、下掲に近かったことでしょう。↓
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[騎馬遊牧民]
「騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、その人口に比して極めて大きな軍事力を発揮した。農耕民族は、農地や地場産業を維持する必要上、外征戦においてはその人口の1/30の動員がせいぜいであり、またそのような大量動員の際には非熟練兵士を多く抱えることとなる。騎馬部隊は少数の補助戦力にとどまるため、機動力を発揮しにくい。対して遊牧民は老幼の者と奴隷以外のほとんどの男性が熟練した騎兵となり、生活習慣上、移動を常としていた為、女性と非戦闘員男性もその後方から随伴し、生産と補給を並行して行っていた。また一箇所に留まらないため、その根拠地を掃討することも困難である。生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。当然、騎射にも優れ(パルティアンショット)、これを用いた一撃離脱戦法は彼等の最も得意とするところであった。
世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア、イラン高原、アゼルバイジャン、カフカス、キプチャク草原、アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカン半島まで至るY字の帯状に広がるステップ地帯にあった騎馬遊牧民たちである。彼らは、匈奴、サカ、スキタイの時代から、パルティア、鮮卑、突厥、ウイグル、セルジューク朝、モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきた。中世以降は軽装騎兵が騎射で敵軍を混乱させ、重装騎兵が接近戦で敵軍を打ち破る戦法が用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91
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そして、厩戸皇子の念頭にあったところの、支那における封建制と封建論争の歴史は次のようなものだったことでしょう。↓
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[支那の封建制]
〇支那にかつて存在した封建制
「殷社会の基本単位は邑<(注4)>(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。
(注4)「<支那で漢人>文明が発祥した黄河中流域では,自然環境を反映して邑(ゆう)と総称される都市的集落が叢生した。邑を都市(城市)国家と理解する学者も多いが,墻壁で囲繞した市域のまわりは田土で,そこに居住する人民の大部分は農民で占められていた。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E9%82%91-449955
[そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。・・・
殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。」・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
「人びとは,宗廟と社とを中心に,この邑で共同体的生活を営んでいたと考えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%82%91-449955 前掲
「やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。 殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であ<る。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%91
殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。・・・
⇒殷の統治制度は人と人の結びつきに基づいており、そこには土地は介在していないので、封建制国家とは言えない。(太田)
殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員が武器をとり、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。・・・
殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。・・・
戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。」
⇒騎士道(武士道)を引っ提げた、騎乗の戦士たる騎士(武士)の姿もまた、ここにはない。(太田)
さて、「・・・周<の>封建制度・・・について<だが、>本来、封建とは土に封じ、国を建てる意味で、郡県制度に対する語である。諸侯の封建はすでに殷代から行われたといわれるが、周は王朝を建設すると、一族、功臣・・[周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6 ]
・・50余を中原の要地に封建して、800諸侯を軍事的に支配するための結節点とした。新しく諸侯を任命する場合、策命とよばれる儀式が行われ、官、爵と同時に邑土(ゆうど)と人民を与える旨の任命書が授与され、同時に権威のシンボルとして青銅礼器(彝器(いき))や武器、車馬具、衣服、飾り具、旗、官具などが賜与される。諸侯はこれを奉じて支配地に行き、国都の邑(城市)を造営して、周辺の諸邑を服属させた。諸侯はまた一族を中心とする卿大夫(けいたいふ)(貴族)に「氏」を賜り、官職、采邑(さいゆう)を与えて支配組織をつくった。王室、諸侯、卿大夫は血縁的原理に基づく宗法によって組織され結び付けられていたといわれる。したがってその政治も祭祀(宗廟)と社稷(しゃしょく))を重んじ、王室の祭祀には諸侯が参加し、貢納の義務を負うほか軍役や土木事業にも従事した。諸侯に服する諸邑(鄙邑(ひゆう))もまた同様の義務を負った。ただし国都に住する庶人は国人とよばれて政治、軍事、祭祀の権を有したが、鄙邑の庶人は野人(やじん)とよばれ、氏族的秩序を保持したまま、王公貴族に対し租税を出し役務に従った。こうした農民集団の性格をアジア的社会の奴隷制とするか、あるいは農奴制と考えるかは立場によって異なるが、国都による鄙邑の支配という形式をとらえて邑制(あるいは邑土)国家、城市国家、都市国家などとよぶ場合がある。
[春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8 前掲 ]
⇒厩戸皇子の手に入った当時までの漢書群には、以上のように詳しくは書いてなかっただろうが、殷末期から春秋時代中期まで、支那で、土地を介在させた人と人との結びつきに基づく統治制度、すなわち封建制、が成立していた、ということは皇子は認識していたことだろう。
しかし、軍制は戦車戦を前提としたもので基本的にあり続け、やはり、(厩戸皇子がいかなる言葉でそれを呼んでいたかは分からないが、支那周辺の騎馬遊牧民や日本の蝦夷の姿を通じてイメージはしていたであろうところの)騎士(武士)、の姿はそこにはなかった、ということも・・。
皇子は、漢人の支那において、戦車戦を前提とした軍制が、騎馬遊牧民系の騎馬戦を前提とした軍制へと移行せず、歩兵戦を前提とした軍制へと移行したことが、封建制から郡県制への移行をもたらし、それが、結果として、騎馬遊牧民系との戦いにおける比較劣位を招来した、と見たのではあるまいか。(太田)
[また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6 前掲]
<こうして、>戦国時代になると諸侯は独立して郡県制を敷き、側近官僚による支配を行うようになり、封建制度は崩壊した。<なお、>この後<、>前漢、西晋、明などに封建が行われたこともあるが長くは続かなかった。」(宇都木章(注5))
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
(注5)1925~2007年。東大文(東洋史)卒、国立国会図書館支部東洋文庫、青学助教授、教授。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%AE%87%E9%83%BD%E6%9C%A8%E7%AB%A0_200000000196017/biography/
⇒このうち、西晋までのことは、厩戸皇子も承知していたはずだ。(太田)
〇支那における封建論争
・始めに
「秦の始皇帝による郡県制の導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった。・・・
<この>議論<では>、<支那>で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は<支那>と日本で広く読まれた。・・・
⇒浅井清(注6)は、1939年、魏の曹冏、晋の陸機、唐の柳宗元、李百薬、顔師古、宋の蘇軾、によるものを有名なものとして挙げているが、このうち、最初の二つは『文選』に収録されている(同じ典拠)こともあり、厩戸皇子は読んだと思われるし、唐のものは、最後の顔師古も581~645年を生きた人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E5%B8%AB%E5%8F%A4
なので、彼のものを含め、遣唐使が全て持ち帰ったと想像され、桓武天皇の承知するところとなったと私は見ている。(太田)
(注6)1895~1979年。慶大法律学科卒、欧州留学の後、同大法学部教授。「憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。1946年(昭和21年)7月19日に貴族院議員に勅選・・・<戦後、>人事院総裁・・・国際基督教大学教授、駒澤大学教授」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B8%85
明末期から清のはじめにかけては、異民族王朝の<支那>支配に直面し、それに抵抗する学者たちが「封建」論をとなえた。そのなかでも有名なのは顧炎武<(コラム#10982、11159)>の議論である。
顧炎武は、明末の政治腐敗と各地で起きる農民反乱、引き続いての満州民族の侵入と明の滅亡という亡国の悲運を経験しており、その原因を尋ねることを目的に歴史を研究した。土地土着の有力者が身を挺して郷土と民を守る一方、郡県の地方官の多くが流族や満州族侵攻のときになにも抵抗していないことを目撃していた顧炎武は、その原因を郡県制の欠陥と考えた。一方で、封建が郡県に変じたのはそれなりの歴史の必然であったとし、「封建の意を郡県に寓す」とする郡県制のなかに封建制を組み込ませる地方分権型の政治体制を主張した。具体的には、郡県制度の末端にあたる県の長官に大きな権限を与えるとともに世襲制とし、その下で働く地方官僚も県の長官がみずから任命できるようにすることなどを提案している。
清における封建論は、1728年の呂晩村の獄で弾圧され、しばらく跡を絶った。清末になりアヘン戦争や太平天国の乱などで王朝の弱体化が明らかになると、馮桂芬らがふたたび封建論を唱えるようになった。
日本ではじめて封建・郡県の本格的な議論をしたのは、江戸時代前期の山鹿素行とされている。以降、 荻生徂徠、太宰春台、山片蟠桃、頼山陽、会沢正志斎らが封建・郡県制を論じている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6
⇒マスターベーションでしかなかったところの、漢人の顧炎武による引かれ者の小唄より1000年も前に、日本では、厩戸皇子が既に同じことを考えただけでなく、手まで打ち始めていた、というわけだ。
なお、既に述べたし、後でも再述するが、私見では、隋/唐の成立時点で既に漢人文明は滅亡したのであって、明はたまたま漢人の朱家を皇帝家とする王朝ではあったけれど、明誕生のきっかけを作ったのは、漢人文明に根差さない仏教系の白蓮教徒による紅巾の乱であったし、14世紀後半に明が成立してから16世紀後半にかけて人口が減少していて、(途中、永楽帝による鄭和の大航海のような派手な事績もあったけれど、)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
秀吉があの時点で亡くなっていなければ、16世紀末~17世紀初には、明は、早くも、日本によって滅亡させられていた可能性が大であり、明の成立でもって漢人文明が復興したわけではない、と、私は考えている。(太田)
・前漢
「前漢では建国当初、戦国の旧六国の末裔や漢の功臣らからなる異姓諸侯を各地に封建したが、やがて反乱・陰謀などの建議をかけて諸侯王を劉氏一族に切り換えていった。
ところが数郡にわたる封土とそれを統治するための組織的には中央政府と同じ機構とからなる王国を保持する、その点ではいわば皇帝と対等の存在である同姓諸侯が皇帝ならびにその下にある中央政府と対立し、ついには呉楚七国の乱を惹き起こすにいたる。
この内乱を鎮圧した皇帝側はこれを契機に旧来の王国の封土を削減・没収あるいは分割すると同時に王国の官制をも縮小、その後も・・・宗室抑圧策の実施を通じて諸侯王の権限をさらに制限し、宗室諸王を皇帝に対抗し得ない、食邑の租税を食むだけの存在に退化させた。」(福原啓郎(注7)「西晋代宗室諸王の特質–八王の乱を手掛りとして–」より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238817/1/shirin_068_2_253.pdf ★
(注7)1952年~。京大院博士後期課程(東洋史学専攻)単位取得満期退学、京都外短大英語科専任講師、京都外大外国語学部専任講師、助教授、教授。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E5%95%93%E9%83%8E_000000000473223/biography/
・後漢
「後漢にはいっても前漢の制度が踏襲され、始封された皇子・皇弟が就国し、亡くなるとその嫡子が世襲していったが、宗室諸王は中央から派遣された国相らの監視のもと、人士との交通は禁止され、また官職にも就けず、それ故に国政には関与することができなかった。」(★)
・曹魏
「曹魏の封建も形式的にはいわゆる周の封建に倣ってはいるが、その内実を検討すると就国の強制とそれにともなう仕官への道の杜絶、藩国における王宮、とくに封国を守備すべき軍隊の貧弱さ、中央から派遣される曹魏特有の防輔・監国謁者などによるきびしい監視、さらにはたびかさなる転封(国替え)などから窺うことができるように、実質的には藩屏としての役割を期待されていたのではなく、・・・飼い殺し同然に幽閉されていたといっても過言ではなかった。
しかしこうした宗室諸王をとりまく状況は曹魏のみが特異なのではなく、・・・前漢以来の一貫した宗室対策の方針のさらなる強化にすぎず、その延長上にあったのである。」(★)
・西晋
「魏晋時代、とくに西晋では・・・封建に関する議論が当時の士大夫の間ではさかんであり、これらの封建論はいずれも三代<(夏・殷・周)>から曹魏にいたる歴代王朝の存続と滅亡を判断の基準とするという観点から封建制の是非を論じ、郡県制に対する封建制の優越性を説き、同姓諸侯を各地に封建氏王朝の藩屏たらしむ封建制を実施すべしと結論づけている。
そして西晋では事実大いに宗室を封建し、宗室優遇策をうちだしてはいる。
がしかし決して彼ら士大夫が展開した封建論の主旨にそのまま沿って<はいない。>・・・
西晋では魏晋禅譲革命の直前に司馬昭が実施した五等爵の復活により形式的には州の爵制に復古し、また建国当初、宗室諸王に対して食邑の大幅な増加、軍隊の増員、防輔・監国謁者の官の撤廃、王官の自選など、制限の緩和や特権の付与による宗室優遇策をうちだした。
しかし本来宗室諸王が封建された国を統治する内吏は郡の太守と事実上差違はなく、宗室諸王は封国の租税を食む存在に過ぎず、しかも転封がくりかえされており、前代と比較して優遇されているとはいえ、封建本来の意義が失われ本質的には前漢以来の方針の枠から出るものではなかった。
この西晋の宗室諸王のありかたの重大な特質で以前の歴代王制と大きく異なるのは、宗室諸王が必ずしも就国することなく、中央の官僚に仕官することができたことである。
そしてさらに官職の中でも軍事に関わる官職に就く傾向が顕著である。・・・
西晋における宗室の優遇措置は、・・・宗室諸王が掌握する禁軍が支える国家体制、さらにはそれが果している秩序の維持という公的な役割を担うがためであった。
西晋の宗室諸王は地方への出鎮が代表するように、一官僚として軍事力を掌握するのであるが、皮肉にも逆に国家体制の内からの瓦解の張本人となるのであ<る。>・・・
宗室を地方に都督<(注8)>として「出鎮」させた西晋の施策が八王の乱の直接の原因<とな>る。
(注8)「三国魏において制度化された都督制は、若干の変化を見せながらも、次の西晋王朝まで大枠としては変更なく受け継がれた。・・・山口正晃<は、>・・・都督とは独立した官職ではなく、将軍が持つ「肩書き」である<ところ、>・・・刺史・太守が都督を兼任する場合はあるものの、それは将軍号を持つ刺史・太守であって、制度的に都督が付与されるのはあくまでも将軍に対してである<、と指摘している。>」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006246778/
ここで注目すべきは西晋では宗室諸王が封建されたことによるのではなく、都督という一官職に就くことが国家体制そのものを揺がすほどの権力を握る端緒になった点である。
この事実はたとえば同じ宗室の内乱である前漢の初めに起こった呉楚七国の乱と対比するならば、呉楚七国の乱では宗室諸王の権力基盤が諸侯王に封建されたことによっており、ともに同じ宗室が起こしたとはいえ両内乱の性格の相違は歴然としている。」(★)
⇒厩戸皇子は、曹魏時代に封建論争が盛んになったのには、軍学者でもあった曹操の影響だろうと想像しつつ、曹操が、騎馬戦を前提とした軍制と組み合わせた、換言すれば、騎兵を担い手とする、封建制を構想し、その導入を図らなかったことが、漢人諸王朝の断絶、ないし漢人文明の滅亡・・以下、漢人文明滅亡と言う・・、を必然化した、という仮説を立てた、と、私は見たいのだ。(太田)
・参考
(一)欧州の封建制
「7世紀末から8世紀前半にかけて、(後の)カロリング王権は、内戦、新たな征服、それにアラビア人の侵入という事態に直面して、できるだけ多数の家臣、とくに騎兵隊を必要としたが、最初、それら家臣を給養するための土地は、一部王領地、大部分教会領、修道院領に求められた。しかし、これによって教会生活は深刻な危機に直面したため、743~744年に開かれた三つの公会議で、これら収公された土地に関して次のような解決が図られた。
収公された土地は、法的にはすべて教会に返還され、教会にその所有権が確認される。しかし、家臣たちの手中にある土地を奪うことは、(後の)王権の基礎を危うくする。そこで(後の)国王は、家臣たちがそれを今後ともプレカリア(恩貸地)として保有することを命ずる。家臣たちは、法的所有者である教会に対して賃租を支払う。さらに教会に対しては、もう一つの代償として、十分の一税が創設される。これらの土地は、同時にしかし、国王の恩貸地とみなされ、国王によって授封される。家臣たちは、国王に対しては、賃租を支払うのではなくて、家臣として負う義務を果たす。このようなプレカリアは、やがて教会のそれ以外のプレカリアと区別されて、「国王の命によるプレカリア」とよばれた。
この「国王の命によるプレカリア」を媒介として、それまで主として聖界領で行われていた恩貸地制は、そこから抜け出して従士(家臣)制と結合するに至った。同じころ(後の)国王は、家臣に対して、自己の土地をも、賃租の負担を伴わぬ終身の恩貸地として与えている。やがて多くの貴族たちも国王に倣ったであろう。カール大帝が王位についたとき(768)、家臣に恩貸地を与えることはすでに一般的慣行となっている。彼の治下において、ほかならぬ彼の政策もあずかって、この封建的主従関係は急速に普及し、従士(家臣)制と恩貸地制の結合も完成されて、フランク国家の国制の一つの柱となったのである。
狭義の封建制、つまりレーンの授受を伴う主従関係の基本的特徴は、自由人と自由人の間で結ばれる関係であり、従士(家臣)だけが義務を負うのではなく、主君の側も法的拘束を受けるという意味で、双務的である点に存する。
封建制の人的要因である従士制は、託身の礼と誠実宣誓によって設定される。このうち託身は、従士制の起源が隷属的な性格のものであったことを受け、従士が主君の保護と権力のもとに身をゆだね、生涯の服従と奉仕を約するものであったが、これに対して、前記のような封建制の基本的特徴を集約的に示しているのが誠実である。
誠実は、主君に対するあれこれの奉仕を要求するだけではない。それは、もともとは、主君の生命や財産を損なうことはなにもしないという消極的義務であるが、さらに進んで、主君の利益になることはすべてこれをなすという積極的、全体的な倫理的態度をも意味する。したがってそれは、従士の義務を倫理化する一面をもつが、まさにそのことによって、服従と誠実の間には緊張関係が生まれる。具体的には、主君が不当な要求を強制するとき、従士はそれに服従する必要がない、というだけではなく、従士はむしろそれに抵抗する権利、否、むしろ義務をさえもつとされる(抵抗権の一つの歴史的淵源(えんげん))。こうして、やがては誠実は、単に従士のみならず、主君にも要求される倫理的態度となった。
ちなみに、従士制の設定にあたって、誠実宣誓が付け加わったのは、おおむね8世紀中葉以降のことであって、前記の意味での封建制の成立・普及と並行する。それによって、従士制が隷従的性格の強い社会関係を抜け出して高貴化され、国王の直臣や大豪族などにも適用可能なものとなった。従士(家臣)の負う義務も、しだいに「助言と助力」(ことばと行為によって助けること)と要約されるようになり、実質的には軍事的奉仕を中心とするものになっていった。
これに対して、主君もまた、従士(家臣)を給養し保護する義務を負った。このうち給養の義務を果たす方法として一般的に用いられたのが恩貸地制であるが、ベネフィキウム(恩貸地。のちにドイツではレーンともよばれる)として従士(家臣)に生涯限りで授与されたものは、かならずしも土地には限らず、官職や(のちには)定期金なども含まれた。いずれにしてもそれは、主従関係ならびに従士(家臣)の側の奉仕を前提とするものであったから、もともとは一代限りのものであって、主君・従士いずれの側が亡くなっても(いったんは)返還されたし、また従士の側に義務違反があった場合には没収された。
この意味では、封建制の両要因のうち、もともとは人的要因が優越していたといえるし、主君の負う義務は、しだいに「保護と庇護(ひご)」と要約されるようになる。そして、封建制が以上のような性格を保持した限り、つまり従士(家臣)の側にもかなりの主体性を認めつつしかも主従関係であった限り、それは、西欧の中世社会において、政治秩序(国家)形成的機能を果たしえたのである。」(石川武(注9))
(注9)1952年~。北大文卒、同大文学部助手、同大法学部助教授、教授、同大法博、札幌学院大法客員教授、拓殖大北海道短期大学長、同大農業経済課教授、等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%AD%A6_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E8%80%85)
(二)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想がもたらした日本の封建制
「・・・日本の封建社会の構造的特質としては、およそ次の諸点が注目されるようになった。
第一は、中央集権性の強い・・・国家を前提として展開する日本の封建社会では、在地領主層の自立割拠的な領域支配の形成が困難<な状態が>長期的<に続い>たこと。第二には、それ<に>対応して、在地領主層による農民支配が、ヨーロッパにみられるような私的隷属身分としての農奴制的形態を本格的に展開させず、一律的な「百姓」身分支配として行われたこと。第三に、第一、第二と関連し、律令国家の中央支配階級であった公家(くげ)・大寺社が荘園制的大土地所有者として中世にもその地位を維持し、鎌倉幕府も荘園制的領有秩序を前提とする政策をとり、鎌倉時代を通じて公武権力の結合による集権的な国家体制が続いたこと。第四に、中世後期になって在地領主層の領域支配が漸次進行し、大名領国の形成に向かうが、織豊政権・幕藩体制のもとでふたたび集権的政治・国家体制が強化されること。以上の傾向をさらに要約すれば、日本においては概してヨーロッパのそれに類似した主従制が形成されたが、国家体制・身分制などの側面においては個別の領主制的支配が国家的に規制され、集権的傾向の濃厚な封建制度が展開したといえるであろう。」(永原慶二(注10))
(注10)1922~2004年。東大文(国史)卒、同大院で学び、東京大学史料編纂所員、一橋大経済学部助教授、同大経済学博士、同大教授、日本福祉大経済学部教授、和光大人文学部教授。「マルクスの分析方法を中世史の研究に適用した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E6%85%B6%E4%BA%8C
⇒概ね、厩戸皇子が構想した封建制が実現した、と、私は見ている。
そしてそれは、統一されなかった欧州における封建制よりも一見集権的に見えるが、個々の「国」・・「国」とは必ずしも言い難い神聖ローマ帝国や都市国家や自由都市をどう捉えるべきかという問題はさておき・・と日本の封建制とで言えば、両者は比較的近似していた、と言えるのではないか。
それにしても、欧州では、アラビア騎馬遊牧民との実戦を通じて封建制が生まれたのに対し、日本の封建制は、将来における騎馬遊牧民との戦いを想定して計画的に導入されたものであるところ、その両者が比較的近似したものになったのは、それが合理的なものであったからであり、そういったものを、支那のそれまでの史実等を踏まえつつも、頭の中だけから生み出した厩戸皇子の偉大さに思いを致さざるをえない。(太田)
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厩戸皇子が、支那における、漢人文明没落の到分水嶺と考えた、と、前述したように私が想像しているところの、曹操の(太子も知っていたはずの)関連事績、及び、支那における漢人文明没落の最終フェーズと考えたと私が想像しているところの、北魏以降の(やはり太子も知っていたはずの)歴史、は次の通りです。↓
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[漢人文明没落の分水嶺と最終フェーズ]
〇分水嶺–曹操の関連事績
「農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時、曹操は・・・屯田(屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。・・・
[<遡れば、>前漢の武帝は、辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせた(軍屯)。後漢末期に徐州の陶謙が陳登を典農校尉に任じて屯田のことを行わせ<たが、曹操の行った、この屯田制>・・・は、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させるもの(民屯)で、・・・屯田制下の人民は、各郡の典農中郎将、各県の典農都尉によって、一般の農村行政とは別に軍事組織と結びついた形で統治された<が、>司馬懿<(後出)>の提言で、長期にわたる抗争を繰り広げていた呉・蜀それぞれの国境付近(淮河流域、関中)でも軍屯が展開され、これにより安定した食糧供給を維持した魏は、両国との争いを有利に進めた。これに対して蜀でも諸葛亮・蒋琬・姜維が漢中にて屯田を行っている。」(注11)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%AF%E7%94%B0 ]
(注11)「こうした軍戸制<(屯田制)>は、モンゴルの千戸制を模した組織を作ろうとした元代の漢人部隊で復活し、明代になるとより大々的に実施され今日では衛所制と言われている。また軍隊が、必要に応じて耕作する、という意味での広義の屯田は、唐宋以後も、現代に至るまで、特に辺境防衛の兵糧確保の手段として、しばしば行われている。」(上掲)
〈曹操<は、>・・・196年に許昌<(許都)>で屯田制度を施行し、これ<が>やがて。<全国に広がった。>・・・だがこの制度における収益、すなわち典農部民や屯田客といわれる屯田兵は官牛を給される者が収穫の6割、私牛は5割を国家に納税することが義務付けられるなど国力充実で大きく貢献した<ものの、>大変厳しいものであったため、この制度は西晋禅譲時に大半が廃止され、残りも呉の滅亡を契機に完全に廃止されて屯田兵は一般州郡に組み入れられて負担も一般民並に軽減された。これも三国時代という戦時体制から統一後の平時体制に移行するために実施された制度であり、西晋から一定の土地を与えられて再生産を保証された農民は戸ごとに国家に対して耕作地から生産される穀物(田租)と絹(調)を納税する事を義務付けられていくことになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B >
屯田制は豪族が土地と農民を所有する制度に対抗するために導入した<ものとも言える>が、結果として<その>全ての土地が曹氏のものとなった<ことから、>のちの西晋の占田・課田制とそれに続く均田制をかんがみると公地公民制度の端緒と<も>いえる。・・・
〔占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地のことである。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは均田制の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B 〕
⇒この辺りの史実から、屯田制を、豪族の土地所有と重ね合わせつつ両立させる封建制の可能性に厩戸皇子は気付いたのではなかろうか。(太田)
<また、>曹操は降伏させた烏桓<(注12)>族を<支那>の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。
(注12)「うがん[ウグワン]・・・Wu-huanとも写す。・・・漢―北魏間の<支那>北方にいたアルタイ語系遊牧民族。烏桓とも書く。古くは東胡(とうこ)とよばれ、東胡が紀元前3世紀末に匈奴に撃破されると残部は2部に分かれ、北方シラムレン川流域を根拠地としたのが鮮卑、南方ラオハ川流域に根拠地を置いたのが烏丸とよばれた。<支那>正史によれば、狩猟、交易のほか、季節的農耕の痕跡もある。シャーマニズムを信仰し、初め統一勢力はなく、非世襲の大人(たいじん)に統率されて地域ごとに分立し、匈奴に服属していたが、のち漢にも朝貢し、漢の匈奴抑制策の一翼を担い、両者に属するようになった。後漢末に至り、大人が世襲化し、頓(とうとん)が柳城を拠点として大部分を統一する勢力を形成したが、河北を平定した魏の曹操・・・により壊滅させられた。残部は多く鮮卑に従い、のち4世紀にかけて鮮卑とともに<支那>内地に移入して農耕民化し、北魏以降、漢民族と融合の度合いを深めていった。」
。https://kotobank.jp/word/%E7%83%8F%E4%B8%B8-34337
曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。・・・
⇒ここから、厩戸皇子は、日本の蝦夷を内地に住まわせた上で、曹操のように、戦闘要員として使うのではなく、彼らから教育訓練を受ける、ないしは彼らと共に教育訓練する、ことでもって、内地人騎兵を創出し、屯田制を、この騎兵を媒介させて豪族の土地所有と両立させる封建制を日本で追求する、というアイディアを得たのではなかろうか。(太田)
<更に、>兵書『孫子』を現在残る13篇に編纂したのは曹操である。
これは『魏武注孫子』として後世に伝わることになる。
また、『隋書』経籍志によると、曹操には『孫子』の他にも、『続孫子兵法』『太公陰謀』『兵書接要』『兵書論要』などの兵法書を著している(いずれも散逸)。
『李衛公問対』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、唐の名将の李靖も参考にしていたが、曹操の著した『新書』という兵法書の記述は分かり難いとしている。
⇒曹操が、(厩戸皇子とは違って、)何らかの理由で、漢人騎兵の創出を諦めたことと、曹操の騎兵の運用法に係る既述の分かりにくさとは関係しているようにも思われる。(太田)
また、同書では、曹操が書いた『新書』や『孫子』の注には、「兵を正兵と奇兵に分け、正兵に先に戦わせて、奇兵に敵側面を攻撃させる」と書かれているとある。
朱敬則は『全唐文』にて曹操の策謀を「近古無二」つまりかつて無い事としている。
曹操は実戦においても用兵に通じ、優れた戦略家・軍略家であった。
特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。
また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。
謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できる確かな戦術理論を持っていた。・・・
⇒こういったところから、厩戸皇子は、内地人騎兵こそ、騎馬遊牧民系の脅威から日本を守る最善の方法だと確信したのではなかろうか。(太田)
<かつまた、>曹操の政策として知られる九品官人法[・・子である魏の初代皇帝の曹丕が実施
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E4%B8%95 ・・]
は・・・現実的な人材登用制度の採用<であったが、>・・・《司馬懿<(注13)>によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。
(注13)179~251年。「字は仲達(ちゅうたつ)。」曹操 → 曹丕(魏の初代皇帝)→曹叡→曹芳 の4代に仕え、ついには「魏における全権を握<った。・・・孫の司馬炎(武帝)によって>西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF
この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B 前掲》・・・
⇒ここから、厩戸皇子は、九品官人法的なものを、封建制下で内地人騎兵の部隊の、平時、有事における、柔軟、臨機応変の編成に資するために日本でも創設することを思い付いたのではなかろうか。(太田)
また・・・朝廷内の意思を統一するため三公を廃止し丞相と御史大夫の復活による権限の一元化、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行<を行った。>・・・
⇒厩戸皇子は、このことこそ、魏以降の漢人諸王朝が、騎馬遊牧民系諸王朝に席巻される結果をもたらした最大の要因である、という確信を深めたのではなかろうか。(太田)
日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫がおり、新撰姓氏録には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇[諡雄略。]御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、曹丕(魏文帝)の子孫安貴公が雄略天皇の時に一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている。この一族からは高向玄理が出ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
「<この>高向玄理<を>・・・遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らと共に隋へ留学する。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使と共に新羅経由で帰国し<た。>・・・
<玄理は、>大化元年(645年)の大化の改新後、旻と共に新政府の国博士に任じられる。・・・
<そして、>(654年)遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86
⇒厩戸皇子は、以上のような、自分の立てた初仮説の検証を、後出のように、曹操の魏と深い因縁で結ばれているところの、隋、に送る遣隋使の一員として、曹操の子孫(と称する)高向玄理に白羽の矢を立てることで、促進させようと目論んだ、というのが私のヨミなのだ。
まさに、遣隋使の派遣目的を一身に体現しているのが高向玄理である、と、私は思っている次第だ。(太田)
〇最終フェーズ–北魏・北周・隋・唐
・前史
「西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時体制のために成立していた<もの>であり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は<一部を除い>て州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。
⇒ここで、各地方に即応体制の軍事力がなければならない! と、厩戸皇子は大きく頷いたことだろう。(太田)
また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑を、成都王司馬穎が匈奴など諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、少数民族が<支那>内地に流入する事になった。
⇒蝦夷等をそのまま軍事力として利用してはならない! と、ここでも厩戸皇子は頷いたことだろう。(太田)
<五胡十六国/東晋時代がこうして始まる。・・・
西晋時代は多くの異民族統御官が新設されているが、これらは少数民族対策に重要な役割を果たす事になり、東晋時代にも受け継がれる事になる。また西晋の首都洛陽や長安など中心部は山西省に根を張っていた匈奴に近く、あるいはそれまでの動乱期に移民して洛陽付近に居住する少数民族などが根を張っていたため、武帝時代には郭欽が、恵帝時代には江統がそれぞれの民族を原住地に帰して防備を厳しくすることを提言したが、いずれも採用されずに逆に少数民族の<支那>内地移住が進行していくことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B 前掲
⇒ここで、蝦夷等を勝手に流入させてはならない! と、三度び、生尼宿の王子は頷いたに違いない。(太田)
・北魏
「鮮卑の拓跋部では、三国時代の261年、拓跋力微が・・・[<その前年に皇帝に擁立されたばかりの>曹操の孫にあたる曹奐<の>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD) ]
魏に対して朝貢を行っているが、このことが後に国号を魏に定める由来となった。拓跋部はその後五胡十六国時代に代<という国>を建てた。代は8主60余年続いたが、376年12月に拓跋什翼犍の時に<氐族であるところの>前秦の苻堅に滅ぼされた。この際、拓跋什翼犍の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に、母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた。
その前秦が383年10月の淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する。384年10月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及し、386年1月に賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市チャハル右翼後旗)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した。これが・・・<支那史上3回目の>魏の建国である。・・・
国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
⇒魏は、拓跋部が朝貢を開始した4年後の265年には、曹奐が司馬炎(晋の初代皇帝の武帝)により禅譲を強要されて滅びる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD) 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
が、にもかかわらず、拓跋珪が386年にもなって魏という国号の国を建国したのは、魏の実質的な建国者である曹操に対する深い敬意があったから、と、私は見ているが、恐らく、日本の厩戸皇子らも同じ見方をしていたことだろう。(太田)
・北周
「国祖<で鮮卑系>の宇文泰ははじめ北魏の六鎮の乱に加わったが、のちに賀抜岳に帰順して頭角を現した。賀抜岳の死後、地盤を引き継いで関中地方に勢威を張り、関西大都督となった。534年に北魏の大丞相高歓の圧迫により洛陽から出奔した孝武帝は宇文泰を頼り、孝武帝は宇文泰を大丞相にして高歓と対立した。孝武帝の出奔の後、高歓は孝静帝を擁立して東魏を建てた。一方で宇文泰は、すぐに孝武帝と不仲になって同年のうちに毒殺し、新たに孝武帝の従兄を文帝として擁立し西魏を建て、北魏は二分された。宇文泰は西魏の大冢宰に進んで皇帝を傀儡とし、事実上政権を掌握した。
537年、東魏の高歓が大規模な攻勢をかけるが、宇文泰の西魏は決死の抵抗を見せて撃退した。538年に今度は宇文泰が西魏軍を率いて攻勢をかけるが、東魏の猛将侯景のために大敗し、逆に長安を脅かされるが、何とか宇文泰の抵抗により保った。556年に宇文泰は死去し、その跡を受けて大冢宰を継いだ三男の宇文覚は、同年12月、周公に封じられ、557年の元日に西魏の恭帝から禅譲を受けて天王位につき、・・・周を建てた<が、>紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。 ・・・
君主の称号としては当初、秦以来の<支那>の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用している。・・・
<その>ため、諸侯の王は設けられず、国公が諸侯の最高の爵位になった。・・・
<また、>北周は、周という中華風の国号を用い、儒教の経典である周礼に基づく官制をとりながらも、北魏の孝文帝以来の漢化政策に逆行する鮮卑固有の習俗への回帰を標榜していた。具体的には、
国朝の儀礼なども鮮卑風に改めた。
公用語は漢語ではなく鮮卑語が用いられた。
北魏の拓跋氏が元氏となったように、鮮卑本来の姓から漢式に改められていた姓を、鮮卑固有の姓に戻した。
領内の漢人に対しても鮮卑風の姓へ改姓する措置がとられた。
といった政策が取られた。・・・
577年に<三代目の>武帝は北斉<(注14)>の首都鄴を攻め落として北斉を滅ぼし、華北を43年ぶりに統一した。・・・
(注14)「北朝 (→南北朝) の一王朝 (550~577) 。北斉王朝は東魏の実権者高歓 (神武帝) によって事実上築かれたが,形式的には高歓の第2子高洋が・・・550)・・・年東魏の孝静帝に位を譲らせ,帝位について国を斉と号し,鄴 (ぎょう) に都したのに始る。国号は斉であるが,南斉と区別してこの名で呼ばれる。山西,河北,山東を根拠地とし,その政策は鮮卑中心主義が大きく打出されていたが,<支那>的な貴族制もやや形式的ながら維持された。一時は国力も充実していたが,のち北周の武帝によって滅ぼされた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%96%89-132723
<しかし、四代目の>宣帝<は>・・・暗愚で・・・政治の実権は外戚の随国公楊堅が掌握した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%91%A8
⇒このような憂き目に遭う恐れがあるのだから、絶対に騎馬遊牧民勢力に侵攻され日本ないしプロト日本文明が滅びるようなことになってはならない! と、厩戸皇子は決意を新たにしたことだろう。(太田)
・隋
<北周の五代目の>静帝・・・より・・・581年、楊堅は・・・禅譲を受けて隋を建て、<文帝と称し、>北周は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%91%A8 上掲
「楊氏については、元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説もあ<る。>・・・
既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。・・・
588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
⇒厩戸皇子等も、隋は騎馬遊牧民系の王朝である可能性が高いと見ていただろうし、その隋が、400年ぶりに支那を統一したということに、日本の軍事体制がガタガタになっていたこともあって、大変な衝撃を受けたに違いない。
隋に代表される騎馬遊牧民系の集団や国は、朝鮮半島にも食指を延ばしてくるだろうし、その次は日本だ、と。
だからこそ、皇子は、遣隋使の派遣(600年~)を決心した、と、私は見るわけだ。
なお、それ以前に、皇子が、593年に、女性の推古天皇の権威の下で、自分が権力を掌握した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
のも、将来、天皇の権威の下で騎兵のトップが権力を掌握する体制の実現を想定し、その予行演習を行った、とまで私は見るに至っている。(太田)
・唐
「唐王朝の<租である>李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
「<隋末以来の混乱を収め、支那の統一を回復したところの、>唐王朝の第2代皇帝李世民(太宗)は[、鮮卑の人で<かつ>・・・北魏・西魏の政治家<で、>・・・実質的に北周の基礎を築いた宇文泰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%96%87%E6%B3%B0 ]
の外曾孫にあた<り、>・・・北周の歴代皇帝達と<も>血縁関係にある。・・・
唐の皇帝の座は李世民の子孫が世襲していった為、唐の最後の皇帝哀帝まで女系ではあるものの、宇文泰の血筋が存続している形である。また、李世民の妃長孫皇后は母親から北斉皇族・高氏<・・漢人系らしい(太田)・・>の血を引く(長孫皇后は北斉の開祖高歓の従弟・高岳の曾孫)為、李世民と長孫皇后の結婚でかつて華北の覇権を争った宿敵同士の家系が唐王朝の李家を通じて合体し、縁戚関係となっている。李世民の後を継いだのは長孫皇后の三男・李治(高宗)であった為、以降の唐の皇帝は北周皇族と北斉皇族の血筋でもあり、北周と北斉の歴代皇帝達とも遠い血縁関係にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%91%A8 前掲
「李世民は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
⇒れっきとした騎馬遊牧集団から彼らの汗に推挙されたのは、李世民が騎馬遊牧民系であったからこそだろう。
厩戸皇子は、隋から唐への権力の移譲(618年)の時点でまだ存命(~622年)であり、漢人の支那がもはや不可逆的に騎馬遊牧民系に征服されてしまったことを確認し、一層募らせた危機意識等を、息子の山背大兄王(?~643年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
はもとより、推古天皇(~628年)や田村皇子(後の舒明天皇。中大兄皇子の父。593?~641年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
らに伝えた上で、亡くなったに違いない。(太田)
・参考:後史
「五代十国時代(・・・~960年)は、・・・唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。・・・
五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
ちなみに、五代中、二番目の後唐は突厥系、三番目の後晋はソグド系、四番目の後漢は突厥系、五番目の後周も突厥系だ。(上掲、等)
⇒十国については省略するが、唐王朝を簒奪して五代の一番目の後梁を興したところの、元黄巣軍幹部の朱全忠は、政略家としてはともかく、軍略家としては見るべきものがなく、このこともあって、二人で唐の最後を「支えた」李克用が興した後唐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%A8%E5%BF%A0
によって後梁はすぐ滅びてしまう。
結局、遊牧騎馬民系の唐を滅ぼしたのも、事実上遊牧騎馬民系だったというわけだ。(太田)
「<趙匡胤(ちょう きょういん)は、五代十国時代の混乱を概ね収めて北宋を建国し、その初代皇帝(在位:960年<~)になったところ、>・・・自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め<た。>・・・
岡田英弘は、趙匡胤は涿郡(河北省固安県、北京市の南)の人である<ところ>、涿郡は唐朝時代はソグド人やテュルク系人や契丹人が多く住む外国人住地であり、例えば安禄山は范陽の人で、母はテュルク系人であり、涿郡を根拠に唐朝に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋朝皇帝となったように、テュルク系人の後唐の親衛隊或いは出自に問題の後周の親衛隊長からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4
「趙匡胤<(太祖)>は<支那>の分裂状態の終止を目指すが、志半ばで急死。弟の趙匡義(太宗・趙光義)が跡を襲って<支那>の統一を<ほぼ>果たし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
太宗(在位:976~997年)は「学問を好<み、>・・・太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。・・・
<支那の統一を完全に達成できなかったのは、西夏(注15)を回復できなかった上、>979年に・・・遼から燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃する<も>、高梁河において敗れ、開封に撤退した<からだ>。
(注15)「西夏・・国号は夏だが、<支那>最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。・・の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。
宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派のタングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定した。
即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力青唐王国(1032年 – 1104年)を攻めて決定的な打撃を与え、さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部の粛州・瓜州・沙州に兵を進めて制圧した。またチベット系をさらに牽制するため、蘭州近郊へ兵を送った。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F
<その一方で、>980年には前黎朝大瞿越の黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。・・・
⇒元が編纂した「『宋史』は、堯・舜、殷の湯王、周の武王以降の、相次ぐ乱世で荒廃した社会を救う、四聖人に匹敵する才の持ち主として高く評価している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4 前掲
が、元が宋を滅亡させたことに鑑みれば、皮肉ではなかったとすれば、完全な間違いだと言いたいところではあるが、それは宋の太祖の人間主義的統治(注16)・・縄文性・・を評価したということなのだろうから、まんざら理解ができないわけではない。
(注16)「後周の・・・世宗が崩御して、わずか7歳の恭帝が即位すると、これに付け込んだ北漢の軍勢が来寇する。その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった軍士により、皇帝の象徴である黄衣を着せられて皇帝に冊立される(陳橋の変)。趙匡胤は軍士たちに自分の命令に従うをことを確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた上で、帝位に即くことに同意した。開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、国号を宋と改めた。・・・
<支那>の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを例外として、前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはなかった。しかし西晋滅亡以降においては、王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにされるか、殺されないまでも幽閉するのが通例となった。しかし趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇したばかりか、降伏した国の君主たちをも生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。<後周の>柴氏は300年にわたって家が保たれ<た。>・・・
<また、>戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は・・・自身が軍人であったにも拘らず・・・軍人の力を削ぐことに腐心した。唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。・・・
<そして、>藩鎮の兵権を奪い、贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑するなど綱紀を取り締まって乱世の再発を防ぎ、農業と学問を奨励、刑罰の軽減など行い、泰平の世を築いた偉大な創業の君主であり、趙匡胤の在位17年間が宋王朝300年の繁栄をもたらした・・・。
趙匡胤はたびたび「父母が病にかかっても顧みないものは罰する」「父母と財産を異とするものは罰する」など、唐末五代の戦乱で荒廃した秩序を建て直しを図った詔を出して<いる。>・・・
その<一方で>、各地に割拠する諸国を次々に征服していったが、残るは呉越と北漢のみとなり天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。その死因については古来、弟の太宗により殺害されたという説(千載不決の議)が根強い。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4
しかし、人間主義的統治は、権力の担い手が縄文的な人物ではなく縄文的弥生人的な人物でなければ維持し得ない。
ところが、趙匡胤は、自分の後継権力者として縄文的弥生人的な人物を確保することを怠り、あまつさえ、縄文人的な弟によって(恐らくは)殺され、この弟が権力を奪取した結果、当然のことながら、縄文人的なこの人物及びその子孫達によって宋は単なる縄文人的な統治が続けられ、国勢はすぐに衰えてしまうのだ。
これと似たことは、既に、隋でも唐でも起こったのであり、騎馬遊牧民系の王朝は、王朝が成立した瞬間から、外からの脅威に備えることよりも国内の統一や治安の維持を優先させ、中央集権的かつ歩兵中心の軍制を採用し、その結果弥生性を鈍磨させてしまうという、滅亡への道を歩み始める、というお定まりコースが繰り返されたのだ。(太田)
<ちなみに、趙匡胤は>入宋した日本の使者である僧の奝然<(注17)>を厚遇し、紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。
(注17)日本の使者とは言えまい。
奝然(ちょうねん。938~1016年)は、「983年・・・、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って・・・986年・・・に帰国した。翌987年・・・、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、989年・・・から3年間東大寺別当をつとめた。・・・
奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E7%84%B6
引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し(万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して宰相に次のように語った。
「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
⇒そう願ったのなら、趙匡胤は、遣日使を送り、概成しつつあった日本文明の総体継受を図るべきだった。
それをしなかったために、(漢人文明滅亡後の)支那史の悲劇度は募る一方のまま、支那は、1000年近くを空費したまま20世紀を迎えることになってしまうことになる。(太田)
そして、「<太宗の子の第3代皇帝(在位:997~1022年)の真宗は、>太宗の方針を受け継ぎ、文治主義を推進したが、その結果として軍事力の弱体化を招いた。・・・
1004年に<遼は、>・・・20万と号する大軍を南下させた。・・・宋・<遼>の両親征軍は澶州(現在の河北省濮陽市)で膠着状態となった。宋は西夏との軍事的緊張もあることから・・・和議が成立した(澶淵の盟)。和議により以降、宋は契丹に対し毎年銀10万両、絹20万匹を贈り、宋が兄・契丹が弟の礼をもって付き合うこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
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くり返しになりますが、唐の成立に至って漢人文明が滅亡した、と、私自身が見ており、恐らく、厩戸皇子も同様の見解であったと想像しているところ、もう少し突っ込んだ説明をしておきます。↓
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[漢人文明の滅亡の徴表としての道教の生誕と仏教の隆盛]
〇漢人文明滅亡へ
「前33年、<前漢の>元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。政治の実権は外戚の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは皇太后である王政君の兄弟の王鳳らである。王太后は近親を次々と列侯に封じた、その中には王莽も含まれる。
王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い、名声を高めた。
前7年、成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられるが、王莽は朝廷内に隠然たる影響力を保持していた。
哀帝は王氏派の大臣を処断、董賢を大司馬に昇進させるなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を擁立した。
政権を掌握した王莽は王氏の実力を背景に簒奪の準備に着手する。・・・自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、・・・臣下として最高の地位に登った。
紀元後5年、平帝が崩御(王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年王莽は皇帝に即位、新朝を建国し漢は滅亡した。
⇒枢軸の時代において、インドとは異なり、(広義の地中海世界同様、)人間主義「発見」ができなかった支那は、ホンネは墨家、タテマエは法家が主で儒学が従、なる漢(前漢)が滅びた時点で、漢人文明は滅び始めた、と言ってよかろう。(太田)
王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに現実離れした様々な政策は尽く失敗に終わり、・・・全国で農民の蜂起が発生した。戦乱の中から劉秀が登場し再び<支那>を統一、漢が復興された(後漢)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2
「後漢<では、>・・・幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。・・・
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。・・・
この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。・・・
⇒つまり、後漢は、殆ど最初から国家の体をなしていなかったということだ。(太田)
前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中ではこれより少なかった。
この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、<支那>の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2
⇒その隋は、騎馬遊牧民系の王朝である可能性が高いわけだが、以上記してきたように、漢人文明が滅び始めた直後の後漢時代に、外からは仏教が伝来し、内からは道教が形成された。
仏教のことは後回しにして、まず、この道教を取り上げる。(太田)
〇道教の生誕
漢人文明が滅び始めた後、滅亡するまでの間の諸「王朝」の苛斂誅求に翻弄されながら生きた支那の被治者達が生み出した現世利益追求的迷信の体系が道教なのだ。↓
「道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した。
太平道よりやや遅れ、蜀で張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持つなどの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった。
後に八王の乱など戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれた。北では、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
「北魏<の>・・・世祖<が>この新天師道を尊崇し、道教を北魏の国教とし、自ら「太平真君」と称し、446年以降、仏教を排斥するようになった(三武一宗の法難の内の一つ)。
寇謙之は仏教の戒律などを参考にして、「雲中音誦新科之誡」をさだめた。さらに修業の段階に応じて資格を与え、師弟の関係を秩序づけ、道教の組織を寺院・教会のように確立した。
<支那>北部における道教は、以後の王朝によって国教に準ずる扱いを受け、唐代以降の隆盛を準備するのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%87%E8%AC%99%E4%B9%8B
「南では、宋の歴代皇帝から尊敬を集めた陸修静が同様に綱紀粛正を主張した。彼は明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入り、ここで著述とともに、さまざまな道教系の経典を蒐集整理し、道教の基本経典「三洞」を定め『三洞経書目録』を作成した。宋末期にはこれに「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教を儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった・・・
⇒道教は、墨家の唯物的思想の堕落形態、迷信化、とでも形容すべき、漢人文明が滅び始めた直後の支那(後漢期)に出現したところの、新興宗教だった、ということだ。
それを見抜いていたと思われる厩戸皇子は、道教に関心を示した形跡がない。(太田)
漢人文明が滅びた徴表たる隋王朝は、最初の年号「開皇」こそ道教の劫から採り定めたが、基本的には仏教に重きを置いていた。
しかし次の唐は、珍しい崇道の王朝であった。高祖李淵と次男李世民は、易姓革命の戦いの中で難局に立った際、現れた白髪の老人に導かれて窮地を脱したと言い、その後も現れては助言を下す老人は李淵の先祖に当たる老子だと名乗ったという言い伝えがある。これは道士の王遠知による演出という説もあるが、唐王朝は老子を宗室の祖と仰ぎ、宮中での道教の席次を仏教の上に置いく道先仏後の態を採った。
唐代の道教重視は科挙に強く反映され、高宗時代には『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗時にはさらに『荘子』『列子』『文子』も加わった。玄宗は司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書を作り、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。・・・
唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗・武宗・宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた。
宋の時代は、<支那>の大きな転換期であった。五代十国時代の混乱で貴族階級は衰え地主層が台頭、商業や生産技術が活発になり、印刷技術の普及は知識や文化を裕福な庶民層に広げた。
そのような中、道教も民間からの様々なものが持ち込まれた。唐代までの仙人とは、『列仙伝』や『神仙伝』などで語られる存在だったが、宋代には民間から信仰される対象が仙人に列された。その代表が呂洞賓という唐後期から五代に生き弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝わる人物である。彼を中心に様々な人物が八仙と呼ばれて敬われた。他にも、玉皇は真武神(北極玄天上帝)、三国志の英傑関羽(關帝)なども民間信仰に発し、後に王朝が権威を与えた仙人である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99 前掲
⇒復活天智朝の光仁天皇(709~782年)は玄宗(685~762年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%AE%97_(%E5%94%90)
とほぼ同世代人だし、光仁天皇の子の桓武天皇(737~806年)は、玄宗と生涯が重なり合う部分があって、二人とも、玄宗の政治の懈怠、そしてその軍事政策の失敗が惹起したところの、節度使安禄山らの安史の乱でもって玄宗が756年に失脚し、唐が衰亡に向った(上掲)正にその時を見届けており、玄宗の道教重視政策とそれと裏腹の仏教軽視政策、についても、極めて否定的に評価した(注18)、と、私は見ている。
(注18)「<日本>の政府<は>道教の伝来を拒絶し<てき>た<、>と・・・淡海三船『唐大和上東征伝』や『古事類苑』、『群書類従』に明記されている。」
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1210.html
これを、道教の邦語ウィキペディアでは、「天武朝以降」のこととしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
ちなみに、淡海三船(おうみのみふね。722~785年)は、弘文天皇の曽孫で、「天平年間に・・・出家し<ていたが、>・・・孝謙朝の・・・751年・・・30人ほどの諸王に対して真人姓の賜姓降下が行われた際、勅命により還俗して御船王に戻ったのち、淡海真人の氏姓を与えられて臣籍に降下、淡海三船と名を改めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E4%B8%89%E8%88%B9
という人物であり、「孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇」に仕え、「大学頭・文章博士などを歴任して、・・・最終官位は刑部卿従四位下兼因幡守。」という経歴だ。(上掲)
さて、「753<年に、遣唐使の>藤原清河らが鑑真招請を申し出たとき、<玄宗は、>道士の同行を条件づけたのである。そ<の時、彼らは、>「日本の君王が道士の法を崇めない」と<答え、>・・・鑑真の招請を<一旦>取り消した<上で>、「奏して春桃原ら四人を留めて道士の法を学ばせ」た<。>・・・<その後、鑑真は来日を果たすのだが、彼>は自らの死に方について「坐亡するよう」遺言を残している。インドに留学した経験をもつ玄奘三蔵がつよく望んでいた仏教式の火葬を、鑑真は実行しようとしなかった。<また、>「坐亡」とは肉体の不死を重んずる道教的な発想と無関係ではないように思われる。 さらに、鑑真の弟子である思託はその著『延暦僧録』の自叙伝において「俗姓は王氏、瑯琊王仙人王喬の後なり」と名乗っているし、慧思が骨を埋めた衡山は神仙的な雰囲気に包まれた霊山として描かれている。<支那>の慧思託生説と日本の太子信仰とを融合させて「聖徳太子慧思後身説」を作りあげた鑑真僧団が唐文化の底流をなす道教的な教養や知識を身につけ、それを日本にもたらしたことは想像に難くない。」(王勇「鑑真渡日と唐代道教」より)
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12200&item_no=1&page_id=13&block_id=21
ちなみに、慧思(えし。515~577年)は、「天台智顗の師であり、天台宗の二祖(龍樹を開祖とし第二祖を慧文、慧思を第三祖とする場合もある)とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E6%80%9D
「聖徳太子は・・・慧思・・・の生まれ変わりであるとする・・・「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説<があり、>・・・<支那>でも、<この説>は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
天武朝ですら、道教を敬遠していたのは、それが、全く異なった考え方に立脚しつつも形の上では同じく現世利益を追求する、日本固有の神道と相いれない新興宗教であったからだろう。
ところが、その天武朝は、日本の仏教における戒律の確立を目指そうと鑑真を招請するにあたって、道教の日本への継受を消極的ながら認める立場に転換したことを、光仁天皇、桓武天皇親子は問題視したに違いない。
それに加えて、天武朝の鎮護国家仏教追求の論理的帰結とも言うべき、戒律重視の姿勢・・仏僧に俗人とはかけ離れた戒律を守らせることで、国家を鎮護させる仏僧達の権威を高め、ひいては鎮護のもっともらしさを高める・・を、この父子は、小乗戒重視である、と、嫌悪したのではないか。
この小乗戒的戒律観を克服するためにも、桓武天皇は、最澄を遣唐使の一環として唐に送り込んだ、と、私は見ている。↓
「日本仏教における戒律に関する重大な事件の一つに、最澄による大乗戒の主張があった・・・。この受戒儀では、受者は菩薩として三聚浄戒を受持することを誓う。三聚浄戒とは摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の総称であり、あらゆる止悪と作善、さらには衆生利益の実行を求めるものである。律蔵には250なりの戒条が定められ、・・・この受戒法<は>、鎌倉期の南都で勃発したいわゆる「戒律復興運動」においても「通受」と名前を変えて適用されるようになった・・・。」
http://nbra.jp/files/pdf/2018/2018_03-03.pdf (太田)
〇支那における仏教の「隆盛」
既に仏教のことにも触れたこともあり、仏教については、誹りを甘受して超簡潔に話すが、支那においては、仏教も、道教とたまたまほぼ同じ時期・・漢人文明が滅び始めた直後の大混乱期・・に始まった新興宗教なのであって、違いは、内生か外来かだけなのだ。↓
「<支那>地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される<が、・・・2世紀中頃の>桓帝の時代にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事<するとともに、>・・・初めて・・・漢人出家者<が>・・・現れ<た。>・・・
北魏及び梁の南北両朝にお<いて>仏教<は>栄<えるが>、6世紀、・・・一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀・・・である。
北周の覇業を継承した隋の文帝は、陳を併合することで、西晋以来の<支那>の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、<北周の>武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、<支那>全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。・・・
隋の第2代皇帝である煬帝は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智顗を崇敬したことで知られ、智顗より菩薩戒を受けている・・・。
6世紀には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、<支那>における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
ここで、仏教とは一体何なのか、を思い出そう。↓
「輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。
⇒この全てが方便であって、釈迦は人間に内在する人間主義性を再生させる必要性に気付くと共に、そのための方法論を再発見した、というのが私の理解であるわけだ。(太田)
生きることは苦であり、人の世は苦に満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦にも原因が存在する。したがって苦の原因を取り除けば、人は苦から抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論である。
⇒そういう方便を用いて、人間主義的言動、及び、(サマタ+ヴィッパサナー)瞑想、によって人間主義性を再生させることができる、と釈迦は説いた、というのが私の理解であるわけだ。(太田)
また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。
輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続, चित्तसंतान citta-saṃtāna)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
⇒この部分については、とりわけ極端に単純化することにするが、人間主義を再生することができたとしても、人間主義的言動と瞑想は生涯続けよ、と釈迦は説いた、(というのが私の理解である、)ということにしておこうか。(太田)
問題なのは、輪廻・転生の観念が支那にはないことで、この点は日本も同じなのだが、それだけでも、仏教を方便を通じて継受することが容易ではないことだ。
もう一つの問題は、人間主義社会であった日本以外の多くの社会が人間主義的なものを再生させる方法論を追求した枢軸の時代において、人間主義社会であったインダス文明の残滓も持ち合わせていたインド社会を除き、それ以外の諸社会が、正しい方法論に到達できなかったところ、支那の場合は、人間主義性が内在しない人間の存在を認めてしまった儒教(=万物一体の仁を唱えない儒教)が正統性を確立してしまったため、人間主義再生意欲そのものが減衰してしまったまま推移した、という意味でも、仏教が根を張りにくかったことだ。
(だからこそ、例えば、肝心のヴィッパサナー瞑想が支那には伝わらない、といったとんでもないことが起こったのだろう。)
厩戸皇子にせよ、桓武天皇にせよ、こういったことは、彼らなりに、彼らの概念でもって理解していたに違いない、と、私は思っており、天竺(インド)は遠すぎるし、言語の制約もあるので、比較的近い、支那へ留学僧を派遣することとし、前者は、将来生誕させることとなる縄文的弥生人の毀損された縄文性を回復させる仏教の方法論を日本が継受すること、後者は、仏教と神道との連接・統合のための手がかりを得るべく密教を日本が継受すること、を、それぞれ、遣隋使/遣唐使に託した仏教の勉強における主目的とした、と、私は見ているわけだ。
〇漢人文明滅亡の象徴たる椅子
「西欧同様に<支那>は「イス文化」の歴史を持つ。<支那>では北方遊牧民の北魏の風俗から椅子の普及が始まり、宋の時代に一般階層まで行き渡った。一方、日本や朝鮮では椅子をあまり用いない生活様式をしてきた歴史がある。」(コラム#11556)
支那における椅子の起源には、内生説のほか、中央アジアの野営用の椅子説、7世紀のネストリアス派キリスト教宣教師持ち込み説、6世紀にインドから仏教僧院の家具として持ち込み説、がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Chair
⇒以上から、日本列島にもともといた縄文人も、支那南部から日本列島に渡来してきた弥生人も椅子を用いない生活をしていたことを推認させるが、支那全体が椅子を用いることになったことについて、4つの説があるところ、そのうち2つの説が、広義の騎馬遊牧民起源説である上、新しく支那の支配者となった騎馬遊牧民系の人々が野営時を含め椅子生活をしていたのが漢人全体に伝播したと考えられるのであって、騎馬遊牧民起源ではないとすると、日本と朝鮮に椅子がついに(近代まで)椅子を用いることがなかった理由を説明することが困難なので、私は、支那の人々が椅子を用いるようになったことが、端的に漢人文明滅亡を象徴している、と、思うに至っている。(太田)
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以上を、重複を厭わずに、しかし、若干敷衍しつつまとめると、次のような感じでしょうか。↓
厩戸皇子は、秦(BC221年~)の始皇帝が郡県制を採用したのが軍事的視点ではなく人間不信の視点であったこと、と、魏の曹冏と晋の陸機が「封建は是、郡県は非」としたのが軍事的視点ではなく封建の方が郡県よりも「公」的で「私」的ではないからという形而上学的な理由からであったこと、に対し、秦の郡県制、及び、漢の郡県制が、前漢、新、後漢を通じて、結局、匈奴を中心とする騎馬遊牧民系の脅威を除去することはもとより、抑止することにも成功しないまま、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4
漢人文明は前漢の滅亡を契機に滅び始め、三国時代を経て、そのうちの最強国であった魏から禅譲を受けた晋が支那を一時再統一するも、すぐに、(既に、その少なからざる部分が支那内に居住していた)匈奴を中心とする騎馬遊牧民系の崛起によって(注19)支那は五胡十六国時代(304~439年)に突入し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
やがて、支那北部に騎馬遊牧民系王朝が樹立され、支那は南北時代を迎える事態となり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
ついには、騎馬遊牧民系の鮮卑出身者と思われる人々を皇室とする北部の隋によって581年に統一されるに至り、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B 前掲
その隋がれっきとした騎馬遊牧民系の鮮卑出身者たる人々を皇室とする唐に取って代わられる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90 前掲
に至って、漢人文明は滅亡するに至る。
(注19)「魏は諸侯王の兵力を大きく削り、監視を厳しくして皇帝に対する反乱ができないように抑えつけた。結果、諸侯王は反乱を起こせなくなり、皇族間による内乱は発生しなかった。一方、中央では短命な皇帝や幼帝が続いた事もあって、重臣の司馬懿が台頭するようになったものの、これを抑える力を持った諸侯王が登場する事もなかった。結果、魏は司馬氏による簒奪を許してしまったのである。
簒奪の結果成立した晋では、これを教訓に諸侯王に大きな兵力を与えたが、それが過ぎたため、今度は有力な諸侯王による権力争いが生じ、彼らは己の兵力を以って対抗し合ったため乱<(八王の乱)>は泥沼化した。諸侯王は友好関係にある塞外異民族を傭兵として用いた。
八王の乱は306年に終結するが、晋の国力衰退は明らかであり、匈奴の単于の家系である劉淵はこれを好機と見た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
つまり、漢人の支那は、圧倒的に人口が少ない騎馬遊牧民によって、800年かけて徐々に征服されてしまい、ついには文明的な死を迎えてしまう、という羽目に陥ったわけだ。
厩戸皇子は、その原因が、郡県制では騎馬遊牧民系の脅威に対処し得ないのに漫然と郡県制を維持したから、という可能性があるにもかかわらず、その間、漢人達が、軍事上の視点から郡県制と封建制の是非をまともに検討しなかったためである、と考えた、と私は見ている。
その上で、皇子は、日本ないしプロト日本文明もまた騎馬遊牧民系に征服され、滅亡させられてしまうような事態を何が何でも回避しなければならないと考え、魏の実質的創建者であって、文武両道にわたる天才であった曹操が、決めかねて郡県制志向性と封建制志向性を並存させつつも、騎馬遊牧民との戦いにはめっぽう強かったことに着目し、曹操の頃が支那漢人史における漢人文明存亡の分水嶺であった可能性が高いと見て、この曹操の子で魏の初代皇帝となった曹丕(文帝)の子孫である(と称している)高向玄理に対し、かかる問題意識の下、日本としては封建制を追求すべきである、との認識でよいか否か、よい場合に、それはいかなる封建制であるべきか、等を、曹操の屯田制や烏桓(うがん)族騎兵や九品官人法、等を参考にして、南淵と協力して模索し、成案が得られるまでは帰国に及ばず、と申し渡した上で、両名等を遣隋使として隋に送り出した、と、私は、想像している次第だ。
三、聖徳太子コンセンサスの実施–藤原氏の隠された役割
1 武家の創出–藤原氏の隠された役割(その1)
聖徳太子コンセンサスの実施にあたって、その全過程にわたって、藤原氏は、中心的な役割を果たしたところ、そのうちの武家の創出に関しては、その実施過程をホップステップジャンプの三段階に分けるとすると、藤原氏は、私見では、自身がホップ段階の実施を担ったのであり、それは以下のような手順で担われました。↓
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[武家の創出のホップ–藤原氏]
〇藤原四兄弟
「不比等の男子である・・・藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
ところから、物語は始まる。
〇南家–武家創出実施本部別動隊
南家<(なんけ)>の祖の武智麻呂の長男の豊成(704~766年)は右大臣になり、左大臣が欠けたために太政官に首班に立つが、彼のすぐ下の弟の仲麻呂はが、天武朝に反逆して、764年に恵美押勝の乱をおこし、仲麻呂は戦死し、豊成は失脚し、そのこと自体は、その後に成立した復活天智朝からすれば見上げたことではあったけれど、同家は、次第に上級貴族の座から姿を消していくこととなった。(後で再述する。)
但し、武智麻呂の三男の乙麻呂の七代目の子孫の為憲(ためのり)は、母が高望王(平高望)の娘であり、武人として頭角を顕し、既に関東に定着していた平将門(後出)に対して、母方の従兄の平貞盛(後出)、そして藤原秀郷(後出)と協力して戦い、征伐に成功し、その後、工藤姓を称し、恐らく、母方の祖父の平高望の薫陶を受けていたのだろうが、その子孫を伊豆国や駿河国に定着させ、工藤氏・伊東氏・伊藤氏・二階堂氏・相良氏・吉川氏・天野氏などの武家を輩出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%86%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%B0%8F
また、武智麻呂の四男の巨勢麻呂<(こせのまろ)>の子の貞嗣の九代目の子孫の季範(熱田大宮司)の女子の由良御前(コラム#11416)は源義朝の正室であり、頼朝を生んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E7%AF%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6 前掲
なお、巨勢麻呂の長男の黒麻呂の子孫の藤原保昌(黒麻呂-春継-良尚-菅根-元方-致忠-保昌)は、「武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼<(むねより)>らとともに道長四天王と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E6%98%8C
⇒南家は、天武朝にたてつき、早々に没落するが、かなりの武家群を創出していること、と、源頼朝の母系は藤原南家であること、を銘記すべきだろう。(太田)
〇北家–武家創出実施本部兼実施直轄部隊
・桓武天皇構想策定支援
北家<(ほっけ)>の祖の房前(ふささき。681~737年)は、正規の武官職こそ授刀頭(注20)と<初代の
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiTpOKNjIHsAhXWE4gKHVOeDYwQFjABegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Ftokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D1154%26file_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1v2QVjXEXMhy44ccP-U5UY
>中衛<(ちゅうえ)>大将(注21)だけだが、「政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、・・・703年・・・には20代前半にして、律令施行後初めて巡察使となり、東海道の行政監察を行った<が、>・・・709年・・・9月に<は>東海・東山両道の巡察使に任ぜられ、再び地方の巡察任務を担当する。
(注20)「授刀舎人寮<(じゅとうとねりのりょう)>の長官。定員は一人。相当官位は従三位から従四位下までの間。・・・授刀舎人寮<は、>・・・令外官の一つ<で、>・・・授刀舎人の統括管轄、行幸・宮中の警備、儀礼取締の行幸騎兵部隊。・・・707年に新設。728年に中衛府に併合され廃止。」
http://kitabatake.world.coocan.jp/kani105.html
(注21)中衛府は、「日本古代,天皇側近の警固にあたった官の一つ。元明天皇の707年・・・に置かれた授刀舎人寮が前身で,聖武天皇の728年・・・中衛府となり,大将・少将・将監・将曹等の官人が置かれ,中衛300人(のち400人)が所属した。中衛は地方豪族・下級官人層出身の舎人であった。聖武天皇と藤原氏とが自己の政治的地位を保持する目的で設置した可能性がつよく,また農民層である衛士(えじ)を武力の主体とした令制五衛府の弱体化に対処する意味もあったと考えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%A1%9B%E5%BA%9C-97009
この巡察には関剗<(注22)>(関所)の検察が含まれていたが、同年3月にはしばしば反乱を起こしていた陸奥・越後両国の蝦夷に対して、東海・東山両道等から兵士を徴発して征討を行っており、この巡察も蝦夷征討に関わる派遣であったらしい。」(注23)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%BF%E5%89%8D
(注22)「中央政府もしくは国司によって交通上の要所に小規模または臨時の関所が設けられる場合があり、これらは剗(せき)とも呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%89%80
(注23)房前の兄で南家の祖の武智麻呂には武官歴がない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E6%99%BA%E9%BA%BB%E5%91%82
し、弟で式家の祖の宇合にもない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%87%E5%90%88
し、同じく弟で京家の祖の麻呂には武官歴として兵部卿歴だけしかない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%BA%BB%E5%91%82
⇒房前は、若い頃、このように豊富な軍事的現場経験をさせられているが、房前の父親の不比等は、703年時点では大納言、709年の時点では右大臣であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
私は、房前のこの人事は不比等が、天武朝の下、歴代天皇の目を欺きつつ、聖徳太子コンセンサスを実現するための具体的な素案・・後にこれが桓武天皇構想となる・・を、房前から得られる軍事的情報を活用して密かに練るためのものだった、と見るに至っている。(太田)
房前の五男の魚名(721~783年)は、武官職は近衛大将のみだったが、「782年・・・閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)<ところ、こ>・・・の乱に加担していたとして、<桓武天皇によって>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
「左大臣を罷免され、大宰帥として大宰府への赴任を強要された。・・・
魚名と同時に子息たちも同時に左遷(鷹取(石見介)・末茂(土佐介)・真鷲(父と共に大宰府へ下向))されている。魚名は大宰府に向かう途中、摂津国豊島郡で発病し、同国河辺郡にあった別荘に留まり治療を行う事を許される。翌・・・783年・・・5月には平城京に召還されたが、同年7月25日に薨去。・・・最終官位は大宰帥正二位。
魚名の死後間もなく、桓武天皇は左大臣の官職を贈り、左大臣免官に関する詔勅や官符等を焼却させ、その名誉を回復させた。」(注24)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D
(注24)房前–永手(714~771年。左大臣まで昇っているが武官歴なし。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B )
–真楯–内麻呂–冬嗣–長良–基経(良房の養子)
–良房–明子
–魚名–鷹取
–鷲取
–末茂
–藤成
–真鷲
藤原真楯(またて。715~766年)については、「同時代の有力者は<南家の>藤原仲麻呂(恵美押勝)で、最も栄えていたのは南家であった<上>、当時の北家の嫡流は大臣にまで昇っていた兄の永手であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟での要職の占有に批判がなお強かった奈良時代後期において大納言まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。」
武官職は一時兼務した授刀大将(注25)(令外官)のみ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E6%A5%AF
(注25)「707年・・・に授刀舎人を統括する令外官として授刀舎人寮が設置される。この時点で授刀舎人寮は五衛府より上格の軍事組織という位置づけを与えられていたが、・・・728年・・・に授刀舎人寮は中衛府と変わり、令外官ながら五衛府より格上の6番目の衛府となる。この時点で授刀舎人は記録から一旦姿を消すが、・・・746年・・・に騎舎人の名を授刀舎人に改めるという形で授刀舎人(第二次授刀舎人)が復活した。この第二次授刀舎人の任務は皇太子阿倍内親王(後の称徳・孝謙天皇)の警衛であったと言われている。そして・・・759年・・・に第二次授刀舎人を統括する7番目の衛府として授刀衛<(じゅとうえい)>が設立された。
授刀舎人の性格は明かではないが、第一次および第二次授刀舎人に共通して天皇や皇太子に近侍して警衛などを担う役割であり、天皇の私的な警護兵のような性格を持っていたとも考えられている。またその地位は文官である大舎人の下で武官である兵衛の上とされている。その出身階層は郡司層の地方豪族の子弟が中心で、兵衛と近似している事が知られている。騎舎人については第二次授刀舎人への変更の際の記録にのみ記録が残る存在であり、より実態がはっきりしないが、その名から騎乗する舎人であると思われ、天皇の行幸に随伴して警衛と儀仗を担う存在であったとする説もある。
また授刀舎人を組織して中衛府と授刀衛という五衛府の上位となる二つの衛府を設置した事については、主に二つの理由が指摘されている。
一つ目は、五衛府の弱体化に伴って、それを補完する軍事組織が必要となったとする考え方である。当時の五衛府のうち左右衛士府および衛門府の一部は地方の軍団から出向させられてきた農民出身の兵からなっていたが、彼らは元から戦意が低い上に兵としての素養も乏しく、また本来の任務以外の労役に投入されたり、規定に反して長年月の兵役を強いられることから逃亡兵が続出していた。こうして左右衛士府と衛門府が弱体化するのに応じて左右兵衛府が彼らの役割を補完することが必要となり、更にその穴埋めとして天皇直近の警衛部隊が必要となったとされる。
もう一つの理由は、当時朝廷を支配しつつあった藤原氏、特に藤原仲麻呂が自らの自由になる私兵的存在を求めたからであるという考え方である。既に藤原氏は大伴氏などの昔からの軍事系有力氏族を駆逐して五衛府を掌握していたが、より自由になる存在が欲しかったのではないかとされている。藤原仲麻呂の乱以前の中衛府、授刀衛の長は藤原氏がほぼ独占している。・・・
764年・・・に起こった藤原仲麻呂の乱の際には孝謙上皇側の主戦力として大きな役割を果たした後、・・・765年・・・に近衛府となり、その後・・・807年・・・には左近衛府となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%88%E5%88%80%E8%A1%9B
⇒房前が策定したと私が見ている、上出素案は、永手に託されたが、自分の息子達に人物なし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E4%BE%9D ←藤原家依(いえより。743~785年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%84%E4%BE%9D ←藤原雄依(おより。?~?年)
と見切った永手から弟の真楯に伝えられると共に、永手から即位後の光仁天皇に密かに奏上された、というのが私の見立てだ。
当然のことながら、真楯からは、その男子達のうち、最もみどころのあった内麻呂に、また、光仁天皇からは、その男子達のうち、最もみどころのあった後の桓武天皇に、この素案が伝えられ、桓武天皇と(武官職経験を積ませられつつ(下述)、)内麻呂、そしてその他のごく限られた人々、が討議を重ね、桓武天皇構想が策定されたのであろう、とも。(太田)
・藤原北家自身による武家創出試行
藤原内麻呂(756~812年)は、「藤原真楯の三男<で、>・・・桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。」
なお、左衛門佐、中衛少将、右衛士督、近衛大将(ここまでは桓武天皇による補職)、左近衛大将(右大臣と兼務)、と、武官職を累次経験している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82
藤原冬嗣(775~826年)は、「藤原内麻呂の次男。・・・809年・・・賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴って一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任される等、春宮時代から仕えた側近として嵯峨天皇からの信頼が厚く、・・・810年・・・蔵人所<が>設置<され>ると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられる。・・・遂には、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、・・・819年・・・には右大臣・藤原園人の薨去により、冬嗣は大納言として台閣の首班に立ち、・・・821年・・・には右大臣に昇った。・・・嵯峨朝後半には『弘仁格式』(・・・820年・・・完成)や『内裏式』(・・・821年・・・完成)の編纂を主導し、嵯峨親政体制の構築に尽力した。<ちなみに、春宮太夫の時の>、・・・812年・・・に父・内麻呂が没すると、冬嗣は左近衛大将の官職を引き継いで軍事面でも中心的な立場に<な>っ<ている>。
淳和朝に入り、・・・825年・・・に淳和天皇の外叔父にあたる藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、押し出される形で冬嗣は左大臣に昇進するが、翌・・・826年・・・薨去。・・・最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将。没後まもなく正一位を贈られる。さらに娘で仁明天皇の女御であった順子所生の道康親王が・・・850年・・・に即位(文徳天皇)した際に、太政大臣を追贈された。」
冬嗣は、左衛士大尉、左衛士督、左衛門督、左近衛大将(前出)、と、父同様、武官職を累次経験している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3
⇒最初の地方定着は、藤原氏は北家の豊沢(~887年)の時だが、遡って、(桓武天皇の子で平城天皇の弟で、桓武天皇のお気に入りだった)嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)の時、同天皇と時の藤氏長者で(武官職経験を積ませられつつ)あった藤原北家の内麻呂(756~812年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
と、が、その他ごく限られた人々と、桓武天皇構想の具体的実施プログラムを策定し、藤原氏による試行、天皇家による試行的実施、そして天皇家による本格的実施、と、いわば、ホップ、ステップ、ジャンプの形で武家の創出を行う、という内容であったはずだ、と私は見るに至っている。(後出)
その上で、嵯峨天皇と藤原内麻呂は、同じ藤原北家における従兄弟で「吃音で流暢に話せなかった」藤原藤成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90
に対し、「811年<、>播磨介に任<じ、その上で、>・・・813年・・・移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ね<させる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90 前掲
こととし、その際に、藤成の男の子供達のうちの一人を地方に定着させ、武家化させる試みをさせるためのお膳立てをせよと命じ、藤成は、この命令の実行に着手すると共に、自分の長男の豊沢にその旨を言い含めた、と私は見ている。
(ちなみに、藤成の弟の真鷲は、「791年<に>大宰少弐<になり、>・・・同年蝦夷征討のために、東山道に派遣されて兵士の検閲・武具の検査を行っている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E9%B7%B2
が、これも、嵯峨天皇/藤原内麻呂の時ではあるけれど、真鷲には子がいなかった(上掲)ので、彼でもって試行を行うつもりはなかった、と見ている。)
これを受け、藤原豊沢は、対蝦夷の最前線にして俘囚たる蝦夷の内地移送拠点で、自分や自分の子孫達が、蝦夷達らから直接武芸を学ぶことができる、下野に定着した、と。
ちなみに、藤原藤成<は、播磨介、播磨守、伊勢守、を務めたが、そ>の妻は史生<(ししょう)>を務めていた鳥取氏の業俊の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90 前掲
であるところ、「史生<とは、>・・・中央諸官庁や諸国の・・・四等官の・・・主典(さかん)の下に属・・・する下級官職で,公文書を浄書・複写・装丁し,四等官の署名を集めることを職掌とする・・・交替勤務する内分番の官で,8年(のち6年)ごとに成績が審査される雑任(ぞうにん)の一つ」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B2%E7%94%9F-519365
だが、かかる史生の家から妻を迎えたところからも、藤成は自分の使命を早い時期から自覚していたのではないだろうか。
藤成は、「<その長男の>藤原豊沢<にも、>下野の掾<(少掾)で、そ>・・・の妻も史生を務めていた鳥取氏の豊俊の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
を娶らせている。
「<その豊沢の一人っ子の>藤原村雄<は、>・・・下級役人である史生の鳥取氏ではなく、自らと同じ国司の掾である鹿島氏から妻を迎えて<おり、>彼は下野国司の<掾>として多くの地方豪族や農民を配下に収め、広大な土地を開墾し、父の代より高い権力を保持していたと考えられている<ところ、>・・・<その長男が、藤原>秀郷<(俵藤太)であり、また、女子を>平国香<(注26)に嫁がせている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
つまり、藤原藤成・豊沢親子とその更に子の村雄の三代は、藤原氏からの武家創設試行に成功すると共に、桓武平氏の武家化の地盤整備にも成功したことになる。(太田)
(注26)藤原村雄の女子と平国香との間の子が平貞盛であり、その血は、(清盛の父の)忠盛経由で今上天皇に繋がっているので、鳥取業俊も鳥取豊俊も、今上天皇の祖であることになる。
https://rekishi.directory/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E6%A5%AD%E4%BF%8A
https://rekishi.directory/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E8%B1%8A%E4%BF%8A%E3%81%AE%E5%A8%98%EF%BC%88%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2%E3%81%AE%E5%A6%BB%EF%BC%89
・桓武平氏による武家試行的創出への協力
既に部分的に言及したところだが、次に、桓武平氏の武家試行的創出への協力についてだ。
今度は、宇多天皇(867~931.天皇:887~897年)の出番だ。
「887年・・・光孝<天皇>は皇太子を立てることのないまま、即位から3年後の・・・887年・・・に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省<(さだみ)>にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではないものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
⇒光孝天皇は、臣籍に降下させていた源定省には、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を伝えていなかったと思われ、基経は、源定省が天皇に即位して、直ちにこのコンセンサス/構想を説明したところ、新天皇が、関心を示さないか、内容の大幅修正を命じたのではないか、と、想像している。(太田)
宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう<(注27)>。
(注27)阿衡事件。「<887年に>天皇に即位した宇多天皇(21歳)は、左大弁橘広相(たちばな の ひろみ)に命じて、基経を関白に任じる詔勅を出した。基経は先例により26日に一旦辞退する。天皇は橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は<支那>の殷代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士藤原佐世<(すけよ)>が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。・・・基経は「厩馬を放散して、京中を驚かす如き、亂暴の擧動もなせしなるべし」<と>怒りを表したという。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。・・・
翌888年4月、天皇は左大臣源融<(とおる)>に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。藤原基経の威を恐れた博士らの見解は佐世と同じであった。広相はこれに反駁するが、6月2日、天皇は先の詔勅を取り消して、広相を罷免した。天皇は無念の思いを日記に記している。
基経は執拗になおも広相を遠流(おんる。島流し等の追放刑)に処すよう求める。広相の無実を知る天皇は窮するが、讃岐守菅原道真が同11月これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書を基経に送り、基経が怒りを収めたことにより、ようやく事件は終息した。・・・
ところが、『日本三代実録』・・・884年・・・7月8日条によれば、同年6月7日に光孝天皇から政務の要請をされた際に、一旦これを辞退した際の藤原基経の返答に「如何、責阿衡、以忍労力疾、役冢宰以侵暑冒寒乎(果たして暑さや寒さに関係なく一生懸命に職務を行なうとしても、阿衡の責任を全うできるかどうか、私にはわかりません)」という語句を含めている。問題の「阿衡」という言葉を基経自身が用いていることより、基経が本当に「阿衡」の本来の意味を知らなかったのか疑問が持たれる。また『政事要略』巻30『宇多天皇御記』<888>年6月2日条には天皇が以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する記述が残されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%A1%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒藤原佐世(847~898年)は、「藤原式家、中納言・藤原種継の曾孫<で、>・・・藤原基経の侍読を務めその家司とな<っていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%90%E4%B8%96
時期があり、基経とグルだったと見る。
基経が阿衡事件を引き起こした狙いは、自分の力を宇多天皇に見せつけて、(緊急性があったところの、)コンセンサス/構想の実施を認めさせることだった、と。(太田)
翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。・・・891年・・・1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
「889年6月14日・・・、<平国香は、>宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望と共に・・・898年・・・に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。源護<(まもる)>の娘を妻とし、前任の常陸大掾<(だいじょう)>である護よりその地位を受け継ぎ坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。・・・
源護の娘<との間に男子はいないが、もう一人の妻である>藤原村雄の娘<との間に>貞盛<、更に家女房<との間に>繁盛<、そして、>生母不明の子女<との間に>兼任<をもうけた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
⇒関東の、藤原豊沢・村雄父子が、恐らく跡継ぎの男子がいなかった源護と話をつけて、平国香に事実上、自分の地位と農地を譲る含みで、源護の女子を国香に嫁がせることにしていたところ、887年に豊沢が死期が近付いたか亡くなってしまったので、話が壊れないうちに、平高望・国香父子・・平高望(高望)については、コラム#11164、11192、11221、11229、11237参照。とりわけ、高望のキャリアパスについては、その中の、コラム#11192参照。・・を関東に送り込む必要があったために、基経には一刻の猶予もなかった、と見るわけだ。(太田)
・清和源氏による武家本格創出への協力
最後に、清和源氏による武家本格創出への協力についてだ。
話を少し戻す。
(既に登場した基経の養父である)藤原良房(804~872年)は、藤原冬嗣の次男で、母は、南家の巨勢麻呂の孫の藤原美都子であり、良房の一人っ子である娘の明子(あきらけいこ。母親は嵯峨天皇の皇女)が嫁いだことで、生前に文徳天皇の外戚とな(り、太政大臣に就任し、更に、「人臣」で初めての摂政とな)った。(後でもう一度良房のことを書く。)
なお、彼は、左近衛権少将、左近衛権中将如元、左兵衛督、右近衛大将、右近衛大将陸奥出羽按察使如元、右近衛大将如元、左近衛大将、と、祖父、父、に引き続き、武官職を累次経験している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF
清和天皇は、この明子の子で良房の孫なので、清和源氏は、藤原北家(と藤原南家)の子孫でもあることを銘記すべきだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F 前掲
ちなみに、清和天皇の子で清和源氏の祖である源経基の父の貞純親王の母親は棟貞王の娘で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B
その棟貞王の父親は葛井親王(ふじいしんのう。コラム#11192)で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9F%E8%B2%9E%E7%8E%8B
その葛井親王の父親は桓武天皇だが、母親は坂上田村麻呂の娘なので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E4%BA%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
清和源氏は、坂上田村麻呂の子孫でもあるわけだ。
いかに、清和源氏の武家がサラブレッドか、分かろうというものだ。
しかも、清和源氏は武士化したのが桓武平氏より後、つまりはに天皇家から分かれたのが桓武平氏より後だった、という点でも、相対的には桓武平氏より格が上、ということになる。
その上、清和源氏以降は、藤原氏にせよ天皇家にせよ、それ以外の氏にせよ、本格的な武士化は行われなかったのだから、清和源氏のブランド価値は不滅になったわけだ。
では、この清和源氏の武家化はどのように行われたのだろうか。
貞純親王(?~916年)は、「篤信家で25歳のとき,諸国に1万3000体の仏像を安置したという話も伝えられる。・・・中務(なかつかさ)卿,兵部(ひょうぶ)卿,上総・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)の太守をつとめた」
https://kotobank.jp/word/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B-1078445
というわけで、摂関の藤原基経(836~891年)が、その子孫を武家化させることを念頭に置き、貞純親王は、兵部卿の時に武の素養を積ませられたと思われるが、基経は、それだけでなく、清和天皇の兄の源能有(注28)に自分の娘を娶らせた上で徹底的に武官職を経験させると共に重用し、更に、この能有と自分の娘との間にできた経基にその叔父にあたる能有から武の薫陶を与えた上で、武家化を含みに臣籍降下させた、と、私は見るに至っている。
(注28)よしあり。845~897年。「加賀守、大蔵卿・・・参議に任ぜられ・・・、弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。その能力は藤原基経からも評価されてその娘を娶っている。この間、・・・877年・・・従三位、・・・882年・・・中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左衛門督・検非違使別当と武官も兼帯した。宇多朝に入っても、引き続き・・・890年・・・正三位、・・・891年・・・大納言と順調に昇進する。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には左大臣源融・右大臣藤原良世と先任の上卿2人がいるにも関わらず撰国史所総裁を務めていること、・・・895年・・・には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っている。いずれも、本来は摂関もしくは一上が務める慣例であったことから、・・・891年・・・の藤原基経没後は、大臣の官職にあった源融・藤原良世がいずれも70歳を越えた高齢であったこともあり、能有が事実上の政権担当者として寛平の治を推し進めたと考えられている。この年の暮れには五畿内諸国別当に任じられ、翌・・・896年・・・には平季長を山城国問民苦使に任じて、その報告を元にして院宮王臣家による土地の不法拡大を禁じる太政官符などの農民保護政策を打ち出している。この年には右大臣に昇るが、これを極官として、翌・・・897年・・・薨去。最終官位は右大臣正三位左近衛大将兼東宮傅・・・
<基経の娘との間の>娘の昭子は藤原忠平の妻として師輔らを産み、<生母不詳の>柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいる。即ち、師輔以降の藤原摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%83%BD%E6%9C%89
(だから、清和源氏は、二重に藤原北家の摂関家の子孫であるわけだ。)
さて、ここで、桓武平氏の時、どうだったかを思い出してみよう。
桓武平氏は、臣籍降下が、高望・国香に対し同じ時期になされ、国香が坂東の常陸国に定着して武家化したので、天皇から数えて二代目で武家化したのだった。
ところが、清和源氏の場合、武家化は遅れに遅れる。
すなわち、清和源氏の場合、経基が臣籍降下したけれど、彼は、坂東で武蔵介時代に、平将門がらみ等の、また、その後、藤原純友がらみの、ばっとしない「活躍」をした後、「武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司<や>・・・鎮守府将軍・・・<を>歴任」するという生涯を送り、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
その子、満仲は、「多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した」とされてはいるものの、「摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る」という生涯を送っており、坂東どころか、摂津国に定着して武家化したとさえ言えず、満仲の子達に関しても、頼光は、摂津源氏の祖とされているところ、「自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にある」し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89
頼親は、三度大和守を務めたことから、大和源氏の祖とされているところ、累次不祥事を惹き起こしており、土佐国に配流されてその生涯を終えているし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%A6%AA
頼信は、河内源氏の祖とされているところ、「鎮守府将軍<や>、検非違使、常陸介、伊勢守、河内守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守、陸奥守、左馬権頭、冷泉院判官代、治部少輔、皇后宮亮、左兵衛尉、兵部丞」を歴任する生涯を送っており、「甲斐守在任時の・・・1031年・・・に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す<が、>・・・それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている<ところ、>・・・この乱の後、坂東の武士は河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた<、とされてはいるものの、>・・・兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1
貴族的人物というのが私の見立てだ。
つまり、坂東の武士達は、坂東で領地争い等の紛争が生じた時に摂関の窓口として、或いは、摂関への口利きとして、頼信に働いてもらうために、彼と上下関係的交誼を取り結んだにとどまる、と思うのだ。
(以上、何だか、平氏ならぬ、平家、を思い出すな、という感想を抱いたむきもあろうかと思う。
次の次のオフ会「講演」原稿あたりできちんと書ければと思っているが、桓武平氏中の平家は、清和源氏のこの辺り頃へと「先祖返り」した集団であった、というのが、取敢えずの私見だ。)
結局、ようやく、地方に定着するという意味で武家化を果たすのは、頼信の長男の頼義だった。
とはいえ、本拠地は河内にあったのだから、それは半定着でしかなかったのだが・・。
で、その源頼義(988~1075年)なのだが、以下のような人物だ。↓
「父・頼信<は、>・・・、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという
相模守在任中、<平>忠常の乱<(注29)>の鎮圧に失敗して<追討使>を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である平直方は、「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの平将門を討ち滅ぼした平貞盛の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたい」と、頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した(ただし、直方も頼義も京都を根拠とする軍事貴族であることから、実際には忠常の乱以前に京都にて婚姻関係が成立していたとみられ、頼義の相模守就任を機に直方から鎌倉を譲られた可能性がある)。
(注29)1028~1031年。「平良文は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力を伸ばした。忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。
・・・1028年・・・6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまう。上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。
事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがった。[藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であ<り、>・・・分派であるはずの九条流<の>・・・藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受け<、>最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれ<、>・・・残した日記『小右記』<で名高い>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E8%B3%87 ]
右大臣・藤原実資は陣定において、頼信を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。他の公卿も同調するが、[母が道長の女子で唯一の妃も道長の別の女子だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]
後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。直方を追討使に抜擢したのは、[道長の長男の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%80%9A ]
関白・藤原頼通だった。
直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。・・・平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。・・・翌年2月には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。また、この頃源頼信が甲斐守に任じられている。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。
追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。・・・1029年・・・2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には都への報告を怠ったという理由で成道は解任されてしまう。
・・・1030年・・・3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭って抵抗を続けた。乱は長期戦とな<った>・・・。
同年7月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、9月に代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした・・・1031年・・・春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。
朝廷は頼信の功労を高く評価して希望する国の受領に任じる方針を決め、頼信は当初は都に近い丹波守を希望したが、後に東国との交通が良い美濃守への変更を希望し、突然の変更に朝廷内でも物議を醸したが、最終的には・・・1032年・・・の除目により頼信は希望した美濃守に任じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
私のヨミはこうだ。
清和源氏の歴代の面々が、都付近での形だけの地方定住ではなく、坂東への地方定住による本格的武家化から逃げ回っていることに業を煮やしていた藤原北家の摂関家が、源頼義に白羽の矢を立てた上で、壮大な頼義追い込み作戦を立て、実行した、と。
それによる武士としてのスキルの維持向上を期待して、坂東で武家化していたところの、藤原氏系及び桓武平氏達の間の相互の騒擾等、への介入をあえて控えて来た摂関家だったが、頼通は、まず、(異例なことだったのではないかと想像されるが、)中原成通を右衛門志として検非違使に任じた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E6%88%90%E9%80%9A
異例というのは、「中原氏(なかはらうじ)は、10世紀の明経博士中原有象を氏祖とし、広澄流清原氏と共に明経道を、坂上氏と共に明法道を家学とした氏(うじ)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E6%B0%8F
であり、およそ武官とは縁がないはずの家柄なのに、右衛門志に任じられているからだ。
恐らく、家業の関係と自分の趣味で、『孫子』等の支那兵学書に滅法詳しいといった背景があったことで、武官職に就けても必ずしも怪しまれないことから、頼通に目を付けられたのではないか。
頼通は、甥でかつ義理の弟で、いわば一心同体であった後一条天皇ともすり合わせた上で、まず、中原成通に、決して悪いようにしないから、とプランの相当部分を明かし、協力を取り付けた、と見るわけだ。
その上で、平忠常が騒擾事件を(再び?)起こした時、衆目が一致する頼信ではなく、検非違使右衛門少尉(注30)の平直方を選んだ上で、そのサブに検非違使左衛門少志の中原成通を付け、成通にさんざん直方の足を引っ張らせることで、直方の任務遂行を不可能ならしめた、と。
(注30)当時、検非違使庁は衛門府内に置かれ、衛門府の官人が検非違使を兼務していた。
左右の衛門府:督(長官)-佐(次官)-大尉・少尉-大志・少志。
「大尉・少尉<については、>・・・定員はそれぞれ左右各2名だったが、後に増員されていった。・・・通常大尉には公家が、少尉には武家が任命された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%BA%9C
(なお、青天の霹靂的に犠牲のヤギにさせられてしまった格好の忠常にしてみれば、今まで、自分以外も含め、この程度の乱暴沙汰は看過されてきたというのに、一体全体、どうして、朝廷が突然、自分に対して、かくも強硬な姿勢で臨んできたのだ、と、首をひねり続けたことだろう。)
すなわち、「中原成通は消極的で、<(上出のように)討伐部隊の出発を後らせた上、>関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。・・・1029年・・・2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった<ところ、>同年12月には都への報告を怠ったという理由で成通は解任されてしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 前掲
「(実際<に>は危篤の母を思って帰京を計画し、失敗したと<も>い<われている>)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E6%88%90%E9%80%9A 前掲
そして、「乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだし<かった。>・・・
1030年・・・7月、業を煮やした<フリをした>朝廷は<、そこで、>平直方を召還し、9月に代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
とまあ、こういう次第で、中原成通のせいで、平直方も大失敗をやらかしてしまった形にあいなったわけだ。
ところが、成通は、かなり後だが、晴れて、家業の明法博士に任じられており、大失敗を犯した人物とは思えない、平穏にして名誉ある後半生を送っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E6%88%90%E9%80%9A 前掲
また、直方の方も、「その後,能登守や<実質国司であるところの>上野介<や上総介>になっ<ているし、>・・・鎌倉幕府の執権であった一族<である>・・・北条氏<は、>・・・直方を始祖と<いうことにしており、>・・・直方の孫時方あるいは曾孫時家が伊豆北条に土着して,在庁官人となり北条を称したらしい」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9-92227
、というわけで、何ごともなかったかのような順調な生涯を送ったばかりか、あの北条氏が、わざわざ自分達の始祖に祭り上げたくらいなのだから、彼が、汚名など全く引きずらなかったことが分かろうというものだ。
中原成通の方は、やらせだったとすれば不思議でもなんでもないが、平直方の方は、一体、どう説明したらいいのだろうか?
彼については、「摂関家の家人として藤原頼通に奉仕を続けていることから、実際の本拠地は京都にあり、何らかの事情で鎌倉に所領を得ていた可能性が高<く、また>・・・河内源氏の源頼信(頼義の父)<は、>・・・かつて直方の家人であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9 前掲
ことが、疑問を解くカギではなかろうか。
私は、頼通は、大失敗をしでかした(と本人が思っていた)直方に対し、頼信・頼義親子に窮地を救ってもらったのだから、娘を頼義に嫁がせよ、そして、(いずれ頼義を相模守に就けるつもりだが、その折にでも、)「鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡<せ>」、言う通りにすれば、大失敗はなかったことにして、爾後の叙任を行ってやる、と、言い渡し、直方が受諾した、と見ている次第だ。
そして、「頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
私は、頼義が直方の坂東での郎党を譲り受けた時点で、形式はともあれ、観念的には、日本で初めて、封建契約が、頼義とこの譲り渡された郎党との間で取り交わされた、と想像している。
但し、鎮守府将軍として前九年の役を終結させた頼義は、「当時の伊予国は播磨国と並んで全国で最も収入の良い「熟国(温国)」として知られ、そのために伊予守も播磨守と共に「四位上﨟」と称される受領の筆頭格であった<ところの、>・・・正四位下伊予守に任じられ・・・<この>伊予守の任期を終えた後は出家し・・・これまでの戦いで命を落とした敵味方の為に「耳納堂」という寺堂を建立し、「滅罪生善」に励んだ<ほか>、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)、大宮八幡宮(東京都杉並区)等を創建し・・・大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺だった通法寺跡にある・・・墓所<とし>」(上掲)ており、坂東に定住したわけではないことに注意が必要だ。
で、今度は、この頼義の長男の義家についてだ。↓
「源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれる。異説としては南北朝時代の僧侶・歌人である由阿が著した『詞林采葉抄』に記された相模国鎌倉にあった外祖父平直方の館とする説、横山党の系図の1つである『小野系図』や南北朝時代の軍記物語である『源威集』に記された相模国足下郡柳下郷とする説がある他、頼義も平直方も京都を根拠とする軍事貴族であることから頼義が直方の娘婿になったのも息子である義家が誕生したのも京都であると考えるのが自然とする説(川合康<(コラム#182、2200、4119)>)もある。
幼名は不動丸、または源太丸。7歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。・・・
義綱 – 賀茂次郎。京都の賀茂神社で元服。
義光 – 新羅三郎。近江の新羅明神で元服。・・・
⇒頼義の最も著名な男子達3名が、そろいも揃って、京都ないしその近傍で元服しているということは、この3名に関する限り、河内で生まれた、つまりは、頼義は坂東ではなく、河内を本拠/定住地にしていた、と見るべきだろう。(太田)
鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、・・・1057年・・・11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦い<(注31)>を経験。
(注31)きのみのたたかい。「<1057>年11月、陸奥守・源頼義は多賀城の国府軍1,800を率いて安倍氏を討つべく出陣したが、厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様であった。一方の安倍軍は国府軍の進軍路を完全に把握し、地の利も生かして優位に立った。
両軍の戦いは安倍軍が圧勝し、国府軍は数百の戦死者を出した。30年来の家臣の佐伯経範を初めとして有力な家人が討ち取られるなど頼義は壊滅的な敗北を喫し、自身も息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れた。
この戦いの後暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
黄海は、「現在の<岩手県>一関市藤沢町黄海」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E6%9D%91
「安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。・・・
しかし近年の軍事貴族研究の進展とともに、安倍氏を王朝国家特有の「兵(つわもの)」と見る考え方が登場している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%B0%8F_(%E5%A5%A5%E5%B7%9E)
その後出羽国の清原氏<(注32)>の応援を得て頼義は安倍氏を破った。
(注32)「1990年代以降、武則系を海道平氏(岩城氏)の一族とする説が唱えられると、これを強化する論考が続き、有力な説とする論考も現れている。
陸奥(後の陸中国)の俘囚豪族安倍氏と河内源氏源頼義の戦いである前九年の役にて当主清原光頼は当初は中立を保つも、参戦依頼に応え、光頼の弟、清原武則が率いる大軍をもって安倍氏を滅ぼした。その結果、武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領奥六郡を併せ領する大族となる。
武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦で活躍し鎮守府将軍となった貞衡と同一人物とする説がある。真衡は、棟梁の権限を強め、平氏の岩城氏から養子を取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源頼義の娘を迎えた。
真衡はこうして武家としての清原氏を確立させようとしたが、その過程で一族の長老吉彦秀武や異父異母弟清衡(藤原経清の遺児。母親が清原氏に嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。源義家の調停により遺領は2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃、出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争に介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝を聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵の戦いでは籠城戦を戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至り、清原氏惣領家は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F
⇒前九年の役の段階で、頼義は、そして既に義家は、それぞれの戦士としての未熟さを痛感させられたことだろう。(太田)
・・・<これは、清原氏に>平身低頭で参戦を頼みこんだ<賜物>。・・・1063年・・・2月25日に義家は従五位下出羽守に叙任された。
しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。・・・受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、・・・翌・・・1064年・・・に朝廷に越中守への転任を希望した<が、>それが承認されたかどうかは不明である。
この年、義家は在京しており美濃国において美濃源氏の・・・源国房<(注33)>と合戦している。
(注33)源満仲-頼光-頼国-国房
-頼信-頼義-義家
国房は、「前九年の役から帰還した源義家と合戦を繰り広げている・・・。・・・義家は美濃の郎党が国房の郎党に凌辱されたことに端を発し、この報復として義家が郎党を引き連れて騎馬で京から美濃の国房の館を奇襲し、国房は館を脱出した<らしい。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9B%BD%E6%88%BF
⇒戦士として未熟では、戦士的豪族が盤踞する国の統治者たりえないと達観し、義家は、清和源氏同士のいわば身内同士の私闘を仕掛けることで、自分が清和源氏の筆頭であることを後冷泉天皇と藤原頼通(それぞれ後出)にアピールすると共に戦士としての能力向上を図った、と見る。(太田)
・・・1070年・・・に義家は下野守となっており、陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を<(注34)>捕らえた・・・。
(注34)「延久蝦夷合戦で、陸奥守・源頼俊が出陣中に、国司の印と国の正倉の鍵を奪い、逃走する。その後、下野国で下野守をしていた源義家に出頭して逮捕された。義家はこれを都に報告し、頼俊の罷免召還を要求する。頼俊はこの事件が原因で事実上失脚し、副将格の清原貞衡(清原真衡とする説、清原武貞とする説、清原武則の弟とする説、海道平氏出身で武貞の娘婿とする説などがある)が鎮守府将軍に任ぜられたのと対照的に延久蝦夷合戦の功を全く認められなかった。
基通の出自、系譜については全く不明であるが、国司の印や国の正倉の鍵に近づけ、史料に散位と記載されていることから、在庁官人であると見られている。また、不自然に下野まで逃亡し、源義家に投降していることから、前九年の役で源頼義、義家と主従関係を結んでいた可能性も指摘されている。陸奥に源頼俊が勢力を植えつけることを快く思わない義家の意を受け、頼俊の失脚を狙い事件を起したと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E9%80%9A_(%E6%95%A3%E4%BD%8D)
⇒藤原氏つながりで、摂関家から、或いは、摂関家からも、基通が直接指示を受けていた可能性もあると思う。(太田)
当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊<(注35)>で、即位間もない後三条天皇<・・私見では、天皇家への権力奉還が摂関家の課題になっていた(後述)・・>頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服(延久蝦夷合戦)自体は成功したが、この藤原基通の件の為か頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。
(注35)満仲-頼親-頼房-頼俊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%8A
⇒義家を、早く、清和源氏の筆頭(棟梁候補)、ひいては武家の棟梁候補、へと引き上げることを、後三条天皇(後出)が意図し、そうなるように、摂関家と共に取り計らった、と見たらどうだろうか。(太田)
1079年・・・8月に美濃で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉・源重宗(清和源氏満政流4代)を<白河天皇(後出)の>官命により追討。
・・・1081年・・・9月14日に検非違使と共に園城寺の悪僧を追補・・・。同年10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と2人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、この時本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。
⇒官職はなくても、官位は持っていた(従五位下)わけであり、「父<(後三条天皇)>同様に親政を目指し、・・・摂関家の権勢を弱めることに努め」ていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
ということにされている(後述)白河天皇としては、官位制が冠位制であった当時の精神に立ち戻り、官位保持者たる武士であれば、天皇家における権力の担い手・・1086年に白河天皇は実子に譲位し、院政を敷くことになる(上掲)・・が自由に指揮できるという前例を作りたかったのだろう。
当然、義家の側からの働き掛けもあった、と見る。
師実も当然承知の上であり、前駆の名目なるものは、世間の目を欺くために、そういう話にしたのだろう。(太田)
さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。
12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。
⇒そこまではうまくいったところ、残された課題は、義家自身の武士としてのスキルアップ、と、坂東(地方)における勢力の強化だった。
ここで、親の心子知らず、込み入った事情からやむを得なかった面はあるが、白河天皇から見て、義家はフライングを犯してしまう。(太田)
・・・<義家は、>1083年・・・に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まる。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。朝廷では・・・1087年・・・7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実も有る・・・。
後三年の役において動員した兵は、石井進<(コラム#11219、11375)>の国衙軍制の概念にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃、そして相模国の武者と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥奥六郡の南三郡を中心とした藤原清衡の軍と、出羽の吉彦秀武の軍からなると思われる。
最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は秀武の軍、次に清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。
<1087>年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡・清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌・・・1088年・・・正月には陸奥守を罷免される。
何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととのへ」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る・・・。当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。
⇒勢力強化をすっとばして私戦を行い、スキルアップこそ果たせたかもしれないが、白河天皇にお灸をすえられてしまい、義家にとって、後三年の役は骨折り損のくたびれもうけに終わったわけだ。(太田)
・・・1091年・・・6月、義家の郎党・藤原実清と弟・源義綱の郎党・藤原則清が河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兄弟が兵を構える事件がおきた。
義綱は同年正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌・・・1092年・・・2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、・・・1093年・・・12月には源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努める<等している>・・・が、義家の方は・・・1104年・・・までそうした活動は・・・ない。
<1093>年10月の除目で、義綱は陸奥守に就任。翌・・・1094年・・・には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄と並び、翌・・・1095年・・・正月の除目で、事実上陸奥守よりも格の高い美濃守に就任する。
ところが、その美濃国における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白・藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。この時も比叡山延暦寺・日吉社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。さらに4年後の・・・1099年・・・6月に、当事者の師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。この件の影響か、この後義綱が受領に任じられることはなかった。
⇒そんな時に、河内源氏にとって致命的となるところだった、兄弟げんか、まで起こしてしまったのだったが、義綱が失速したことによって、義家は共倒れを免れる。(太田)
義家は後三年の役から10年後の・・・1098年・・・に・・・白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し・・・<た>。
⇒じりじりして待っていた白河法皇は、いくらなんでもそろそろ既定路線に戻そう、と、義家を引っ張り上げるが、顰蹙を買ってしまったわけだ。(太田)
・・・1101年・・・7月7日、次男の対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐・大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す・・・。しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は翌・・・1102年・・・2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定する。
・・・1104年・・・10月30日に義家・義綱兄弟は揃って延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6
この際、義家の子孫の話も大急ぎでしておこう。↓
・・・1106年・・・には別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に68歳で没する。・・・
死後は三男の源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。
⇒本来家督を継承すべき義親の出来が悪かったために、義家は、義親を飛ばしてその義親の子の為義に家督を継承させる含みで、その間、義忠に家督を預からせることにしたのだが・・。(太田)
翌年の・・・1107年・・・12月19日、隠岐に配流されていた源義親が出雲国目代を殺害し、周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じる。翌年の・・・1108年・・・1月29日に正盛は義親の首級を持って京に凱旋し、正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びる。この凱旋に対して、藤原宗忠は『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記す。
・・・1109年・・・、義忠が郎党の平成幹に暗殺される事件が発生。犯人は義綱と子の源義明とされ義親の子(義忠の弟とも)・源為義が義綱一族を追討、義綱は佐渡島へ流され義明は殺害された(・・・1132年・・・に義綱も追討を受け自殺)。家督は為義が継いだが、義光・義国や義忠の遺児・河内経国、為義の子・源義朝などは関東へ下り勢力を蓄え、玄孫で義朝の子・源頼朝が鎌倉幕府を築く元となる。」(上掲)
⇒義親は予期以上に、そして、為義は予期に全く反して、極めて出来が悪く、(次のオフ会「講演」原稿で詳しく取り上げることになろうかと思うが、)権力奉還後の摂関家の堕落のとばっちりも受け、河内源氏は「成りあがり者」の平家に壊滅寸前にまで追い詰められることになってしまうのだ。(太田)
・参考
藤原道隆の同父母弟で道長の同父母兄である道兼(961~995年)の子孫の宇都宮氏流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
や、道長の六男の藤原長家(1005~1064年)の子孫の(那須与一で知られる)那須氏流、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E6%B0%8F
北家の祖、藤原房前の五男である藤原魚名の二男である鷲取(?~784年)の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏<(注36)>や戦国大名として有名な伊達氏<(注37)>等、多数の有力武家を輩出した。また、魚名の五男である藤成の子孫の秀郷<(注38)>(藤成-豊澤-村雄-秀郷)からは奥州藤原氏や結城氏・大友氏・近藤氏等、多数の有力武家を輩出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D
なお、魚名の三男である鷲取の子孫の利仁(鷲取-藤嗣-高房-時長-利仁)は、「坂上田村麻呂・藤原保昌<(前出)>・源頼光とともに・・・平安時代・・・の伝説的な武人4人組の1人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%88%A9%E4%BB%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6
(注36)「1160年・・・の平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した・・・<安達>盛長<は、>・・・晩年の頃から安達の名字を名乗<ったところ、>・・・盛長以前の家系は系図によって異なり、はっきりしない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B0%8F
(注37)「出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%B0%8F
魚名(正二位・左大臣)-鷲取(従五位上、中務大輔)-藤嗣(従四位上、参議)-高房(正五位下、越前守)-山蔭(従三位、中納言)-?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E8%94%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%B7%B2%E5%8F%96
(注38)魚名-藤成(776~822年。従四位下・伊勢守)-豊沢(?~887年。従四位上・陸奥守。下野に定着)-村雄(従四位下・河内守・下野守)-秀郷(従四位下・鎮守府将軍)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90
「秀郷の子孫は・・・関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった<が、>・・・京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は<紀伊、近江、伊勢、信濃、陸奥(奥州藤原氏等)広範囲に分布した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7 前掲
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既にかなり触れてしまいましたが、復習も兼ねてより詳細に・・。
桓武平氏は、武家創出の「ステップ」を担ったところ、それは、以下のような形で担われました。↓
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[武家創出のステップ–桓武平氏]
〇桓武天皇
改めて説明するまでもなかろう。
〇葛原親王(かずらわらしんのう)(母は多治比長野の娘)、で、治部卿、大蔵卿、弾正尹、式部卿、兼太宰帥、弾正尹、式部卿、兼太宰帥、一品。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B
多治比氏は、欽明天皇の兄で先代の宣化天皇の男系子孫。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87
〇高見王・・平姓を賜った、また、無位無官であった、とされているが、実在が疑われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E7%8E%8B
〇平高望=藤原良方(注39)の娘(正)/藤原範世の娘(側)。?~?年
(注39)藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の子。「最終的には従五位上・大蔵大輔に終わっている。他の兄弟との比較では、・・・最も昇進が遅かった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9
「高望は、・・・898年・・・に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。
⇒武家候補として白羽の矢を立てられた高望王は、地方への土着を、時の宇多天皇、或いは「祖父」の葛原親王、あたりから、言い含められていた、と見たい。(太田)
そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。熊谷氏や鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、国香の子孫である直方の末裔と称している。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏<は>坂東八平氏<(注40)>と呼ばれる。
(注40)「桓武平氏の一族は、親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る親王の血族・下級貴族として活動し常陸平氏嫡流の大掾氏一門、越後平氏の城氏、上総介を世襲した上総氏、<下総>介を世襲した千葉氏、相模介を世襲した三浦氏、他に奥山氏、簗田氏、関氏、伊勢氏など、坂東のみならず全国で有力在庁官人となり、同時に武家として現地に勢力を持つ軍事貴族(武家貴族)<にな>った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9D%B1%E5%85%AB%E5%B9%B3%E6%B0%8F
系図を示しておく。
桓武天皇–葛原親王–
平高棟–惟範–時望–直材–親信–行義–範国–経方–知信–時信–時忠
–時子(清盛後妻)
–滋子(後白河女御・高倉母)
平高望–国香–貞盛–維将—————-維時–直方⇒熊谷氏や北条氏
–維衡⇒(伊勢平氏)–正度–正衡–正盛⇒(平家)–忠盛–清盛–徳子↓
–季衡⇒伊勢氏・後北条氏(高倉中宮・安徳母)
–維敏
–良兼
–良将–将門
–良文⇒(坂東八平氏)
–良正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%BB%8B%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E6%95%8F
[国香は前常陸大掾<(だいじょう)>の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大<した。>・・・
<高望は、>その後、・・・902年・・・に西海道の国司となり大宰府に居住、・・・同地で没する。なお、この間の・・・903年・・・には、昌泰の変により失脚した菅原道真<(後出)>も同地で薨去している。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B ]
⇒時の太政官の首班であった藤原時平が、ナンバーツーであった道真を失脚させて太宰員外帥に左遷した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%82%E5%B9%B3
のは、同地に藤原北家と縁が深い平高望がいて、高望に道真を監視させることができると考えたからではなかろうか。(太田)
国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
⇒高望が、その実在を疑われるような皇族の子であったこと、正室の父親が武勇とは無縁で藤原北家出身とはいえうだつの上がらない人物であったこと、三つの資料ごとに生年が異なること、四つの資料ごとに没年も異なること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
が示すように、生没年ともに不詳であること、が、桓武平氏のステータスに影を落とし続けた、と、私は見ている。(太田)
〇国香(母は藤原良方の娘)=源護(注41)の娘/藤原村雄の娘 ?~935年。
(注41)「素性は不明だが、一般的には一字名から武蔵権介の源宛(箕田宛)と同族の嵯峨源氏と推測されている。
常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐり度々争っていた。真樹はこの争いの調停を平将門に頼み将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を子・扶らが野本にて待ち伏せて襲撃したと<も>言われている。・・・
この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる。・・・
<もう一人の>娘婿の平良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。・・・936年・・・、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、・・・937年・・・4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって結局は全ての罪を赦されてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%AD%B7
ちなみに、「平良正<は、>・・・平高望あるいは平良持の子<だ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%AD%A3
国香は、「源護の娘を妻とし、[当時は婿が嫁の家に通うのが原則であ<るところ、>]前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継ぎ坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
舅である護の子扶に要撃された甥の平将門が、承平5年(935年)2月4日に反撃に出た際、居館の石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
〇貞盛(母は藤原村雄の娘)=関口貞信の娘 (?~989?年)
「935年)、京で左馬允在任中、従兄弟の将門と母方の叔父(源護)たちとの抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなる事件が起こる。それらを伝え聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し出し、また、山中に避難した母と妻らを探し出した。この際貞盛は、そもそも叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はなく、また、自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。父の死後まもなく、その後継の常陸大掾に任官された。
しかし、将門らの抗争に叔父の良兼、良正らが介入しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめた<ということ>もあり、良兼に説得されて、良兼や良正らが将門を攻める際にはこれに加って将門と対立することとなった。・・・<そして、>京の都に辿り着<き、>・・・将門追捕の官符を持って帰国し・・・940年・・・、母方の叔父の藤原秀郷<(前出)>の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、2月14日「北山の決戦」にて、ついにこれを討ち取った。将門討伐後の論功行賞では、・・・従五位上(正五位上とも)に叙せられた。
後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。・・・
長男の維叙は藤原済時の子で養子と伝えられており、当初の嫡流は次男維将の系統だった。次男維将の子の維時も祖父貞盛の養子となっている。・・・
四男維衡は伊勢氏、また後に平清盛を生み出す事になる伊勢平氏の祖である。・・・
伊勢氏の系統からは戦国時代に北条早雲を始めとする後北条氏を輩出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B
「平維将<は、>・・・北条氏の遠祖に当たる人物。・・・右衛門尉から左衛門尉に転じ、相模介となり、・・・肥後守に任じた。居宅は左京二条万里小路にあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E5%B0%86
というわけで、地方定住どころか、純粋都人帰りをしてしまった。
「<その弟の>平維敏<は、>・・・藤原実資の家人<となり>・・・、衛門尉を経て・・・肥前守と<なり、>任国で没し・・・<、最終官位は>従四位下」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E6%95%8F 前掲
というわけで、やはり、純粋都人帰りをしてしまった。
〇維衡(母は不明)(?~?年)=陸奥国住人長介娘、源満快娘
母親も不明、生没年不詳と来れば、一旦、桓武平氏の命運は尽きたと言ってもいいのかもしれない。
もちろん、彼も、純粋都人と言ってよかろう。↓
「官位は従四位上・下野守、伊勢守、上野介、常陸介。・・・伊勢平氏の祖となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E8%A1%A1
「<維衡の兄の>維将の孫である平直方の子孫は北条氏・熊谷氏と称している。また直方の娘が源頼義と結婚して源義家等を産み、後に足利将軍家となる足利氏や新田氏などを輩出しており河内源氏には女系を通じて維将の血筋が受け継がれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B 前掲
〇正度(まさのり)(?~?年)(母は陸奥国住人長介の娘。)=?
「従四位下・斎宮助、諸陵助、帯刀長、左衛門尉、常陸介、出羽守、越前守。・・・
父・維衡、あるいは兄弟の正輔らの後を継いで伊勢国において勢力を伸張させ、木造荘(三重県一志郡)などを領有する。・・・
伊勢に・・・維衡、正度らの活動によって確固たる勢力を築いた・・・また、<兄の>季衡の子孫は伊勢氏と称して室町時代には代々政所執事として幕政の中枢を担ったほか、その支流の備中伊勢氏から戦国大名北条早雲(伊勢盛時)を出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E5%BA%A6
⇒維衡よりも正度は最終官位が下・・ちなみに、祖父の貞盛の最終官位と同じ・・であり、このまま、貞盛流は歴史の表舞台から姿を消して行っても不思議ではなかったところ、都人であり続けるも、たまたま、伊勢に出先拠点ができたことが、後に子孫の隆盛をもたらすことになったわけだ。
但し、伊勢は、広義の京郊外でしかないので、地方に拠点(本格的拠点)を設けたとまでは言い難い。
すなわち、正度は依然として都人であると言えよう。(太田)
〇正衡(母は不明)(?~?年)=?
「官位は従四位下(一説には従五位下)、検非違使、右衛門尉、出羽守。・・・
父祖同様に伊勢国<で>・・・軍事行動<を行う一方、>・・・都で藤原師実に仕え、京周辺の警察活動にも従事する。・・・1079年・・・に起こった延暦寺の僧兵による強訴に際しては、源頼綱や兄・季衡らと共に出動し都の防衛に当たっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E8%A1%A1
⇒藤原師実(もろざね。1042~1101年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F
は、摂関ではあったけれど、既に院政期に入っていて、天皇家に権力奉還した後であったので、父の正度よりもより純粋都人度の高い摂関家家人として、彼がいかに活躍しようと、展望など開けるわけがなかった。(太田)
〇正盛(母は不明)(?~1121年?)=?
「白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、<まず、>北面武士<として、次いで、>・・・検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。・・・
隠岐守・・・若狭守・・・因幡守。・・・
反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年)丹後守、永久元年(1113年)備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明であり、この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて、疑問があった<が、追及されることはなかった。・・・
但馬守・・・丹後守・・・備前守・・・洛中強盗追捕・・・讃岐守・・・従四位下・・・
娘の平政子は平滋子の乳母で高倉天皇の女房であり、若狭局という名前で出仕していた。後白河天皇の晩年の寵妃である高階栄子の母であるとされる。他にも正盛の娘2人が大和、肥後という名前で出仕していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B
⇒正盛の賄賂に動かされた白河上皇、及び、清和源氏嫡流の伊勢平氏への接近とその清和源氏嫡流の謀反・乱暴・内紛による力の減衰(注42)により、伊勢平氏は没落を食い止めることができた、というわけだ。
(注42)「近年まで、義忠は兄弟の義親・義国の2人が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり流罪に処されていた為、義家の死後に急遽家督を継いだとされてきた。しかし近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきている。・・・
1106年・・・に父<義家>が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得なかった。また、義忠の兄・義親が西国で叛乱を起こし新興勢力で義忠には舅にあたる伊勢平氏の平正盛が討つという事態となり、河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。朝廷でも白河上皇が院政を行い、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる。明らかに河内源氏は衰退期を迎えた。
義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり、また妻の弟で正盛の嫡男の烏帽子親となって「忠」の一字を与え「平忠盛」と名乗らせるなど、親密な関係を築いた。そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。・・・しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。また、義家にくらべ武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする勢力も存在した。
⇒「新興の伊勢平氏」というより、武家としての格は、清和源氏>桓武平氏>藤原氏、である、という観念があった、ということだと私自身は考えている。(太田)
義忠の叔父の源義光は義忠の権勢が高まるのに不満を感じ、自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人で長男、源義業の妻の兄である鹿島三郎に義忠を襲わせた。・・・1109年・・・2月3日、義忠は三郎との斬りあいで重傷を負い、それが元で2日後に死去した。・・・
義忠の暗殺は当初、従弟で叔父(義光の兄)源義綱の子・源義明とその家人・藤原季方の犯行とされたため、義忠の甥(弟という説もある)・源為義は義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。しかしその後になって義光の犯行であったことがわかった。
これにより河内源氏は義忠・義綱という2人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸に逃亡。都には為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。
義家・義親・義忠・義綱と実力者を失い、河内源氏は源義光・源義国・源義時・源義隆を残すだけになった。義国は事件を起し関東の地で蟄居の身であり、また関東で常陸から勢力を広げる叔父義光と合戦に及ぶなど、義光との仲は険悪であった(義忠と義国は連合して叔父義光に対抗していたとする説もある)。そのため、河内源氏の勢力は関東でも徐々に衰え始める。義時は義忠から河内国の石川庄を与えられていたがその勢力は小さかった。義隆は無位無官で少年でもあった。よって義忠の死後は為義が河内源氏の棟梁となった。
しかし、為義も少年であったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BF%A0
「注42」に登場する為義のダメさかげんについては、次回のオフ会「講演」原稿に譲る。(太田)
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これについても既にかなり触れてしまっていますが、やはり、復習も兼ねてより詳細に・・。
清和源氏は、武家創出のジャンプを担ったところ、それは、以下のような手順で担われました。↓
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[武家創出のジャンプ–清和源氏]
〇総括
「経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立した。
その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F
⇒「藤原北家の摂関政治の確立に協力して」のくだりは、後出の摂関政治のところを読んでいただきたいが、ナンセンスだと思う。(太田)
〈範例〉-:親子 =:配偶者
〇清和天皇
説明は要しないだろう。
〇貞純親王(母は棟貞王(注43)の娘。父系は清和天皇の子で母系は桓武天皇の玄孫(やしゃご))=源能有(注44)の娘、で、「親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(注43)桓武天皇-葛井親王(ふじいしんのう。前出)-棟貞王(むねさだおう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E4%BA%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9F%E8%B2%9E%E7%8E%8B
(注44)845~897年。前出。「同じ文徳天皇の皇子である惟仁親王(清和天皇)の兄でありながら、生母の身分が低かった<(伴氏)>こともあり、皇嗣からは早い段階で除外されていたらしい。・・・<極めて有能で、>清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇<に仕えた。>・・・左兵衛督・左近衛中将・左衛門督・検非違使別当と武官も<経験している。>・・・最終官位は右大臣正三位左近衛大将兼東宮傅」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%83%BD%E6%9C%89
〇源経基(経基王。父系は清和天皇の孫/坂上田村麻呂の昆孫、で、母系は清和天皇の父の文徳天皇のひ孫)=橘繁古の娘または藤原敏有(注45)の娘
極官は鎮守府将軍。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
(注45)素姓・出自不詳。
http://blog.livedoor.jp/kazurahara-rot/archives/1053350243.html
但し、「経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がある。この出自論争は実証ができず決着はついていない。」(コラム#11193)
⇒清和源氏の祖は、(通説に拠ればだが、)父系も母系も天皇家で、しかも、坂上田村麻呂の血も混じっている! 武家の棟梁家のサラブレッド候補と言わずしてなんだろうか。(太田)
〇満仲(上掲の二人のどちらの子か不明)=藤原元方の娘または藤原致忠(むねただ)の娘
藤原南家の武智麻呂-巨勢麻呂-黒麻呂-春継-良尚-菅根-元方-致忠-(保輔(コラム#11245))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%87%B4%E5%BF%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E6%96%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%8F%85%E6%A0%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%B0%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%A5%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%BB%92%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%BA%BB%E5%91%82
「源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F
「藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。・・・
二度国司を務めた摂津に土着。摂津住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地[(現在の兵庫県川西市多田周辺)]に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。・・・多田源氏の祖で、多田満仲・・・とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2
「清和源氏における「多田源氏」が指す一族の解釈は必ずしも定まったものではなく、今日に至るまで以下のような用い方が流布している・・・。
1.多田庄を本拠とした源満仲を中心とする初期清和源氏全般を指して用いる場合。
2.満仲の嫡子として多田庄を継承した頼光の後裔「摂津源氏」と同義で用いる場合。
<3.>・・・上記摂津源氏の中でも特に多田庄を相続した系統のみを指<す場合。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%BA%90%E6%B0%8F ([]内も)
⇒(広義の京郊外ではあるものの、一応地方に拠点を持ったという意味での)武家たる清和源氏の祖の時点から、清和源氏は藤原氏嫡流と二人三脚的関係にあったわけだ。
なお、繰り返すが、「「藤原北家の摂関政治の確立に協力して」のくだりはナンセンスだと思う。(太田)
〇頼信(母が上掲の藤原元方と藤原致忠の二人のどちらの子か不明)。「河内国石川郡壺井を本拠地とする河内源氏の祖。 ・・・
兄・頼光と同じく、関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え、・・・従四位上、昇殿、鎮守府将軍、検非違使、常陸介、伊勢守、河内守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守、陸奥守、左馬権頭、冷泉院判官代、治部少輔、皇后宮亮、左兵衛尉、兵部丞。・・・河内に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。甲斐守在任時の・・・1031年・・・に平忠常<(注46)>の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。・・・
(注46)967/975~1031年。母は平将門次女。
平高望(高望王)-良文-忠頼-忠常
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%A0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%96%87
平直方<(注47)>と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている。
(注47)?~?年。「摂関家の家人・・・追討使・能登守・上野介・上総介・検非違使・左衛門少尉などを歴任した。」
平高望(高望王)-国香-貞盛-維将-維時-直方・・・
北条氏が平直方の子孫を称している。また・・・熊谷直実も直方の子孫を称している。」(前出)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9
この乱の後、坂東の武士は河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1
⇒そして、先行していた桓武平氏との垂直的提携も果たしたことになる。(太田)
〇頼義=平直方の娘(高望-国香-貞盛-維将-維時-直方)。988~1075年。
「弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼今昔物語集などにその武勇譚が記載される。頼関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として・・・推挙した・・・
1028年・・・6月、かつて父・頼信の家人であった平忠常が関東において反乱(平忠常の乱・長元の乱)を起こすと、・・・1030年・・・に朝廷より命じられて父とともに忠常討伐に出陣する。・・・頼義はこの反乱平定に際して抜群の勇決と才気を示す活躍をした・・・。・・・
相模守在任中、忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である平直方は、・・・頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した(ただし、直方も頼義も京都を根拠とする軍事貴族であることから、実際には忠常の乱以前に京都にて婚姻関係が成立していたとみられ、頼義の相模守就任を機に直方から鎌倉を譲られた可能性がある)。頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。・・・
1051年・・・、陸奥守・藤原登任が奥六郡を支配する安倍氏に玉造郡鬼切部で敗れた責により、陸奥守を更迭された。
登任の後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように安倍軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。・・・
当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた<(前九年合戦)>頼義ではあったが、・・・「公卿一歩手前」という・・・「四位上﨟」たる伊予守<への>昇進<という>・・・恩賞を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。・・・
伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して余生を過ごし・・・た。・・・晩年はこれまでの戦いで命を落とした敵味方の為に「耳納堂」という寺堂を建立し、「滅罪生善」に励んだという。その他、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)、大宮八幡宮(東京都杉並区)等を創建した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
⇒頼義が京から遠く離れた坂東にも本格的拠点を得、このあたりまでは、清和源氏は順風満帆であったと言えよう。(太田)
〇義家(平直方の娘の子)=藤原有綱の娘、源隆長の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6
⇒「<長男が若くして亡くなり、次男の>義親が西国で乱行を起こしたため、・・・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、<義忠に対し、義親の子であるところの、>孫の為義を次代の嫡子にするよう命じた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9
のだが、義忠を継嗣に定めたところまでは正解だったものの、同じ河内源氏で義家の弟の義光によってその義忠がすぐに殺されてしまう(上出)という不運が起こった上、為義にその次としての白羽の矢を立てたのが誤りであり、為義が、乱暴狼藉を繰り返し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9
清和源氏の嫡流たる河内源氏が挽回不可能な状態に陥るきっかけを作ってしまうことになる。(太田)
〇義親(源隆長の娘の子)=高階基実の娘(長屋王-桑田王-磯部王-石見王(高階真人)-峯緒-茂範-師尚-良臣-敏忠-業遠-業敏-基清-基実)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B0%8F
⇒繰り返すが、義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたわけだ。
〇為義(母は不明)=藤原忠清の娘(房前-房前-真楯-内麻呂-冬嗣-長良(北家本流)-基経(良房の養子)-忠平-師輔-兼家-道隆-隆家-経輔-師信-基信-景綱-忠清)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 前出
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E4%BF%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E8%BC%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%9A%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E8%BC%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%89%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6
〇義朝(藤原忠清の娘の子)=由良御前(前出)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D
⇒これも、次回のオフ会「講演」原稿マターだが、それまでに伏線があった(注48)ところ、保元の乱(1156年)の時に、為義・義朝父子が敵味方に分かれて戦い、子が親を殺す羽目になり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
河内源氏は著しく弱体化し、その間隙をついて、桓武平氏中の「傍系」の伊勢平氏の嫡流たる平家がのし上がることとなってしまう。(太田)
(注48)「源義賢<は、>・・・長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。・・・
義朝が、・・・1153年・・・に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす・・・。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる。
・・・1155年・・・8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥<(義朝の長男)>・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。・・・大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)となる。京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%B3%A2
⇒先取りで、坊門姫とその子孫のことにも触れておこう。(太田)↓
「義朝と由良御前の間の子である坊門姫は、彼女の「父義朝<が>平治の乱で討たれ、同母兄弟の頼朝・希義が流罪となったのち、・・・後藤実基<(注49)>に預けられ、都で密かに匿われて育てられた・・・。
(注49)「京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男・義平に従軍する。乱の後・・・義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。
1180年・・・に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子・基清と共にその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。またこの戦いの際、扇の的の射手に那須与一を推挙し、その人を見る眼の確かさを大いに賞賛されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%9F%E5%9F%BA
藤原北家魚名(左大臣)-鷲取-藤嗣-高房-時長-利仁(鎮守府将軍→利仁流藤原氏)-斎藤叙用-吉信-伊博(義父:源章経。民部少輔)-後藤公則([備後守→播磨後藤氏])-則経-則明-公広-実信-実遠-実基
http://iwarehiko.web.fc2.com/page095.html
すぐ上の系図に出てくる「則経・則明父子が源頼信・頼義・義家三代に仕えてより源家の譜代の臣。実基<とその養子の>基清二代が義朝.頼朝に仕えて鎌倉御家人となり、以降、鎌倉幕府の評定衆・引き付け衆などを歴任、室町幕臣も多く出した。<その子孫は、>後醍醐天皇に尽く<している。>」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_goto_k.html ([]内も)
同じ系図に出てくる源章経(後に改名して佐々木義経(のりつね)。1000~1058年)は、兵部丞にもなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E7%B5%8C
この源章経は、宇多源氏(後出)で武家の佐々木氏の租だ。。
宇多天皇-敦実親王(式部卿)-源雅信(まさざね。左大臣)-扶義(参議)-成頼(近衛中将)-章経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%89%B6%E7%BE%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E4%BF%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E5%AE%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B
<坊門姫は、>のちに・・・一条能保の妻となり、・・・九条良経室<、や、>・・・嫡男高能<、>を生んだ。この縁戚関係が、挙兵し東国の主になった兄弟頼朝の重要な都との接点となり、能保は都における鎌倉政権の出先機関として重用された。・・・1186年・・・2月、頼朝は坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推挙している(実際には娘の保子が出仕)。また、頼朝は坊門姫自身にもいくつかの地頭職を与えている。・・・坊門姫の死後、その娘が九条良経に嫁ぎ九条道家と順徳天皇中宮立子を産み、もう一人の娘が西園寺公経に嫁ぎ西園寺実氏と倫子を産む。坊門姫の孫に当たる九条道家と倫子が結婚し、その子供たちが五摂家のうち九条、一条、二条家を興す。また、道家と倫子の間に生まれた子の中に藤原頼経がいる。
頼朝の死後、鎌倉幕府で源氏の将軍が断絶すると、頼朝の姉妹である坊門姫の血筋であることによって、曾孫の藤原頼経が4代将軍に迎えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%A7%AB_(%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D%E5%AE%A4)
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参考までに、藤原氏、桓武平氏、清和源氏、以外の諸氏による武家の創出にも触れておきましょう。↓
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[武家を創出したその他の諸氏]
〇嵯峨源氏
嵯峨天皇-源融-昇-是茂(光孝天皇の養子)-箕田仕(つこう。従五位上、武蔵守(同地に土着)、修理大夫)-箕田宛(武士。武蔵権介)-渡邊綱(摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子(母方の里の摂津渡邊に土着)。正五位下、丹後守。摂津源氏の源頼光の四天王筆頭)
|-久-正———伝(白河院より皇室領である大江御厨の惣官職)→渡邊党(瀬戸内海の水軍の棟梁|的存在)
|-授-瀧口泰-松浦久(従五位、検非違使)→松浦党
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/mitagenzi.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%98%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%98%AF%E8%8C%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E6%BA%90%E6%B0%8F
-是茂-〇-貞清-▽-末行-満末(従五位下、肥前国の皇室直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)の荘官(荘園管理官へ))-貞宗-蒲池久直(貞宗の弟?。蒲池の地頭)→蒲池氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%98%AF%E8%8C%82 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E6%9C%AB
〇宇多源氏
宇多天皇-敦実親王-源雅信-〇-〇-佐々木義経⇒加地氏、野木氏、出雲源氏、吉田氏、大原氏、高島氏、八角氏、京極氏
末裔とされる主な人物・・・尼子経久 山中幸盛 黒田孝高 佐々成政 木村重成 今井宗久 角倉了以 佐々木小次郎 曲直瀬道三 杉田玄白 間宮林蔵 大山巌 前原一誠 佐々木蔵之助 乃木希典 亀井久興
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B0%8F
〇橘氏
「橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。・・・
橘諸兄が・・・757年・・・正月に薨御すると、その子・橘奈良麻呂は藤原仲麻呂との政権争いに敗れ、同年7月に謀叛の疑いをかけられて獄死した(橘奈良麻呂の乱)。・・・
その後しばらく橘氏は議政官(公卿)に名を連ねることはなかったが、奈良麻呂孫の橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇皇后となると、状況は一変した。・・・
<しかし、>983年)に参議在任3日で薨去した恒平を最後として、橘氏公卿は絶えた。・・・
以降、橘氏は受領クラスの中下流貴族となり、中には地方に土着する者も現れた。例えば藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州へ下向した参議橘公頼の・・・三男・・・敏通<は、>・・・筑後国蒲池の領主となる(筑後橘氏)。・・・
[治承・寿永の乱(源平合戦)の功で幕府の西国御家人となり筑後国三潴郡の地頭職となった嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が橘氏の娘婿となり蒲池氏の初代となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F_(%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%9B%BD) ]
楠木正成<は>、建武2年(1335年)8月25日の『法華経』奥書(湊川神社宝物)で橘朝臣正成を称している。また『橘氏系図』も正成を橘氏として扱っている。しかし、歴史的事実としては出自不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F
⇒源平藤橘とは言っても、れっきとした「橘」氏の武家は蒲池氏くらいで、しかも、その実態は嵯峨源氏なので、本来は、清和源氏・平氏・藤原氏・宇多源氏、と称せられるべきだった。(太田)
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ここで、武家関連諸機関についても、参考資料として紹介しておきます。↓
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[武家関連諸機関]
〇健児/兵馬司
「兵馬司は、全国の牧、軍馬、公私における牛・馬の管理(近い性格の機関である馬寮は、主に朝廷での飼養を職掌としていた)、駅伝制などをつかさどった。
大同3年(808年)に廃止され、その職務は左・右馬寮に組み込まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%A6%AC%E5%8F%B8
「健児制<は、>・・・まず,三関国,辺要地に現れ,体制的には,762年(天平宝字6)の制や,792年(延暦11)の制を画期として確立した。792年では,軍団制の廃止にともない,従来の兵士に代わって,国別に員数を定めて計3155人の健児が選抜,配置された。総数は3000~4000。延暦以前の健児は,おもに郡司子弟の弓馬に練達した者から選抜し,田租と雑徭の半分が免除されるなどの特典が与えられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%81%A5%E5%85%90-67422 (コラム#11464)
⇒「792年(延暦11)の制」は、復活天智朝の桓武天皇(737~806年。天皇:781~806年)の所産だが、「762年(天平宝字6)の制」は、天武朝の淳仁天皇(733~765年。天皇:758~764年)の所産。
しかし、淳仁天皇は、「756年に没した聖武天皇の遺言によって[天武天皇の皇子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E9%83%A8%E8%A6%AA%E7%8E%8B
]<の>新田部親王の子の道祖王<(ふなどおう)>が立太子したが、・・・757年4月・・・に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後・・・、[藤原不比等・・・の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉<で、孝謙天皇の母であるところ、>皇族以外から立后する先例を開いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E ]
光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。
大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。
また、<父親の>舎人親王[・・天武天皇の皇子・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E7%8E%8B ]
の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であったとする指摘もある。
・・・758年・・・に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、・・・755年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたるが、仲麻呂が新羅討伐を強行しようとしこれを許可する(ただし後の称徳天皇=孝謙上皇により実現しなかった)。また・・・760年・・・、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。・・・
762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。・・・
764年)9月、上皇との対立を契機に恵美押勝<(藤原仲麻呂)>の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。・・・
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後・・・、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、・・・上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、・・・765年・・・2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒藤原仲麻呂は、不比等の長男で藤原南家の祖の、藤原武智麻呂(680~737年)の子であり、私見では、(天武朝下では潜在化していたところの、)聖徳太子コンセンサス実現の布石を密かに打ち続けていた、藤原四兄弟、とりわけ氏上たる父親、の薫陶を受けて、彼が打った諸布石中、健児なる弓馬武者の創出は、「成功」に終わり、「遺産」として復活天智朝に残すことができた唯一最大の業績・・同時に、彼の業績中の最後のもの・・ではなかろうか。
(軍団には、本来、騎馬武者的な者は存在せず、かつまた、兵馬司を設けたのも、健児創出がらみの、仲麻呂の業績である、と、私は見ている。)(太田)
〇滝口武者
「滝口武者(たきぐちのむしゃ)は、9世紀末頃から蔵人所<(注50)>の下で内裏の警護にあたっていた武士。滝口の武士ともいう。
(注50)「蔵人所には別当,蔵人頭,蔵人,非蔵人,雑色(ぞうしき),所衆,出納,小舎人(こどねり),滝口,鷹飼等の職員が置かれた。別当(1名)は蔵人所の総裁である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BB%9D%E5%8F%A3-92862
9世紀、内裏の警護にあたっていたのは近衛府だったが、桓武天皇の子である平城天皇(上皇)と嵯峨天皇兄弟の対立による薬子の変を契機に、新たに設置された蔵人所が、9世紀末、宇多天皇の寛平年中(889年 – 897年)から管轄するようになる。
その蔵人所の元で、天皇の在所・清涼殿の殿上の間には官位四位・五位の殿上人が交代で宿直する。 一方、庭を警護する兵士は清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる御溝水(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直し[宮中の警衛にあたるほか,天皇の乗船に供奉し,また諸種の雑役にあたった]たことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になる。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」などと呼ばれる。
なお、蔵人所は律令制では定められていなかった役職(令外官)のため、滝口それ自体も官職ではない。平安時代10世紀の京では兵仗(武器)特に弓箭(弓矢)を帯びることは正規の武官以外には許されていなかったが、『日本略記』によると・・・977年・・・11月9日に「滝口の武者」が弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されている。これによって「滝口の武者」は朝廷が公式に認める「武士」となり、それを勤めて実績を積み、六位程度の六衛府の武官を目指すのが平安時代後期の武士の姿だった。
滝口の任命は、天皇即位のときに摂関家や公家らが[源平重代の・・・五位,六位の]家人(侍)の中から射芸に長じた者を推挙[、試験<を経て>採用し、月始めに提出する昼夜の出勤日数を記入した月奏(げっそう)によって勤務を評定]する。平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となり、滝口小二郎と名乗っていた。定員は当初の宇多天皇の頃で10名、・・・985年・・・に藤原実資が藤原貞正含めた5人を推挙し在来の10名から5名増員・・・、白河天皇の頃には30名ほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E8%80%85
https://kotobank.jp/word/%E6%BB%9D%E5%8F%A3-92862 前掲([]内)
「出自についてみると、当初の予側通り奈良時代以来の軍事貴族ないし平安初期以来顕著な活動をみせる軍事官僚の氏に属し、弓馬・相撲等の武芸に長じた職能人としての「武士」の多いことが明らかとなった。職務についてみると、かれらが「武士」であるにもかかわらず物理的な武力の行使を期待されていた形跡のみえないことが注目された。すなわち、当該期の滝口に要請されたのは物理的な武力による内裏警固でも天皇の護身でもなかったことになる。これは当時の天皇が暗殺やクーデターから超越した存在であったことを反映したものとみられ、滝口に課せられたのは、天皇を見えざるモノノケ・邪気・ケガレから守護するという役割、すなわち鳴弦に象徴されるような「辟邪の武」という呪的威力にあったということになる。」(野口実(注51))
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-04610210/
(注51)みのる(1951年~)。青学(史学)卒、同大博士(文学)、教諭、学芸員等を経て鹿児島経済大助教授、教授、聖徳大、京都女子大教授。日本中世政治史・社会史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E5%AE%9F
「日本が律令制で中国風の兵制を継受(つまりは模倣)して「およそ私の家においては、軍用の鼓・鉦(かね)・弩・鉾・騎兵の防具、竹木や皮の角笛・銅製の角笛および戦の旗を所持していてはいけない。ただし楽器としての鼓は例外とする(凡私家、不得有、鼓・鉦・弩・鉾・具装・大角・小角及軍幡、唯楽皷不在禁限)」と定めた時、二番目に名前が出されて私有禁止が記される弩は、まだ国内にまったく普及していなかったので、自動的に国家が独占する兵器となったのである。
なお、剣と弓は普通に誰もが持っていたので、律令制では禁止されなかった。当時の日本に、既存の民間兵器を禁止して、それを没収する力はなかったのである。・・・
<話変わって、>まだ20歳前後の将門が、下総国豊田の地(茨城県)に帰郷<した時のことだ>、「将門の亡父が管理していた<所領>所を相続するのは危険だ」と将門の遺領相続に反対するおじたちと、その敵対勢力がいがみ合った。将門も、亡父の遺領はおじさんたちではなく、自分が管理すべきだと唱えて、後者の陣営とともに立った。・・・
少年時代の将門は、天皇のお膝元で・・・ちゃんとした礼の思想を持った戦闘員を・・・育成して、六位以上の「士」である武人すなわち「武士」を<造成しよ>うとし<て>・・・創設された「滝口武士」の一員だった。礼節や順法の意識はとても高い。力と名がルールの地方豪族にすれば、鼻につくところもあっただろう。
そこで将門に、地方には地方の礼儀と法律があるのを教えてやろうとばかりに、おじたちの一味である坂東嵯峨源氏の有力武夫・源護らが仲間たちを集めて、将門を脅迫しようとした。・・・<これは、>相手の撃滅が目的ではなく、昭和の番長が不良を集めて勝負するような感覚で行われた。武夫たちは後世のサムライと違って一所懸命(小さな土地でも命がけで奪い、守ろうとすること)でも何でもない。
かれらが「旗を靡かせ、鉦を打っていた」ことが史料に記されている。・・・
滝口武士出身の将門にすれば、絶対に許せない所業だろう。だが、もしかれらと事を交えたら、自分自身のおじたちと抗争することになる。将門の愛妻は、おじの娘でもあった。・・・
だが、・・・将門は手勢とともに弓矢を構えて、敵軍を次々と射殺しはじめた。敵軍は、まさかの反撃に驚き慌てた。脅迫すればいいと高を括り、戦闘するつもりなど微塵もなかったのだ。このため、将門は一方的に圧勝した。・・・
その後、不幸にも将門は朝廷から見放されて、関東の住民たちと決起する。新皇を名乗り、朝廷から追討対象とされてしまうのだ。
将門を討ったのは、中央の武官ではなく、関東現地の武夫たちだった。朝廷は、「将門を倒した者を貴族にする」と宣言していたので、かれらは貴族になった。・・・
将門追討で、恩賞にありついた軍事貴族とその部下たちは、それまでの群盗ぶりなど忘れたかのように、「われわれは悪い王をやっつけた正義の武人である」と胸を張り、その子孫たちも戦場で「我こそはあの将門を倒した○○さまより数えて何代目の某でござる」と名乗りを挙げて、その出自を誇っていく。
こうして武夫(在野の武人)は、武士(王属の武人)になったのである。「滝口武士」などは当初の予定通りにいかなかったが、ある意味ではその志を、新たな武士たちが継承した。・・・
このように私兵だった者たちが、突然、王朝軍になったことで、もともと一部の役人だけが管理していたクロスボウは余計に使われなくなった。だから「武士」のメインウェポンは、民間で許されていた刀剣と弓矢になっていったのだ。古代日本の法律が忘れられるまで、槍や鉾の類である長柄の武器および馬鎧は、武士たちに顧みられなかったし、日本に<支那>風の旗が定着しなかったのもこのためだとわたしは思う。」(乃至政彦(注52))(コラム#11413で一部、既引用)
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0716/jbp_200716_0443145313.html ←URL変化
(注52)ないしまさひこ(1974年~)。著書はたくさんあるが、経歴が全く不明。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E8%87%B3%E6%94%BF%E5%BD%A6
⇒私は、滝口武士は「辟邪の武」でもなければ、「武士造成」機関でもなく、天皇の儀仗兵であった、という認識なのだが、その点は置いて、乃至の将門論はもっともらしいと思う。(太田)
〇武者所
むしゃどころ。「院御所の警固,院御幸の供奉などを任務とした・・・武士の詰所(つめしょ)、またその武士。・・・
985年・・・円融院が武者所10人に弓箭を帯せしめたことをはじめとする。院庁始とともに院蔵人所,院御随身所,院武者所の設置が行われる例で,その員数は10余人から30人ほどであった。天皇在位のときの滝口をあてることが多かった。令制の本官をもたぬ者も多く,1093年・・・白河上皇の春日社御幸に供奉した武者所のばあいは,30人中,有官者は9人のみであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E8%80%85%E6%89%80-140466
⇒院政になる前の上皇の護衛兵が武者所であった、と、私は見ている。(太田)
〇大内守護
おおうちしゅご。「平安中期~鎌倉前期,大内(大内裏中の内裏)警衛を管轄する職称。起源は明瞭でないが,《尊卑分脈》に源頼光を〈大内守護〉とするのが初例。以来頼光の子孫の世襲になったと思われ,平安末期源頼政の在職が確認される。ついで木曾義仲の在京中には,頼政の子頼兼が大内裏の守護にあたった。鎌倉幕府成立以後も頼兼の大内守護は継続されたが,1188年・・・頼兼は,自己の兵力のみでは任に耐えぬと幕府・朝廷に訴え,北陸の御家人が添えられた。・・・
承久の乱の際,大内守護であった頼政の孫頼茂が院の軍勢に襲われて自殺。以後大内守護の名は見えず,廃絶したと考えられている。」(コラム#11506(未公開))
⇒他方、天皇の護衛兵が大内守護であった、と、私は見ている。(太田)
〇北面の武士
「北面とは,<院司の一つで、>院の御所の北面を詰所として上皇の側近に仕え,身辺の警衛あるいは御幸に供奉(ぐぶ)した地下(じげ)の廷臣,衛府の官人らをい<い、>白河院のとき<の>・・・1095年・・・にはじまる。・・・
はじめのうちは〈御寵童〉なども含んでいた。
員数は不定。四〜六位の者が任命され<た。>・・・
諸大夫以上を上(しよう)北面,五,六位の譜代の侍を下(げ)北面と呼ぶ。下北面は白河院死去のときに合わせて80余人に及<び>,[軍事貴族も包摂するようにな<っ>・・・た。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラスであ<った。>]・・・
院が自己の武力を必要としたのは,父の意に反して皇位継承から排除した輔仁親王をめぐる勢力への警戒心や,延暦寺,興福寺等武力を背景にはなはだしくなった嗷訴の防御もその理由とされる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB-132782
「創設の時期は、・・・関白・藤原師通が急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(1099年〜1104年)と推測される。・・・
従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E6%AD%A6%E5%A3%AB
ちなみに、「<頼朝の母の>由良御前<が生まれた、当時の>・・・熱田大宮司家<(父の藤原季範)>は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている。
久安年間頃に源義朝と結婚したと推測され、義朝との間に頼朝、希義、坊門姫をもうける(義門も彼女所生ではないかとの説もある)。・・・
<ちなみに、由良御前の母は、>源行遠<(注53)>の娘<だ。>・・・
(注53)河内源氏頼任流。源経基-満仲-頼信-頼義-義家-義親-為義-義賢-義仲
-義朝-頼朝
-義国-義康(正室が由良の兄範忠の娘)
⇒足利氏/新田氏
-頼任-師行-行遠(由良の母の父)
-頼光-頼国-頼綱-仲政-頼政-仲綱
https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E9%81%A0
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/seiwa_genji/genji_seiwa2.html
保元元年(1156年)に起きた保元の乱においては由良御前の実家熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護した・・・。また、頼朝は・・・1158年・・・、熱田大宮司家と縁の深い統子内親王の立后にあたり皇后に仕える「皇后宮少進」に任命され、・・・1159年・・・2月に統子内親王が女院号宣下されると頼朝はその蔵人に任命された。
同年3月1日、由良御前は死去した・・・。平治の乱の9ヶ月前のことであった。
平治の乱では由良の兄弟である藤原範忠は義朝敗死後に甥の希義を捕らえて朝廷に差し出している。一方、弟の祐範は頼朝の伊豆国配流の際に郎従を1人派遣し、その後も毎月使者を送っている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%BE%A1%E5%89%8D
⇒次のオフ会「講演」原稿で改めて取り上げるが、北面の武士は、武家全体の棟梁のインキュベーターたることを期して、治天の君となった白河上皇によって設置された、というのが私の見方だ。(太田)
〇参考:西面の武士
さいめんのぶし。「院司の一つで,中世,院の御所の西面に伺候して・・・院中の警衛,盗賊の追捕(ついぶ)などを行った・・・武士。略して西面ともいう。武勇を好んだ後鳥羽上皇は,白河上皇のとき設けられた〈北面の武士〉に加え,新たに・・・武勇にすぐれた畿内近国の武士や,在京御家人のなかから<の他、>・・・幕府が推薦した関東武士の子弟・・・を召し出して西面の武士を創設,上皇直属の武力を強化した。創設の時期は明らかでないが,1205年・・・以前らしい。以後,諸記録類に西面の活動として,新日吉社小五月会における流鏑馬勤仕,院中での蹴鞠奉仕,御幸の供奉等が見えている。・・・
これら西面の武士は承久の乱の際,院側の有力な武力となったが,院側の敗北によって廃止された。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB-68271
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次に、武家創出の地方環境についても、説明をしておきましょう。↓
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[武家創出の地方環境–荘園と国司]
〇荘園
荘園出現より前の時期についての従来の通説は次の通り。↓
「班田収授法の成立については、かつては大化改新のときと考えられていたが、近時は、675年(天武天皇4)以降、実際には浄御原令<(注54)>(689年施行)において制定されたという見解が有力である。というのは、この法が実施されるためには公地公民制が確立していなければならず、その公地公民制は675年の部曲(かきべ)(一種の私有民)廃止によって初めて実現したと考えられるからである。・・・
(注54)日本の律令群には規範性がなかったとの私の見解については、コラム#11534、11536(未公開)参照。
班田収授法の実施された期間は200年以上に及び、10世紀初めの延喜年間(901~923)に至って廃絶した。[902年(延喜2年)、醍醐天皇により班田が行われたが、実質的にこれが最後の班田となった。]この間、班田収授法の施行には消長があり、制定以後、平安時代初頭まではほぼ規定どおり行われたこと、800年(延暦19)の班田を最後として全国一斉の班田は実施できなくなり、以後は律令制支配の衰退に伴って班田の施行はしだいに遅延し、ついにまったく行われなくなっていったことが明らかにされている。」(村山光一)
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95-118434
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95 ([]内)
しかし、新説が唱えられている。(より詳しくは、現在進行形の「大津透『律令国家と隋唐文明』を読む」シリーズの該当部分を参照のこと。)↓
「班田収授は唐の均田制を参考にしたものであるが、その手本となった唐が780年に両税法を施行し既に均田制が崩壊しており、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。そもそも、均田制や租庸調は粟を主食・徴税対象としていた華北・中原(旧北朝地域)の支配に則した制度であり、稲を主食・徴税対象としていた華中・華南(旧南朝地域)では完全に実施されていなかった可能性もあり、日本の班田収授法は牛が耕作に広く導入されていた華中・華南の水田耕作規模と比較しても過大であったとする指摘もある。また、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている。」(上掲)
「まず、大化以前の支配体制とされる私地私民制について、屯倉が王権を支える経営拠点であるように、田荘もまた豪族の政治的地位を支える農業経営拠点であると解される。屯倉と田荘は、天皇や豪族らの経営拠点であって、必ずしも天皇や豪族らの私有地を意味するものではなかったのである。
また、豪族による田荘・部曲の支配は、改新の詔で禁止されたはずだったが、その後も朝廷が田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見される。つまり、土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかったことを表す。これは、公地公民の原則が、当時の社会へ強力に貫徹していた訳ではなく、あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。
さらに、従来、公地と考えられてきた口分田は、律令施行の当時、実際のところ、私田・私地と認識されていた。公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。すなわち、奈良時代当時、三世一身法や墾田永年私財法の施行によって、公地公民制や律令制に大きな破綻が訪れるという意識は存在していなかった。そもそも当時、公地公民制という概念が存在していなかった可能性が高く、また三世一身法・墾田永年私財法は、むしろ律令制を補強することを目的として制定されたのである。
上記のように、公地公民制が律令制の根幹をなすという従来の通説は、大きく見直されつつある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%9C%B0%E5%85%AC%E6%B0%91%E5%88%B6
⇒上掲ウィキペディアの筆者は、「吉村武彦<(注55)>「いわゆる公地公民制は存在したか」『古代史の新展開』新人物往来社、2005年」(上掲)に依拠したようであるところ、ネット上で直接、この本の内容にあたることができなかったが、この筆者のまとめが的確であるという前提で言えば、吉村説は、全般的には説得力があると思う。
(注55)1945年~。東大文(国史)卒、同大博士課程中退、東大助手を経て千葉大講師、助教授、教授、明大教授、東大博士(文学)、明大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%BD%A6
この吉村説を、私流に敷衍、言い換えを行えば、日本は、少なくとも645年の乙巳の変より前から「輸」「入」を伴う荘園制だったのであり、荘園制は、荘園群を天皇家や諸豪族がエージェンシー関係の重層構造的「所有」する制度であったところ、律令制/班田収授/公地公民は実態を伴わない理念として天武朝が掲げたフィクションに他ならない、といったところか。(太田)
で、次は、狭義の荘園の歴史だ。↓
「11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進する動きが見られ始める。特に畿内では、有力寺社へ田地を寄進する動きが活発となった。いずれも租税免除を目的とした動きであり、不輸権だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現した。こうした権利の広がりによって、土地や民衆の私的支配が開始されていく。
⇒11世紀には、新規に開発された田畑からなる荘園群を中心に不輸不入権(注56)を伴う寄進を天皇家や摂関家や有力寺社に行う慣行が発生した、というわけだ。(太田)
(注56)「上級の官庁から下級の官庁へと下す文書を「符」と称したが、荘園の寄進を受けて本家や領家となった大貴族(権門勢家)・大寺社などの荘園領主はみずからの政治権力を行使し、太政官の発する太政官符や太政官の指令に基づいて民部省が発する民部省符によって、租税の徴収権を国家より公認されて、その免田(荘田)の年貢や公事を自己の収入とし、国家に対しては租税の一部またはすべてが免除された。このような荘園を「官省符荘」と称する。
不輸の権は官省符荘をもって成立したが、のちに地方における国司の権限が強大となると、しばしば自分自身や、縁故のある貴族・寺社に対し、国司による認可(国司免判)が認められるようになった。このような荘園を「国司免判の荘」略して「国免荘」と称した。ただし、国免荘で不輸の権が保障されるのは国司の任期中に限られていた。国免荘における不輸の権は、国司辞任後の生活にそなえたものであり、多くは任期の末期に生じたが、次期の国司によって収公されることが多かった。
荘園内での開発が進展するにともない、不輸の範囲や対象をめぐる開発領主と国司の対立がはげしくなると、荘園領主の権威を利用して国司の使者の立ち入りを認めない不入の権を得る荘園が増えた。そして、両特権の拡大によって、荘園における土地・人民の私的支配はいっそう強まり、荘園を整理しようとする国司と荘園領主とのあいだでも対立が深まった。
こうして、紛争は日本各地で多発したが、地方豪族や有力農民のなかには自らの勢力を維持・拡大するため、また、農民の反抗を防止して土地・人民を確保するために武装する者が少なくなかった。また、紛争鎮圧のために政府から押領使や追捕使として派遣された中級・下級の貴族のなかにも武士として現地に留まる者があらわれ、やがて軍事的ネットワークが各地に形成されていくのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E8%BC%B8%E3%81%AE%E6%A8%A9_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
・・・開発領主は中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)と称した。さらに領家から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ほんけ)といった。本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ほんじょ)と呼んだ。このように、寄進により重層的な所有関係を伴う荘園を寄進地系荘園といい、領域的な広がりを持っていた。
開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となって、地方行政へ進出するとともに、本所から下司・公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利の確保に努めた。開発領主の中には、地方へ国司として下向して土着した下級貴族も多くいた。特に東国では武士身分の下級貴族が多数、開発領主として土着化し、所領の争いを武力により解決することも少なくなかったが、次第に武士団を形成して結束を固めていき、鎌倉幕府樹立の土台を築いていった。
⇒実際には、武家創出のために、武家の坂東への開発領主化を含む定着化が、桓武天皇構想に従って、政策的に推進されたわけだ。(太田)
寄進により荘園は非常に増えたが、田地の約50%は公領(国衙領)として残存した。<(注57)>
(注57)「荘園がもっとも盛んに立荘された時期は、12世紀中葉以降の鳥羽・後白河院政期であり、更にその大規模荘園の乱立が完了した13世紀においてさえも、荘園領と国衙領は地方により相違はあるものの、平均すれば6対4とほぼ半々であることが明らかになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6 前掲
11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本の柱によっていた。すなわち公的負担が荘園という権門勢家の家政機関からの出費によっても担われたため、この支配形態を荘園公領制というべき体制であったとする網野善彦の説が現在一般的認識となっている。・・・
更に院政の確立によって・・・院(上皇・法皇)に対する開発領主からの寄進が相次ぐようになる。・・・
寄進地系荘園は、・・・11世紀後半から全国各地へ本格的に広まってゆき、平安時代末期にあたる12世紀中葉から後期にかけて最盛期を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
「平氏政権に対抗して、関東に独自の支配権を確立した源頼朝の武士政権(後の鎌倉幕府)は、傘下の武士(すなわち御家人)を地頭<(注58)>に任命することで、自らの支配権を強めていった。・・・
(注58)「地頭<とは、>・・・現地で領地を支配する有力者、又は荘園を現地管理する下司・惣公文などの荘官職、公領を現地管理する郡司、郷司、保司の在庁官人各職を表<してい>た。」
<具体的には、>地頭職への補任という手段を通じて・・・幕府が御家人の所領支配を保証する・・・本領安堵(ほんりょうあんど)と・・・幕府が新たに所領を与える・・・新恩給与(しんおんきゅうよ)・・・を・・・行<っ>た<のである。>・・・
御家人の多くは、荘園の荘官、公領の郡司、郷司、保司であり、荘園領主(本所)や国司(特にその筆頭官としての受領)の家人・被官としての地位しか与えられていなかったが、関東を実効支配していた頼朝政権に地頭職を補任されることにより、在地領主としての地位を認められたのである。
ところで頼朝政権は当初、関東の私的な政治・軍事勢力に過ぎなかったが、平氏政権との内戦(治承・寿永の乱)を経るに従い、後白河法皇を中心とする公権力(朝廷)から徐々に東国支配権を認められ、政権の正統性を獲得していった。・・・
頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、<その結果、>地頭の設置範囲は<縮小され、当面、>平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定され<ることとなっ>た。・・・
⇒本所であったところの、天皇家の人々、藤原氏等の貴族達、寺社の首脳達、と言っても、桓武天皇構想など全く預かり知らない人々が大部分であったろうから、彼らの間から強い反発が出ない方が不思議だった。(太田)
しかし、・・・平氏滅亡後の・・・1185年・・・10月、源義経・源行家が鎌倉に対して挙兵すると、11月に・・・義経・行家の追討を目的として諸国に「守護<(注59)>地頭」を設置することが勅許された(文治の勅許)。
(注59)「平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。・・・<1186年まで>の時期の<頼朝が私的に任命し始め、後に頼朝の申請に基づき法皇が公的に任命するようになったところの、>守護・・惣追捕使(そうついぶし)とも呼ばれ<た>・・は戦時や緊急時における臨時の軍事指揮官で、平時に戻れば停止されるのが当然という認識があったと推察される。頼朝の諸国守護権が公式に認められた1191年・・・3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、畿内以西の地域では後鳥羽上皇を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。・・・
その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年・・・に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三箇条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7
⇒義経の謀反は、後白河法皇と源頼朝が密かに連携して行った陰謀の結果であり、その目的は、「無知」な本所達の反対を押し切って、全国の荘園に、地頭、そして各国に守護、を任ずる体制を構築するためだった、と見るべきではなかろうか。
このように、守護・地頭の設置でもって、天皇家、具体的には、そのうちの権力の担い手たる治天の君(上皇/法皇)の権力を武家の総棟梁に委譲して行く方式を考案したのが誰だかまでは私には分からないが、それが頼朝であったとは全く思わない。
恐らくは、道長・能信父子あたりではなかろうか。(後出)(太田)
鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は寿永二年十月宣旨<(注60)>と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
(注60)「1183年・・・10月に朝廷から源頼朝に下された宣旨。・・・<一>東国における荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙へ回復させることを命じる <二>その回復を実現するため源頼朝の東国行政権を承認する・・・という2つの内容から構成されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8
「<そして>、後白河法皇が・・・1192年・・・に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。・・・
⇒後白河と頼朝との共同事業であることを隠すために、世間には、それは頼朝がごり押しをしたのに対して後白河が抵抗しつつも後退を重ねた結果である、と思わせていたのだろう。(太田)
所領を巡る紛争(所務沙汰)の際には、幕府の保証する地頭の地位だけでは必ずしも十分ではない場合もあり、地頭の中には荘園領主・国司から荘官、郡司、郷司、保司として任命される者も少なくなかった。逆に、近衛家家司であった惟宗忠久<・・島津家の祖・・>が、頼朝の推薦を受け島津荘の下司職に就任(・・・1185年・・・8月17日)した後、同地の惣地頭に任じられた例もある。・・・
大江広元や一条能保、惟宗忠久など<のように、>京都出身の官人や家司経験者が戦功とは無関係にその事務能力によって地頭に補任された例も見られる。・・・
つまり地頭は、幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていたと見ることもできる訳である。実際に、幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあった。むしろ、幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD 前掲
「1221年の承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷が幕府に敗れる事態となり、上皇方についた貴族・武士の所領はすべて没収された。これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)。これにより東国武士が多数、畿内・西国へ移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった。
⇒第一次弥生モードの時代史を今後のオフ会「講演」原稿で取り上げた際に記すべきことだが、後鳥羽上皇は、北条氏による将軍職の形骸化を正そうと承久の乱を起こしたのであり、別段、「幕府の勢力が広く全国に及ぶこと」に反対だったわけではあるまい。
但し、承久の乱で上皇方が敗れた結果、「全国に及ぶ」時期が前倒しされることとなった、というわけだ。(太田)
地頭たちは荘園・公領において、勧農の実施などを通じて自らの支配を拡大していったため、荘園領主との紛争が多く発生した。荘園領主はこうした事案(所務沙汰)について幕府へ訴訟を起こしたが、意外にも領主側が勝訴し、地頭側が敗訴する事案が多くあった(幕府の訴訟制度が公平性を確保していたことを表している)。しかし、地頭は紛争を武力で解決しようとする傾向が強く、訴訟結果が実効を伴わないことも多かったため、荘園領主はやむを得ず、一定額の年貢納入を請け負わせる代わりに荘園の管理を委ねる地頭請(じとううけ)を行うことがあった。こうした荘園を地頭請所という。地頭請は、収穫量の出来・不出来に関わらず毎年一定量の年貢を納入することとされていたため、地頭側の負担も決して少なくなかった。
別の紛争解決として、下地中分(したじちゅうぶん)があった。これは、土地(下地)を折半(中分)するもので、両者の交渉(和与)で中分する和与中分と荘園領主の申し立てにより幕府が裁定する中分とがあった。
このような経緯を経て、次第に地頭が荘園・公領への支配を強めていくこととなった。当時の荘園・公領で現地での生産活動の中心だったのが、上層農民の名主(みょうしゅ)である。名主は領主・地頭から名田の耕作を請け負いながら、屋敷を構え、下人や所従などの下層農民を支配し、屋敷近くに佃(つくだ。御作や正作とも称する。)と呼ばれる良田を所有した。名主が荘園領主や地頭に対して負担した租税は、年貢、公事、夫役などであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
〇国司
「大和国家の地方組織は,在地勢力である国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)等の支配する国・県等から成り,中央の朝廷が必要に応じて臨時に役人を地方に派遣することがあって,それが国宰(くにのみこともち)などと呼ばれることはあっても,庶政全般をつかさどる常駐の地方官というものは存在しなかった。・・・
<ちなみに、>国司<については、>・・・「十七条憲法」にすでにこの語がみえ<(注61)>,また大化改新のとき,東国の国司を任命したことがみえる。・・・
(注61)「十二に曰はく、国司(みこともち)国造(くにのみやつこ)、百姓に歛(をさめと)ること勿れ・・・」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
初期の国司はミコトモチとよばれ、宰、使者などと<も>記された。これに<一律>国司の字をあてる<ようになる>のは大宝令施行以後のことである。・・・
令制では,日本を 66国2島に分け,国を大,上,中,下の4等級として,それに応じた一定数の国司をおいたものと思われる。すなわち,守 (かみ) ,介 (すけ) ,掾 (じょう) ,目 (さかん) の4等官の国司が中央から派遣され,国の行政,司法,警察を司った。このうち,守は一国の政務を統轄して,行政,司法,警察のすべてにあたり,介は守を補佐して政務を代行し,掾は国内の非違を正すことをおもな職務とし,目が作成した文書の審査などを行なった。これらの下に書記や雑務をとる史生がいた。国司の任期は,令制では6年とされていたが,その後,特殊な地域を除いては4年と改められた。・・・実際の平均は2年ほど。・・・彼らの給与には,位田もしくは位禄,職分田などがあり,のちに公廨稲<(くがいとう)>が加えられた。
この国司の制度も8世紀には,兼任,権任 (ごんにん) の国司ができ,さらに・・・826)・・・年9月,上総,常陸,上野の3国を親王任国とし,その守を太守と称して公然と赴任しないようになると,任国に下向しない遙任国司が発生した (これに対して任国に下向して実務をとる守を受領〈ずりょう〉と称した) 。そのうえ,摂関,大臣などが欠員となっている国守の任命権を得て,その収入を得る知行国の制度が起ってくると,国司制度はさらに乱れていった。在京の国司はその私的代理人である目代を下向させ,在庁官人が実務をとるようになり,さらには目代までも在地土豪が任命されるようになり,地方政治は中央から離れていった。・・・
国司は荘園領主的地位を占めることになったといえる。・・・
鎌倉時代の守護の設置により,国司の権限はさらに縮小され,国司は有名無実となった。・・・
国司の名称は、中世の荘園制解体後も一種の称号として、明治維新まで存続した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%8F%B8-55734
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2 摂関政治の成立から院政の成立まで–藤原氏の隠された役割(その2)
(1)始めに
摂関政治の成立から院政の成立までの歴史は、従来、天皇家と藤原家の権力闘争の歴史として描かれてきたように思いますが、私は、それは、聖徳太子コンセンサスを受けた桓武天皇構想の中で、最初から想定されていた進展であって、天皇家と藤原家が協力をしながら、基本的に予定通りに進展させたものである、と、見るに至っています。
どうして、そんな歴史の進展をさせる必要があったのでしょうか。
私のヨミはこうです。
それは、武家の創出/封建制の導入、が、高度の政治的リスクを伴う営みだったからでしょう。
単純化して言えば、自力救済をいわば奨励することによって中央集権国家を地方分権国家へと作り変えるのですから、その過程で、全国的に相当程度の治安の乱れが生じることは避けられません。
万が一、戦乱状態にでもなったら、国の中央の権力者は、怨嗟の的となり、責任を取らなければならなくなります。
だから、武家の創出/封建制の導入にめどがつくまでの間、天皇は権威のみの担い手として祀り上げ、藤原氏が権力を担うところの、摂関制を成立させる必要があったのでしょう。
では、今度はどうして、それを院政に切り換える必要があったのか?
それは、実際に全ての武家にとっての棟梁家を選び出し、その家に権力を「下賜」できるのは天皇家しかないからであり、だからこそ、摂関制下の藤原氏は私の言葉で言う権力奉還を天皇家に対して行う必要があったのでしょう。
奉還先が、どうして、天皇ではなく上皇になったのか?
それもリスクの分散です。
天皇には権威だけ担わせて、権力を上皇が担うことにすれば、、地方分権化の最後のツメをしくじったとしても、その責任を上皇だけが負うことで、天皇、ひいては天皇家、が蒙る傷が少しでも軽くなるようにした、ということではないでしょうか。
(2)藤原氏における北家の嫡流化
では、まず、表記から行きましょうか。
下掲参照。↓
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[藤原氏における北家の嫡流化]
〇そもそも
前述したように、不比等は、最初から孫の房前、すなわち、北家、を嫡流化させることにしていたところ、そのことを、南家、式家、京家のそれぞれの本家筋の人々も承知しており、だからこそ、あえて、積極的に捨て駒になったり、消極的に政争の流れ弾にあたったりして、北家の総体的隆盛を図った、というのが私の見方だ。
また、これは、(北家の本家筋の人々、及び、南家、式家、京家の初期の本家筋の人々、だけが共有していたところの、)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、についての情報の拡散を防止するためにも、不可欠なことだった、と考えられる。
なお、念のためだが、これは、北家の嫡長男を代々藤原氏の本家とする、という意味では全くない。
すなわち、長男が適格者ではなかった場合、次男以下が本家を継ぐこともあれば、兄弟中に適格者がいなかった場合は、それ以外の藤原氏の適格者候補たる男子を、本家の猶子として迎えることもありえたわけだ。
〇南家の非嫡流化
「藤原不比等<の子であった>・・・四兄弟の長兄である<南家の祖の>武智麻呂は、廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、・・・737年・・・天然痘の流行のために他の兄弟とともに病没してしまう。
その後廟堂の実権は皇親の橘諸兄<(注62)>に移ったが、その下で武智麻呂の長男藤原豊成は順調に昇進し、・・・749年・・・右大臣に任ぜられる。
(注62)「初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、<三千代と再婚相手の不比等との間>の光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。・・・
国政<を>橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐<した。>・・・
純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂・藤原永手と諸兄の史上3人に限られる。・・・
諸兄の没後間もない同年7月に、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死している。・・・
初代橘氏長者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84
一方、同年孝謙天皇が即位して皇太后となった光明子の下に紫微中台が設置され、<光明子の>甥の仲麻呂<(後出)>(武智麻呂の次男)が長官(紫微令)に就く。仲麻呂は、紫微中台を太政官とは別個の国政機関としてその権限を強化していき、諸兄の子橘奈良麻呂が中心となってこれを排除しようと企てた乱も未然に防いで多くの皇族・他氏族のほか兄豊成を含めた政敵を一掃する。淳仁朝では、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議に任じ、自身は人臣初の太政大臣(唐風に改めて「大師」と称する)まで昇りつめたが、・・・764年・・・<反乱を起こし、・・>恵美押勝の乱<(注63)・・敗れ、殺害され>た。
(注63)「淳仁天皇<の時の>・・・764年<、>・・・孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。・・・
仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
⇒私見では、聖徳太子コンセンサス実施体制の構築・・実施そのものは北家に委ねるつもりだったはずだ・・を期した「正戦」だったが、脇の甘さと不運によって敗北したもの。(太田)
その後奈良時代末期から平安時代初期には、武智麻呂・房前の弟宇合に始まる藤原式家が台頭し、南家の勢力は低落する。桓武朝において、豊成の子継縄と武智麻呂三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となったものの、続く平城朝の・・・807年・・・に当時政権二番手、三番手の座にあった大納言藤原雄友(是公の子)・中納言藤原乙叡(継縄の子)が伊予親王の変<(注64)>に連座して失脚し、豊成・乙麻呂の系統も衰退した。
(注64)「桓武天皇の第三皇子である伊予親王<が>・・・平城天皇<の時に>・・・謀反<の嫌疑をかけられ、自殺し、>・・・伊予親王の外戚にあたる藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処された。また、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡が解任された。・・・後に・・・無罪が認められ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89
⇒これは交通事故に遭ったようなものだ。(太田)
嵯峨朝に入ると、武智麻呂四男巨勢麻呂の子孫である貞嗣・三守が中納言まで昇るものの、淳和朝に入るとしばらく南家出身の議政官が不在の時期が続くなど、大臣を出した北家(内麻呂・園人・冬嗣)や式家(緒嗣)に比べ勢力を伸ばすことができなかった。仁明朝では三守が右大臣に昇り南家から約50年ぶりの大臣となるが、わずか在任2年で没すると、以後急速に台頭した藤原北家や源氏の勢力に押され、30年以上も南家からは公卿を出せなかった。
平安中期以後は、巨勢麻呂の子孫が中下級貴族として続き、学者を多く輩出した。平安時代末期に平清盛と結んで勢威を得た院近臣藤原通憲(信西)はその代表である。また後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫から、堂上家である高倉家(室町時代末に無嗣絶家、江戸時代に再興して藪家(藤原北家閑院流四辻支流)に改号)が出た。
なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は、地方に下って各地の武家となり、工藤氏・伊東氏・伊藤氏・二階堂氏・相良氏・吉川氏・天野氏などを出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6
〇式家の非嫡流化
式家の祖の宇合(うまかい)の長男の広嗣が(天智朝復活を期して)天武朝に反逆して藤原広嗣の乱(注65)を起こして処刑された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3
のはむしろ誉というべきだが、宇合のひ孫で(薬子の兄の)仲成が、今度は、事実上復活天智朝に反逆した形で、薬子の変の際に反乱(注66)を起こして処刑された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3
ことでもって、式家は、北家に決定的な差をつけられ、次第に歴史の表舞台から姿を消すこととなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BC%8F%E5%AE%B6
(注65)「藤原不比等政権の末期から、日本は新羅に朝貢させることで安定した外交関係を築き、それを前提とした軍事縮小を行い経済的な余裕を持った。続く長屋王も軍縮路線を継承したが藤原四兄弟に討たれてしまう。藤原四兄弟は唐と対立する渤海と同盟し、唐を支援する新羅に軍事的圧力をかける外交方針を取った。それに伴い、西海道に節度使を置き大規模な演習を行うなど、軍事拡張路線に転じた。
・・・737年・・・朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。代って政治を担った橘諸兄は軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取った。 また、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
・・・738年・・・藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。この人事は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑があったが、広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
・・・740年・・・4月に新羅に派遣した遣新羅使が追い返される形で8月下旬に帰国した。憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送った。同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。・・・
<しかし、>官軍によって鎮圧され<、>・・・広嗣と綱手の兄弟<は、現地>で斬<られ>た。・・・
藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
(注66)「平城太上天皇の変<とも言う。>・・・810年・・・に平城上皇と<その弟の>嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89
〇京家の非嫡流化
京家の祖の麻呂の長男が藤原浜成(はまなり。724~790年)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B5%9C%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%BA%BB%E5%91%82
「氷上川継は、新田部親王の子・氷上塩焼と、聖武天皇の娘・不破内親王(<桓武天皇の妻で他戸親王の母である>井上内親王の同母姉妹)の間に生まれた男子で、天武天皇の曾孫にあたる。しかし、父の塩焼が藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、母の不破内親王も称徳天皇を呪詛したとして皇親の身分を奪われており、称徳天皇崩後の皇位継承候補には挙げられていなかった。しかし、父と母の両方を通じて天武天皇に繋がるその血統は、反政府勢力の期待を集めるとともに、朝廷側の警戒をも招いていた。
781年・・・4月に光仁天皇は皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位した。太上天皇となった光仁天皇は同年12月に崩御する。翌・・・782年・・・閏正月10日に川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入したところを、発見されて捕縛される事件が起きた。乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画を自白する。謀反の内容は、同日の夜に川継が一味を集めて北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆するというものであった。翌11日に川継を召喚する勅使が派遣されたが、川継はこれを知って逃亡したため、三関の固関と川継の捕縛が命じられ・・・14日に至って川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。・・・
<これを>氷上川継の乱(ひがみのかわつぐのらん)<と呼ぶ。>・・・
川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされ、川継の妻・藤原法壱も夫に同行した。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。さらに、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥として大宰府に赴任していたが、連座して参議を解任された。浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。この後、京家出身の公卿は、浜成の子・藤原継彦が従三位、孫・冬緒が大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。・・・
<なお、>参議左大弁・大伴家持と右衛士督・坂上苅田麻呂もその官職を解かれた<が、>・・・家持と苅田麻呂は同年5月には復職している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E7%B6%99%E3%81%AE%E4%B9%B1
⇒京家はもらい「事故」で没落したわけだ。
というわけで、結果的に、「目出度く」予定通り北家だけが残ったということになる。(太田)
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(3)摂関政治の成立と藤原北家
表記について、下掲参照。↓
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[摂関政治の成立と藤原北家]
〇嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)
「嵯峨天皇<の>・・・母は<桓武天皇の>皇后藤原乙牟漏<(おとむろ)だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
藤原式家の祖藤原宇合-良継-乙牟漏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E7%89%9F%E6%BC%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E7%B6%99
「806年・・・<5>月19日に兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたとも云われている。809年・・・4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位・・・。・・・
818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。・・・
漢詩、書をよくし、空海、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒後の嵯峨天皇は、父親の桓武天皇から、桓武天皇構想の推進中枢たるべく言い含められていたと見る。
上皇になってからも、実子の仁明天皇(天皇:833~850年)の治世の時にも、「国政<に>・・・頻繁に関与し<た>」(上掲)が、恐らくは、天台密教の直接継受を志した円仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
の希望に応えて、834年に「もはや遣唐使の意義が薄れたことを理由に、危険な遣唐使を再検討すべきだとの批判があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
にもかかわらず、事実上の最後の遣唐使派遣をを29年ぶり(上掲)に決め、838年に実現させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%B8%E5%97%A3
のは、時の嵯峨上皇だったと私は見ている。
死刑の廃止も遣唐使の幕引きも、私の言う拡大弥生時代から縄文モードの時代への転換示唆であるわけだが、桓武天皇構想の観点から言えば、死刑の廃止は、武家の卵達による、武家への変身過程での乱暴狼藉、が、「現行犯」以外では命まではとられないことを意味するし、遣唐使の幕引きは、武家への変身過程や変身後の武士の縄文性修復を最大目的とする神仏習合教確立のための材料集めが完了したことを意味する。(太田)
〇藤原冬嗣(藤原北家)(775~826年)
「桓武朝では大判事・左衛士大尉を歴任する。平城天皇が即位した・・・806年・・・従五位下・春宮大進に叙任されると、・・・807年・・・には春宮亮に昇進する等、平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めた。
⇒後の嵯峨天皇とのタッグを組ませる相手として、藤原北家の藤原冬嗣に白羽の矢を立て、後の平城天皇に、後の嵯峨天皇の皇太子起用と冬嗣をその皇太子付にするように命じた後、桓武天皇は崩御したに違いない。(太田)
<冬嗣は、>・・・809年・・・賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴って一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任される等、春宮時代から仕えた側近として嵯峨天皇からの信頼が厚く、・・・810年・・・に発生した薬子の変に際して、嵯峨天皇が尚侍の藤原薬子に対抗して、秘書機関として蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられる。
乱後の11月に従四位上に叙せられると、翌・・・811年・・・に参議に任ぜられ公卿に列す。その後も・・・、嵯峨天皇の下で急速に昇進する。遂には、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、・・・819年・・・には右大臣・藤原園人の薨去により、冬嗣は大納言として台閣の首班に立ち、・・・821年・・・には右大臣に昇った。・・・嵯峨朝後半には『弘仁格式』(・・・820年・・・完成)や『内裏式』(・・・821年・・・完成)の編纂を主導し、嵯峨親政体制の構築に尽力した。また、・・・812年・・・に父・内麻呂が没すると、冬嗣は左近衛大将の官職を引き継いで軍事面でも中心的な立場にあった。
淳和朝に入り、・・・825年・・・に淳和天皇の外叔父にあたる藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、押し出される形で冬嗣は左大臣に昇進するが、翌・・・826年・・・7月24日薨去。享年52。最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将。・・・娘で仁明天皇の女御であった順子所生の道康親王が・・・850年・・・に即位(文徳天皇)した際に、太政大臣を追贈された。・・・
政界での活躍の他、藤原氏の長として一族をまとめる事に心を砕き、・・・821年・・・に藤原氏子弟の教育機関として大学別曹の勧学院を建立、・・・813年・・・に氏寺の興福寺への南円堂の建立を行ったほか、光明皇后の発願で創立された施薬院の復興を行った。・・・
また、与えられた封戸を分けて貧しい人への施しを行ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3
「<冬嗣の父親の>藤原内麻呂<(756~812年)は、>・・・藤原北家、大納言・藤原真楯<・・藤原北家の祖・藤原房前の三男・・>の三男。官位は従二位・右大臣。桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82
「<母親の>百済永継<の>・・・父は・・・正五位下の・・・渡来人系の下級貴族であった<ところ、>・・・当初藤原内麻呂の妻となり、長男真夏、次男冬嗣を儲けた。後に桓武天皇の後宮で女嬬となるが、この時に天皇の寵愛を受け皇子を儲けた。しかし、この皇子は母・永継の身分が低かったためか親王として認められることはなく、臣籍降下させられ良岑安世と改名した。彼女自身も皇子を儲けたにもかかわらず従七位下という低い官位で終わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E6%B0%B8%E7%B6%99
「女孺(にょじゅ、めのわらわ)とは、後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除や照明をともすなどの雑事に従事した下級女官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%BA
⇒嵯峨天皇は、天皇時代から、藤原冬嗣を異常なまでに引き立てているが、その目的は、藤原氏に桓武天皇構想推進事業の最も困難でかつ汚れ作業的な部分を担わせるところにあった、と私は見るに至っている。
具体的には、
I 天皇家に先立って桓武天皇構想推進事業(武家/封建制創出事業)の露払いをやらせること、
II この大事業の失敗に備え、天皇家を無答責にするために、全責任を藤原氏にかぶらせるところの、摂関政治を藤原氏、就中北家本流に始めさせること、
III その上で、桓武天皇構想が、(天皇家はともかくとして、)藤原氏、就中北家本流の嫡流・・後の摂関家(最終的には五摂家)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6
より外に漏れないようにすべく、(武家/封建制が無事創出されて)封建時代になるまでに、摂関は藤原氏、就中北家本流の嫡流が独占する慣行を確立すること、
であった、と。
(この隠蔽工作が功を奏し、桓武天皇構想は、同じく隠蔽工作が行われた杉山構想同様、一般に殆ど知られることなく現在に至っている、というわけだ。)
ここでは、以下、「II」について記す。(太田)
〇太政大臣・摂政・関白
「通常「太政大臣」といえば、・・・大宝令・養老令の下での太政大臣を指す。太政大臣は太政官における最高の官職である<が、>・・・具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。・・・しばらく太政大臣は任命されることがなかった<ところ、>・・・
正規のかたちで太政大臣が任命された初例は、・・・[文徳天皇(注67)の時の]857年・・・2月の藤原良房<(注68)>である。
(注67)52代嵯峨天皇の子の54代仁明天皇の子たる55代。56代清和天皇の父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
(注68)804~872年。「冬嗣の次男。・・・823年<?に>・・・選ばれて嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁される。当時、天皇の皇女が臣下に降嫁する事は禁じられていたが、潔姫は既に臣籍降下していたため規定の対象外であった。それでも、天皇の娘が臣下に嫁ぐという事は前代未聞であり、9世紀において他にこの待遇を受けたのは源順子(宇多天皇皇女。一説には実父は光孝天皇)を降嫁された藤原忠平のみである。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF
「令の規定により皇女(内親王)は三世王(天皇の孫)までにしか嫁げないことになっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB
嵯峨天皇
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| 藤原房前(不比等次男)|
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| 藤原真楯(魚名兄) | 藤原魚名(真楯弟)
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| 藤原内麻呂 | 藤原末茂
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| 藤原冬嗣 | 藤原総継
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源潔姫=藤原良房(長良弟) 藤原順子=仁明天皇=藤原沢子 藤原乙春=藤原長良(良房兄)
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| | | 藤原基経(良房猶子)
藤原明子(あきらけいこ)=文徳天皇 |
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清和天皇 |
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陽成天皇 光孝天皇
「明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%8E%E5%AD%90_(%E6%9F%93%E6%AE%BF%E5%90%8E)
「良房との間に生まれたのは、後に文徳天皇女御となった明子ただ1人であり、他に妻を迎えられず後嗣に恵まれなかった夫・良房は甥の基経を猶子とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB 前掲
⇒嵯峨天皇(天皇:809~823年。上皇:823~842年)は、天皇時代の最後の仕事として、良房の父親の藤原冬嗣と相談の上、冬嗣の次男の良房に今度は白羽の矢を立て、将来、良房を太政大臣にする路線を敷いた、と見る。(太田)
ときの文徳天皇は、おりから病気がちであり、しばしば政務を執ることができないほど体調が悪化することがあった。一方で、皇太子惟仁親王はわずか8歳の幼少であった。文徳天皇としては、生母藤原順子の兄であり、正妻藤原明子の父であり、皇太子の外祖父であり、すでに右大臣として廟堂に重きをなしていた良房は、病身の自分を補佐するとともに、自分に万一のことがあった場合には前代未聞の幼帝として即位することになる惟仁親王の後見人として、もっとも頼りがいのあるうってつけの人材であったと言える。実質的には、良房の太政大臣任命は、いわゆる「人臣摂政制」の発足としての意味を持つものである。はたして文徳天皇は翌・・・858年・・・2月に死去、惟仁親王が9歳で践祚した(清和天皇)。・・・良房<は>清和天皇の践祚と同時に摂政に任じられた<ようだ>。良房は、順子や明子と協調しながら、事実上の摂政としての役割をはたしてゆくことになる。
清和天皇の良房に対する信任は篤く、成長しても良房に対する尊重は変わることがなかった。・・・866年・・・閏3月に起きた応天門の変による政情不安に際しては、同年8月に、非常事態を収拾するための大権として、あらためて良房に天下の政を摂行すべき由の勅を発している。形式的には、この時点が史上初の人臣摂政の任命とされている。さらに・・・871年・・・4月には、良房に三宮に准じて年官年爵を与えている(准三宮<(注69)>の初例)。
(注69)じゅんさんぐう。「太皇太后,皇太后,皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた人を准三宮,あるいは准后(じゆごう)という。・・・藤原良房が・・・初例で,以後皇族,女御,摂政,関白,大臣などに准三宮を与えられた例が多い。准三宮の待遇は,三宮と同じく,年官として掾1人,目1人,史生3人および内官1人,年爵として従五位1人を推挙する権利を賜るのが例であったが,後には年官・年爵は与えられず,一定の地位をあらわす尊称となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%87%86%E4%B8%89%E5%AE%AE-77692
良房が・・・872年・・・9月に死去すると、その立場は良房の猶子の右大臣基経に受け継がれた。清和天皇は、・・・876年・・・11月に皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位するにあたり、基経に良房と同じ摂政の任を与えている。さらに、・・・880年・・・12月には、その死去に臨み遺詔をもって「右大臣の官職は摂政の任にふさわしくない」という理由で基経を太政大臣に昇進させている。これ以降、摂政の職務と太政大臣の官職は一体のものとして観念されるようになってゆく。・・・
884年・・・2月に陽成天皇が廃位され、光孝天皇が践祚すると、基経は、陽成の退位により摂政の職務は解除されたものと考えた。一方、光孝は従前どおり基経の補佐を受けることを望んだ。
⇒光孝天皇が、親王時代に、桓武天皇構想を父親の聞かされていたのか、それとも、陽成天皇を廃位させた基経から明かされた上で天皇に即位したのかは分からないが、「鷹狩を復活させた<り、>・・・即位後相撲を奨励し<たりしている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
し、嵯峨天皇が考えたと思われる(?)、天皇無答責化計画にも、光孝天皇はコミットしたわけだ。(太田)
しかし、良房・基経の摂政がいずれも老練な重臣が若年の天皇を補佐するものであったのに対して、光孝天皇は基経よりも年長であった。そこで、従前のものとは異なる論理で摂政の職務を合理化する必要が生じた。ここで着目されたのは太政大臣の職務権限である。太政大臣であること自体に事実上の摂政の意味を求めようとしたのである。・・・
光孝天皇は・・・元慶8・・・年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政統べざるなし」との詔を発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しかし、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な権限があることも認めている。この後半の部分は、のちに関白を任命する際の詔にも決まり文句として継承されることになる。これは、摂政・関白と太政大臣が分離してゆく最初の契機ともなった。・・・
887年・・・8月に光孝天皇が死去し、宇多天皇が践祚した際にも、基経の特殊な権限は再確認された。同年11月、宇多天皇は「万機の巨細、百官己に惣べ、みな太政大臣に関わり白し、しかるのちに奏下すること一に旧事のごとくせよ」と詔している。これが「関白」ということばの初例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
「光孝は皇太子を立てることのないまま、即位から3年後の・・・887年・・・に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではないものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった<(注70)>。・・・891年・・・1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。・・・
(注70)「884年・・・6月7日に光孝天皇から政務の要請をされた際に、一旦これを辞退した際の藤原基経の返答に「如何、責阿衡、以忍労力疾、役冢宰以侵暑冒寒乎(果たして暑さや寒さに関係なく一生懸命に職務を行なうとしても、阿衡の責任を全うできるかどうか、私にはわかりません)」という語句を含めている。問題の「阿衡」という言葉を基経自身が用いていることより、基経が本当に「阿衡」の本来の意味を知らなかったのか疑問が持たれる。また・・・仁和4年6月2日条には天皇が以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する記述が残されている。
瀧浪貞子は、宇多天皇が「摂政」と「関白」を同じものと誤解し、さらに「阿衡」を基経に対する敬意を示そうと用い、基経はそれらの誤用に気づかせようとしてサボタージュしていたものと結論付けている。
一方、佐々木宗雄は、基経の本心は「阿衡」という言葉の正否よりも、光孝天皇の時に彼に与えられていた政務の全面委任(王権代行の権限)の授与を示す言葉が宇多天皇2度の詔には明記されなかったために、天皇が自己の政治権限の削除を図っているとの反感を抱いて、光孝天皇の時と同等の権限を求めたのではないかという説を立てている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%A1%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
瀧浪貞子(1947年~)は、京都女子大文(東洋史)卒、同大修士、筑波大博士。京都女子大教授、同名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E6%B5%AA%E8%B2%9E%E5%AD%90
佐々木宗雄(1948年~)は、同志社大文(英文)卒、同大博士(文化史学)。同大嘱託講師。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%97%E9%9B%84
⇒私の想像はこうだ。
源定省が光孝の内意であったことは事実であったところ、当然、桓武天皇構想は光孝から定省に伝えられている、と、基経は思っていたけれど、即位後、伝えられていないことを知った基経が説明したけれど、定省は基経が藤原氏の権力維持のための作り話だと思って取り合わなかったため、ストライキを起こして、定省の回心を促した、と。(太田)
宇多は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した。・・・
⇒しかし、宇多天皇は、回心することなく、藤原氏排斥を執拗に続けた、と見るわけだ。(太田)
宇多は・・・897年・・・7月3日に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている・・・。・・・
新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。・・・醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対した・・・また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
⇒宇多天皇がいかに藤原氏排斥を執拗に続けたか、だ。(太田)
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。・・・899年・・・10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
⇒「仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。
仁和寺の初代別当は天台宗の幽仙<(注71)>であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢<(注72)>に交替させた。これによって<仁和>寺は真言宗の寺院として定着した。
(注71)ゆうせん(836~900年)。「藤原北家魚名の裔。宗道の子。寛平二年(890)、権律師。同四年、律師」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yusen.html
(注72)かんげん(854~925年)。「(900年)に仁和寺別当となり、その後は弘福寺別当・権律師・東寺長者・醍醐寺座主・金剛峯寺検校を歴任し、・・・923年・・・には権僧正に任じられた。この間、般若寺を創建し、また奏請して空海に弘法大師の号を賜ったほか、高野山に宝亀院を建立するなどし、空海が唐から請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めて以後代々の真言宗長者の相承とするなど、東寺を中心として真言宗の再編を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E8%B3%A2
「教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺<は>恵運、・・・仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。<それが、観賢の時に>、東寺長者が真言宗の最高権威者とする制度が確立<し、>観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、教王護国寺東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立し・・・一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
という経緯なのだが、私のヨミはこうだ。
桓武天皇構想の実施は滞りがちになっていたところ、基経(~891年)死後、更に滞ることとなっていたが、死後6年目に宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、同天皇が、「譲位に際しての詔書で<基経の子の>時平と<菅原>道真に対して奏請と宣行の権限を与え、事実上政務を委ねる意思を示し・・・<更に>899年・・・時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に菅原道真も右大臣となった<が、>道真は宇多上皇の側近の地位を引き続き占め、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に対立が生まれつつあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%82%E5%B9%B3
出家した宇多天皇は宇多法皇として仁和寺伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住した。そのため、仁和寺は「御室御所」とも称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA
とまあ、以上のような背景の下、時平は、桓武天皇構想を明かすわけにいかないことから、その実施の障害以外の何物でもなかったところの、道真、について、901年正月に、彼の廷臣達内での人気のなさと過失に付け入り、個人的には親しかった道真を失脚させ(注73)、更に、引き続き桓武天皇構想の実施に積極的でない宇多上皇に政治を忘れさせて仏教にのめり込ませるべく、藤原北家魚名流出身の天台僧の幽仙に言い含め、真言宗の分裂状態の解消は喫緊の課題であり、そのためには、宇多上皇が真言僧を戒師として出家した上で、観賢を仁和寺の別当に任命し、仁和寺を天台宗の寺から真言宗の寺へと変え、観賢に真言宗の再統合を果たさせるべく、宇多法皇が仏教界とりわけ真言宗各寺に対して政治力を発揮すべきだ、と宇多天皇をたぶらかし、同じ901年の12月に出家させ、俗界の政治に対する関心を低下させることに成功した、と。(事実関係は上掲)
(注73)「道真は宇多の子で自らの婿でもある 斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
「近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
なお、醍醐天皇のことだが、「藤原高藤(藤原北家冬嗣の孫)・・・が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、弥益の娘列子を見初め一夜の契りでもうけた・・・胤子」が母親であり、彼女は「884年・・・頃、光孝天皇の第七皇子源定省と結婚。・・・885年・・・、長男維城(のち敦仁と改名)を産<み、>・・・887年・・・、夫定省が皇族に復帰し即位<し>(宇多天皇)<、>・・・894・・・年4月、敦仁親王が立太子<するも、>896年・・・に逝去<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%83%A4%E5%AD%90
ので、「阿衡事件などでこじれていた基経<(~891年)>との関係改善のためにも・・・<同事件後、宇多天皇に>入内<していたところの、>・・・基経女<の>・・・藤原温子<(おんし/よしこ。872~907年)>・・・東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)を猶子<にし>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%A9%E5%AD%90
のには、中納言に既になっていて、「<893年に>敦仁親王が東宮になると春宮大夫を兼ねてい<たところの、>・・・<やはり基経の子の>藤原時平」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%82%E5%B9%B3
であったと考えられ、時平は、爾後、敦仁親王が父宇多天皇から譲位されて醍醐天皇となる897年までの4年間に加えて、即位後も、最初は、自ら、そして温子が敦仁親王/醍醐天皇の養母となってからは温子をも使って、桓武天皇コンセンサスを敦仁親王/醍醐天皇にインプットし続け、同コンセンサスの熱心な推進者に仕立て上げることに成功した、と、私はふんでいる。
醍醐天皇は、「臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、・・・897年・・・7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位<し、>父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった<が、>・・・901年・・・、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった<ところ、>近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられて<いて、>同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
わけだが、このような、(宇多天皇と)醍醐天皇の事績は、以上のような、私が推測したような背景なくしては、十分な説明を行うことは困難であるように思う。
で、その後はこうなった。↓
「909年・・・、時平は39歳で早世した。<その弟の>忠平<(880~949年)>は次兄・仲平を差し置いて、従三位権中納言・蔵人別当・右近衛大将となり、藤氏長者となった。以後、醍醐天皇の許で出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる。・・・914年・・・右大臣を拝した。・・・924年・・・正二位に叙し、左大臣となる。・・・
・・・930年・・・9月22日に醍醐天皇は病が篤いため、[基経の娘の穏子(おんし/やすこ)(注74)(885~954年)との間の子である]朱雀天皇に譲位した。
(注74)「901年・・・醍醐天皇に入内、女御となる。・・・923年・・・4月26日、中宮に冊立。・・・903年・・・に保明親王を産み、保明親王は皇太子となるも早世、その子で孫の皇太孫慶頼王も僅か5歳で薨御したが、・・・さらに寛明親王(朱雀天皇)と成明親王(村上天皇)を相次いで出産して2代の国母とな<った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A9%8F%E5%AD%90 (本文中の[]内も)
「兄保明親王とその子慶頼王<を失った>穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%9B%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
同時に、基経の没後は長く摂政関白が置かれなかったが新帝が幼少であるため摂政に任じられた。9月26日、朱雀天皇が醍醐上皇・・・を訪ねた際、上皇は天皇を几帳の中に呼び入れ、五つの事を遺言した。その中で、「左大臣藤原忠平の訓を聞くこと」と話した(延喜御遺誡)。
・・・932年・・・従一位に叙せられる。・・・936年・・・太政大臣に昇り、・・・・・・941年・・・朱雀天皇が元服したため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。記録上、摂政が退いた後に引き続き関白に任命された事が確認できる最初の例である。この間かつての家人、平将門と遠戚である藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。
・・・946年・・・村上天皇が即位すると引き続き関白として朝政を執った。この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。・・・
忠平の長男は・・・実頼であり、弟の師輔は常にその後塵を拝していた。師輔は道真を祀った北野神社を支援し、角田文衛は師輔が道真の怨霊によって実頼の系統の絶滅を願ったのではないかと見ている。結果的に時平流の本院家も実頼の系統である小野宮流も没落し、師輔の子孫は摂関職を江戸時代まで継承する事となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
「<もっとも、>師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に<、自分の娘の>安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は<、同じく安子の生んだ>守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できた事が、後に師輔の家系の全盛に繋がり、長男・伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と実に五人の息子が太政大臣に昇進し、子供達の代で摂関家嫡流を手にする事となった<もの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E8%BC%94
すなわち、醍醐天皇と存命中の時平の協力によって、桓武天皇構想の実施は、摂関政治への(一時的(後述))移行を含め、完全に軌道に乗ったわけだ。
蛇足ながら、角田文衛(注75)の説は下司の勘繰り、というやつでしょう。
(注75)1913~2008年。京大文(史学)、同大院副手時代にイタリア留学、大阪市立大助教授、教授、(財)古代学協会・平安博物館館長兼教授、大谷大博士、古代学協会・古代学研究所所長兼教授、古代学協会理事長。「世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。主要な研究テーマは、日本の奈良・平安時代史、古代学方法論、古代ギリシア・ローマ考古学、ヨーロッパ・アフリカの旧石器考古学、ユーラシア北方考古学など広範囲に及ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E7%94%B0%E6%96%87%E8%A1%9E
師輔が怨霊の存在を信じていたかどうかはともかくとして、祖父の時平が、やむなく友人の道真を失脚させざるをえなかった事情、を、父親の忠平から聞かせれていた可能性が高く、にもかかわらず、同じ立場の、しかし出来悪の兄実頼(上掲)と違って、道真に対する心底からの慰霊の目的で、北の神社を支援した、というのが私の見方だ。(太田)
「基経が・・・891年・・・1月に死去したあと、基経の子孫たちのなかから、忠平、実頼、伊尹、兼通、頼忠が相次いで太政大臣に就任している。いずれも、まず、基経によって確立された摂政または関白の地位に就いてから、その地位にふさわしい官職として太政大臣に任命されるやり方をとっている。この間約100年、摂関と太政大臣はつねに一体のものとしてあった。
これが変化するのは、・・・986年・・・6月の花山天皇の突然の退位のときのことである。代わって践祚した一条天皇のもとで、天皇と外戚関係のない関白太政大臣頼忠は、一条天皇の外祖父の右大臣藤原兼家に関白を譲ることになった。一条はまだ6歳であったから、兼家は関白を改めて摂政となった。これまでの慣例からすれば、兼家が太政大臣となるのが自然な流れであるが、頼忠が引き続き太政大臣に在任しており、なんら罪があるわけでもない頼忠から太政大臣の官職を奪うことは困難であった(関白は、もともと天皇の交代とともに自動的に退任し、あらためて新天皇から指名されるものであり、頼忠に罪があって解任されたわけではない)。そこで兼家は、同年7月、右大臣を辞任した。太政大臣以下の太政官の既存の官職から超越して、ただ摂政という立場のみに基づいて権力をふるうことを選んだのである。兼家は准三宮となり、さらに、その後摂関の特権のひとつとして定着することになる「一座の宣旨」<(注76)>を与えられて、三公の上に列することとされた。
(注76)「一座(いちざ)とは、朝廷における宮中座次の最上位のことである。本来は太政官の筆頭大臣である太政大臣が一座に座り、不在の場合は左大臣が座ることになる。摂政・関白が設置されると、摂政・関白が一座に座った。ただし、摂政・関白が務める大臣職よりも上位の大臣が存在したり、摂政・関白が現在大臣の職に無い(前大臣)場合には、当該摂政・関白を一座に定める宣旨が出されることになっていた。これを一座宣旨(いちざのせんじ)と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BA%A7
このとき、摂関と太政大臣は決定的に分離した。太政大臣の実権は完全に摂関に吸収され、太政大臣は単なる名誉職へと変化することになる。
兼家は頼忠の死後短期間太政大臣を務めたが、父兼家の跡を継いで摂政となった藤原道隆は自らは太政大臣にはならず、かえって叔父の為光を推薦して太政大臣に据えた。・・・991年・・・9月、基経以来、摂関を経ずに太政大臣になった最初の例である。道隆はついに太政大臣になることがなかった。次の関白藤原道兼も同様である。ついで、藤原道長の短期間の在任をはさんで、・・・1021年・・・7月に道長の叔父公季がやはり摂関を経ずに太政大臣となった。太政大臣は摂関家庶流の長老を処遇するための名誉職として定着してゆく。
また、摂関の職が道長とその子息頼通の子孫(御堂流)に定着し、ときの天皇との外戚関係に左右されずに世襲されるようになると、摂関家に代わって皇后を輩出した家系から、かつての良房や基経のように、外戚関係を足がかりにして太政大臣に任じられる者も現れる。その最初の例は、・・・1122年・・・12月に太政大臣となった源雅実である。雅実は、白河天皇の皇后藤原賢子(藤原師実の養女)の弟であった。これ以降、これまでどおり摂関あるいはその経験者が太政大臣となる例と並行して、雅実が属する村上源氏のほか、公季の子孫である閑院流、やはり摂関家の庶流である花山院家・中御門流・大炊御門家へと次第に太政大臣就任者は拡大してゆく。「摂関にはなれないが太政大臣にはなれる家格」としての清華家が成立してくることになる。逆に、摂関家・清華家出身でない者が太政大臣に任命されることは、その家が清華家の家格へと上昇したことを意味した。平清盛と足利義満の例がこのケースである。
太政大臣が名誉職であることを前提に、太政大臣は「その職を務めて権限を行使すること」よりも「その職に任命されること自体に意味があるもの」となってゆく。「太政大臣」と「前太政大臣」とは、その意味においてほとんど同じものとなったのである。このため、太政大臣の在任期間は1年前後の短期間であることが多い。特に、清華家出身者が太政大臣となる場合、それはしばしば引退の花道を意味した。・・・1586年・・・12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
〇参考:改めて、摂政・関白について
「一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。・・・
以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。しかし、<上述したように、>866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことである。良房が摂政に任じられた当時、太政官では応天門の変と左右両大臣の籠居で揺れており、本来名誉職であった太政大臣の任にあって天皇の後見の職務に専念していた良房が政務を指揮するために摂政の職を与えられたと考えられている[2]。幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。
ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。・・・
藤原氏の下で摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年)藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。・・・
11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。
鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF
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(4)院政の成立と藤原北家
表記について、下掲参照。↓
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[院政の成立と藤原北家]
1019年に刀伊の入寇があったが、中央が関与する前に北九州の武士達によって撃退された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
ところ、当時の権力は、後一条天皇(1008~1036年。天皇:1016~1036年)・・藤原道長の外孫・・の下、摂政の道長に存したところ、道長は、摂関家の権力を天皇家に奉還することを決め、一条天皇の孫の世代の天皇の時までにそれを実現するプログラムを策定した、と、私は見るに至っている。
(参考)
(66)一条天皇 (68)後一条天皇
(69)後朱雀天皇 (70)後冷泉天皇
(71)後三条天皇 (72)白河天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
というのも、武家の創出にほぼ成功した以上、次第に朝廷から、白羽の矢を立てた武家全体の棟梁家に権力を移管していかなければならないところ、そんなことを摂関家が行うわけにはいかず、ひとまずは、摂関家から権威の主体である天皇家に権力を奉還した上で、天皇家から、直接、武家全体の棟梁家に権力を移管すべきだからだ。
とはいえ、この場合においても、リスク回避のためには、天皇家内において権威と権力の分離を図る必要があることから、院政という統治形態を道長はひねり出したのではないか、と見る。
桓武天皇構想では、武家の創出にほぼ成功したら天皇家に権力を奉還する、というところまでは盛り込まれていたのだろうが、その具体化を道長がやったのではないか、ということだ。
「兼通の最後の推挙により小野宮流の藤原頼忠が関白となったが、・・・979年・・・に頼忠は兼家を右大臣に引き上げてやり、<兼家は、>ようやく不遇の時期を脱した。次女の詮子を円融天皇の女御に入れ、・・・980年・・・に<彼女は>第一皇子・懐仁親王を生んだ。
同年正月、<道長は、>15歳にして従五位下に初叙した。その後、侍従を経て右兵衛権佐となる。
⇒道長を、兼家は頼忠に頼んで、右兵衛権佐、そして、986年に摂政になってからは、自ら、左近衛少将、右衛門督、と、次々に武官職に就けてやることで、武家創出計画の藤原氏所管期間の最終フェーズを道長に担わせるための識見を培わせた、と見る。(太田)
・・・984年・・・、円融天皇は花山天皇(冷泉天皇の皇子)に譲位し、東宮には詮子の生んだ懐仁親王が立てられた。兼家は懐仁親王の早期の即位を望んだため、・・・986年・・・6月に兼家と三男の道兼が中心となって策謀を仕組み、花山天皇を唆して内裏から連れ出し出家退位させてしまう(寛和の変)。この事件の際に道長は天皇の失踪を関白・頼忠に報告する役割を果たした。
<その上で、>速やかに幼い懐仁親王が即位(一条天皇)して、外祖父の兼家は摂政に任じられた。兼家は息子らを急速に昇進させ、道長も・・・987年・・・には従三位に叙し、左京大夫を兼ねた。翌・・・988年・・・正月、<道長は、>参議を経ずに権中納言に抜擢された。
これより以前に、道長は左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚し、・・・988年・・・には長女彰子が雅信の土御門殿で誕生している。続いて安和の変で失脚した左大臣・源高明の娘・源明子も妻とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
⇒道隆は出身の氏(高階氏)から初めて公卿に列したような人物の娘と、いわば恋愛結婚をして、彼女を正妻にしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%88%90%E5%BF%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E8%B2%B4%E5%AD%90
し、その弟の道兼は藤原氏の女子達しか妻にしていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
のに対し、この二人と同じく正妻の子であったところの、その弟の道長は、(広義の)天皇家の一人を正妻にしただけでなく、他に三人も妻にしており、藤原家からは二人にとどめた上、その一方は父親が定かではないような女性だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
道長に関しては、これは、(表向きは道隆か道兼と触れ回りながらも、)実は道長を最も高く評価して内々自分の真の後継者として白羽の矢を立てていた兼家が、権力奉還の時期近しとの認識の下、その実行に着手させるべく、(広義の)天皇家と内々の密接な調整ができるように、と、(広義の)天皇家から妻を迎えるように道長を諭し、自ら、その渡りもつけたからだ、というのが私の見立てだ。
そのために道長がまず実行したのは、摂関家の私兵を天皇家の近衛兵に仕立て上げたところの、大内守護(前出)(コラム#11506)の設置、だったのではないか。
また、息子のうちの一人の、これも、正妻の子ではない能信<(注77)>を実は最も高く評価して内々自分の真の後継者・・但し、摂関家の権力を放棄するという汚れ役としての、しかしだからこそ最も重要な任務を遂行させるという意味での後継者・・として白羽の矢を立て、言い含めた上で、権力奉還の具体的な実施計画を彼に策定させた、と、私は読んでいる。(太田)
(注77)よしのぶ(995~1065年)。「道長には頼通・教通を生んだ源倫子(左大臣・源雅信の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の室であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父であった源高明は既に故人で、さらに安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供らは嫡子扱いを受けて目覚ましい昇進を遂げたのに対して、明子所生の子息(頼宗・顕信・能信・長家)は昇進面で差を付けられていた。・・・
この状況の中で明子所生の兄弟は頼通と協調して自己の昇進を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶。公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。・・・
⇒人事権者は父親の道長・・995年7月から内覧、同9月からは内覧・右大臣・藤原氏長者・左近衛大将、997年7月からは内覧・左大臣、1016年から1年間は摂政、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%80%9A
であり、こういう噂話をあえて流布させるべく、両者間に若干の昇進差をつける人事を自ら行ったのだろう。
その狙いは、能信がそんな父親、ひいては摂関家そのものに否定的感情を抱くに至り、天皇家への権力奉還を企み、それに成功した、と、世間に信じさせるためだった、と。
思い出していただきたいのは、「紫式部は・・・1005<年>十二月二十九日に、時の権力者左大臣藤原道長の・・・北の方の鷹司殿倫子家の女房として迎えられ、・・・<道長の>長女の一条天皇中宮彰子に出仕し・・・た」
http://kokken.onvisiting.com/genji/genji061.php
ところの、<彼女が執筆した>『源氏物語』(・・「源氏物語は藤原道長の娘・彰子・・・(一条天皇の中宮)・・・のために書かれた<ものだが、それ>だけでなく、後には<彰子の>妹の妍子(三条天皇の中宮)のため、さらには、<息子の>頼通(後の関白)のために書かれた巻もあったと思います。・・・例えば若紫巻は彰子のため、玉鬘巻は妍子のため、夕霧巻は頼通のために書かれたものかもしれない、などと考えています。」という、『源氏物語』を書かせたのは道長であることを示唆する清水婦久子の説がある・・
http://www.hikariyugao.com/michinaganotame.html )
の、道長はスポンサーでありファンであった
https://benesse.jp/contents/history/fujiwaranomichinaga/
ことだ。(道長の正妻とそれに次ぐ妻の二人が「源氏」であったことも思い出そう。)
そんな道長にとって、自らフィクションを作り上げ、そのフィクションを流布させることなど、お手の物だったことだろう。(太田)
<能信は、>1006年・・・従五位上に直叙され、侍従に任ぜられ・・・右兵衛佐・五位蔵人を経て、・・・1011年・・・従四位下、・・・1013年・・・蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される。・・・
⇒このように、道長もまた、能信を、必要最小限度ではあるが、ちゃんと二つの武官職に就けている。(太田)
1014年・・・従三位に叙せられて公卿に列すと、・・・1015年・・・正三位、・・・1016年・・・従二位に叙せられ、・・・1017年・・・には参議を経ずに権中納言に任ぜられるなど、執政・藤原道長の子息として、急速に昇進を果たす。・・・1018年・・・正二位。
⇒道長(~1028年)は、息子で後任の摂政・関白になった頼通を通じて、能信を急速に出世させることでもって、上述の、極め付きに重要な任務を遂行させるための箔付けを行ったわけだ。(太田)
1037年・・・後朱雀天皇の中宮に三条天皇の皇女・禎子内親王(のち陽明門院)が決まると、中宮大夫に任じられてこれに仕える。既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい中宮としての入内が確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営に立った。加えて禎子内親王所生の尊仁親王(のち後三条天皇)の後見人も引き受けることになった。・・・1045年・・・に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするよう遺詔を得たとされる。
だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろうと噂され、春宮・尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。・・・
以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、・・・1065年・・・2月9日薨去。同母兄の右大臣・藤原頼宗の急死で大臣への道が開かれたその僅か6日後のことであった。享年71。最終官位は権大納言兼春宮大夫正二位。
⇒頼通は、異母弟の能信が右大臣以上への昇進を果たせるよう、亡き父道長から厳命されていたはずだ、と見る。しかし、能信の死がそれを不可能にしてしまったわけだ。(太田)
その3年後の・・・1068年・・・後冷泉天皇が男子を遺さずに崩御すると、尊仁親王が即位(後三条天皇)する。続いて、・・・1073年1月・・・に茂子所生の皇子である白河天皇が即位した。翌・・・1073年・・・5月の後三条天皇崩御直前には能信は正一位・太政大臣の官位を贈られている。白河天皇は能信について必ず大夫殿と尊称したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%83%BD%E4%BF%A1
⇒あの世で、能信は、さぞかし、父道長と手を取り合って喜んだことだろう。
後三条天皇とその子の白河天皇が能信にここまで敬意を表した理由は明白であると言わなければならない。(太田)
「後三条天皇<は、>・・・宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇<だった。>・・・
<そもそも、>後朱雀天皇が尊仁親王を兄・親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟にと考えていたのを、頼通が抑えていたのに対し、<藤原>能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟となる事が出来た<ものだ。>・・・
⇒これも、故道長が二人に残していった脚本を、頼通と能信が演じた(、というか、そう演じたという話を流布させた、)ものだろう。(太田)
頼通が・・・引退した後、<その>弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。・・・
後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに・・・1069年には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令<によって>、・・・基準外の摂関家領が没収される等・・・、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし、・・・これ<は>延久の善政と称え<られ>ている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった。
また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。
1072年、即位後4年にて第一皇子・貞仁親王に譲位して太上天皇となり、院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒いや、もちろんそうではなく、後三条天皇は、能信から吹き込まれていたと私が見ているところの院政を実現することで、自分の時に、一時的に天皇に権威と権力が集中したところ、権威と権力を再び分離し、上皇が院政を敷いて権力を掌握し、その子たる天皇が権威を担う体制への移行を目指すも、志半ばで死去してしまった、ということだったはずだ。
なお、北面武士の「創設の時期は、白河法皇の政治介入に批判的だった関白・藤原師通が急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(1099年〜1104年)と推測される。<(>当初の北面は近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラスであり、・・・1118年・・・、延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという・・・。<)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E6%AD%A6%E5%A3%AB
ということになっているが、いよいよ権力奉還と天皇家内における権威と権力の分離がなされた以上、大内守護を、摂関家の家人たる武士達で更に増強した上で、それを、権威の担い手である天皇の兵たる大内守護と、権力の担い手である上皇の兵たる北面武士に分割した、ということだ、と、私は受け止めている。(太田)
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とにかく、これだけ、藤原氏は、飛鳥時代から平安時代末までという長期間にわたって、天皇家のために、というより、日本のために、いわば家業として献身し続けてきて、ために、その間に、大勢の犠牲者を藤原氏の中から出した、という巨大な功績に報いるため、と、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、及び、その帰結が武家が日本の権力を担う体制の到来であったこと、が、歴代の武家全体の棟梁家の当主クラス以外には漏れないようにするため、に、天皇家と藤原氏のコンセンサスの下、藤原氏の本家筋の藤原北家が上級貴族を独占することとなって、そのままの形で、日本は幕末を迎えた、というわけです。
四、終わりに
聖徳太子コンセンサスにしても桓武天皇構想にしても、文献典拠類は全くない以上、そんなものはフィクション、いや、妄想、の域を出ないのではないか、と、いう批判が予期されます。
その伝で行けば、島津斉彬コンセンサス/杉山構想だって、前者こそ『島津斉彬言行録』という文献典拠が残されているけれど、杉山構想の方は文献典拠は全くない、ということからして、半分はフィクションないし妄想ではないか、ということになってしまいます。
ここで、私が、歴史解釈にあたっての補助線、というものに注意を喚起してきたことを思い出して欲しいですね。
幾何の問題で、補助線は目に見えないのですが、それを引いてみることによって、解答に容易に到達できた、という経験を皆さんもお持ちでしょう。
歴史の解釈で、同様、目には見えないのだけれど、補助線的なものを思い描いてみると、解釈がより一貫性のあるすっきりしたものになることがありうる、ということです。
更に言えば、そういう場合、この補助線的なものは、目には見えていない・・文献典拠がない・・けれど、実在していた、と考えてどうしていけないのか、です。
そもそも、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想にしても杉山構想にしても、そのいずれも、秘匿、隠蔽すべき理由があったのですから、文献史料がなくて当然ですしね。
そんな重大な補助線的なものが日本の歴史にあったとすれば、秘匿しきれるものではあるまい、との反論が予想されるけれど、これも、何度か申し上げてきたように、私が防衛庁在職当時に接した機密事項で、現在でも日米間で重大な意味を持って生きているものが複数ある・・しかも、それらには文献典拠群が防衛庁/防衛省の機密文書保管金庫にしまわれて残っているはずだ!・・けれど、私がこれら機密に接した当時からすでに40年内外経過しているというのに、依然として全く世間に漏洩していない、ということがあります。
日本の政府関係者の口は、形式上だけではなく実質的にも機密である事柄については、意外に固い、ということを、この私の実体験が物語っています。
それに、日本には、(恐らくは)独自のもの(コラム#11554、11556(どちらも未公開))、に加えて、インド由来の仏教に由来する、機密の事柄に係る、確乎たる口伝(注78)の文化、があるのですからね。
(注78)「口伝<とは、>・・・文字によらないで口伝えに教法や作法を師から弟子へ伝えることをいう。口訣(くけつ)、口授(くじゅ)、面授などともいう。授受する当事者同士以外に知られたくない秘法を伝える場合に用いられるのが通例で、古くは古代インドのベーダ文献であるアーラニヤカ(森林書)やウパニシャッド(奥義書(おうぎしょ))などもひそかに師から弟子へ口授された。
仏教ではとくに祈祷(きとう)の秘法秘術を扱う密教において重要視されてきた。
わが国では真言密教(東密(とうみつ))でとくに重んじられて、略して「ロイ相承(そうじょう)」あるいは単に「ロイ」などと称し、なかでも仁海(にんかい)に始まる小野流は口伝為本(くでんいほん)の流儀を形成した。・・・
口伝は本経,儀軌よりも上位にあるとされて,その間に相違のある場合は口伝によるべしとされた。・・・
天台密教(台密(たいみつ))も東密同様に口伝を重んじたが、天台宗学自身も平安末期以後に重要視するようになり、種々の口伝法門(ほうもん)を生じた。天台本覚法門(ほんがくほうもん)はその所産である。鎌倉新仏教の各宗も大なり小なりその影響がある。また仏教に限らず、・・・猿楽,楽,・・・華道、茶道、和歌、香道、武芸などでもその派独自の秘技秘法があり、口伝が重んじられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E4%BC%9D-55629
「密教においては,仏陀,菩薩などを対象にした・・・念誦(ねんじゅ)<や>・・・供養などに関する規定を重要視し,これを儀軌と称する。・・・師授を重んずるから公開されないものが多かったが,明治以後の大蔵経などには多数の儀軌が収められるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%84%80%E8%BB%8C-50088
ですから、私が提示してきたところの、歴史解釈上の諸補助線的なものを否定しようと思ったら、逆に、否定が裏付けられる文献典拠を見つけた上で行わなければなりません。
一種の悪魔の証明ですがね。
それができない限り、これらの諸補助線的なものは実在している、と見なさざるを得ない、ということです。
なお、この際、申し上げておきたいことは、唯物史観の正反対みたいな話ですが、人間の歴史は、特定の個人の人生にせよ、社会の歴史にせよ、どちらも所与の環境の下で展開するのだけれど、どう展開させるかは、前者は当該個人の意思が、後者は当該社会の指導者達の意思が、決めるということです。
(もとより、人間個人の意思が、所与の環境それ自体を作り変えることさえあります。大きなもので言えば、農業革命や工業革命・・いわゆる産業革命・・がそうです。)
日本列島の社会の歴史の場合で言えば、決定的だったのは、厩戸皇子と聖徳太子コンセンサス信奉者達の意思、及び、島津斉彬と島津斉彬コンセンサス信奉者達の意思、である、というのが、太田日本史史観の核心であるわけです。
最後の最後ですが、厩戸皇子と聖徳太子コンセンサス信奉者達が為し遂げたのは、所与の環境たる、縄文性を基調とするプロト日本文明中の諸素材でもって縄文的弥生人と彼らが担う弥生文化を創り出し、縄文性と弥生性が総合されたところの、日本文明、の創造であったこと、しかし、その日本文明が今や日本列島の社会からは失われてしまったこと、しかし、その日本文明が支那の中共なる最新「王朝」によって総体継受がなされつつあること、を、皆さんには、改めて肝に刻んでいただければ、と思います。
(ところで、この原稿を執筆している間に、私が、未公開コラム中で、大津透が隋の時代の日本が未開であった的なことを書いているのに反発して、当時の日本も文明国であった的なコメントを付した(コラム#11556(未公開))のですが、その折、私が日本文明と言ってきたものに、当時までのもの、と、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想実施開始後のもの、の、二種類があるのだから、それぞれに別個の命名をして書き分ける必要がある、ということに気付きました。
そして、その折、支那においても、漢人文明が滅亡してから、騎馬遊牧民系の人々と漢人達による新たな文明が成立したと見るべきではないか、ということにも気付きました。
で、前者については、ツイッター/コラム(#11555)で読者にアイディアを出してくれるように呼び掛けたのですが、反応がありませんでした。
そこで、私の方で、日本については、「プロト日本文明」と「日本文明」、支那については、「漢人文明」と「中華文明」、と、いう命名をさせていただくことにしました。
その上で、本原稿中の「日本文明」を、「プロト日本文明」と「日本文明」に書き分けたものが、皆さんが読まれている、この原稿最終版なのです。)
これは、日本は、戦後、日本文明からプロト日本文明への先祖返りを続けてきてついにそれを果たした、ということになるし、支那は、過去において、文明の切り替えを一度経験していたからこそ、戦後、中華文明から日本文明へと、二度目の文明の切り替えを行うなどという、破天荒の試みに挑戦する気になり、現にそれを行いつつある、と言うこともできそうですね。
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太田述正コラム#11558(2020.9.26)
<2020.9.26東京オフ会次第(その1)>
→非公開